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平山瑞穂 『マザー』 : 〈懐かしいあちら側〉へ

書評:平山瑞穂『マザー』(小学館文庫)

とんでもない傑作というのは、時に不遇である。
それは多分、その小説としての体積が、多くの読者の器から溢れてしまうからだろう。
溢れたものを味わえるのは、溢れた先の世界に感性を持っている者だけなのではないか。
それは必ずしも「何でもわかる」といったような、一般的な読解力の高さや頭の良さの問題ではなく、例えばある種の「霊感」のようなものだ。「その世界」の「におい」や「光」をあらかじめ知っていて、「ああ、これだ」を気づくような感性なのだ。

平山瑞穂の作品には、そういう「におい」が、いつも漂っている。作品によって濃淡はあるものの、たしかに平山の描く世界の基底には「向こう側の世界」が息をひそめているのだ。

もしも私がこの世界に生まれていなかったら、もしも私が生まれ変わったとしたら、「あちらの世界」で「こちらの世界」のかすかな「におい」を感じながら、しかしそれは「存在しないもの」だと言い聞かせながら、そちらの日常を生きているのではないだろうか。
一一そんなふうな既視感を、平山瑞穂の作品は強烈に喚起する。

平山の「文章」は、まるで「読む覚醒剤」のような力を持っている。

私は、平山瑞穂の「遅れてきた読者」だが、それでもこの作家に出会えた幸運を喜ばずにはいられない。
もともと、こちらの日常とあちらの日常とがどこかでつながって、いつのまにかその境界線を踏み越えてしまう、といった物語が大好きなのだ。
例えば、山野浩一、荒巻義雄、中井英夫、P・K・ディックといった小説家の作品がそうだし、デイヴィッド・リンチ監督の映画などもそうだ。

だから、最初に読んだのは『ルドヴィカがいる』で、その次が『ここ過ぎて悦楽の都』だった。どちらも「あちら側の世界」に踏み込んでいく物語だ。
これらの物語には、いずれも平山瑞穂のかもしだす「あちら側の世界の、懐かしいにおい」が濃厚に漂っていた。
しかし、物語の結末には、どこか収まりの悪さも感じさせられた。

しばらくして短編集『全世界のデボラ』を読み、「やっぱり、この人にしか期待できない世界がここにある」と確信した。「十月二十一日の海」は、私の短編小説オールタイムベストテンに入る稀有な傑作だった。
私が求めていたのは、単に「こちらの日常とあちらの日常とがどこかでつながって、いつのまにかその境界線を踏み越えてしまう」という物語ではなく、「懐かしいあちらの世界に還っていく」ような物語なのだと気づいた。
境界線を踏み越える手前では、怖れや躊躇も当然あるけれど、しかし、それは決して「不幸への道」ではないのである。

これまで読んできた平山作品の中では、『マザー』はまちがいなく「完成度の高い」傑作である。
この作品ならば、平山の「におい」に鈍感な読者でも、その「壮大さと切なさ」に巻き込まれ、酔わされ、連れ去られるのではないだろうか。
この作品を読んで、それでも面白いと思わない人は、小説など読むのはやめて、映画を観たりマンガを読んだりした方がいいとさえ思う。
平山作品は、文章でしか創造できない世界なのだ。決して映像化などできない。
なぜなら、映像作品では、平山の発する「幻臭」を再現することなど出来ないからだ。

どのようにすれば、平山瑞穂の魅力を表現できるのだろうと迷いながら、まとまりのない文章を連ねたが、最後に、本作『マザー』について、一部の人にだけは多少なりとも伝わるのではないかという、即物的な説明をしておこう。

『マザー』の世界は、昔の特撮ドラマである『ウルトラQ』や『怪奇大作戦』に通じるところがあるし、さらに言えば、脚本家・佐々木守の伝奇サスペンス『三日月情話』の世界ともつながっていよう。
そんな「ほの暗き異世界」への通路が、この時代にもまだ生きているというのは、選ばれた読者への奇跡的な「恩寵」以外の何ものでもないのではないだろうか。

初出:2019年7月14日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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