ロベール・ブレッソン 『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』 : 禁欲者の 怖れと傲慢
書評:ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』(筑摩書房)
フランス文学者で映画評論家、と言うよりも今では芥川賞受賞のベテラン小説家と言った方が通りが良いかもしれない、松浦寿輝の翻訳になる、フランスの映画作家ロベール・ブレッソンの、映画創作における「覚書」である。
長くて4行ほどの短文集だ。
本書の構成は、ブレッソンの良き理解者であったフランスのノーベル文学賞作家ル・クレジオが寄せた「序言」のあと、本文としてブレッソンの「覚書」が、「1950-1958」「その他の覚書 1960-1974」の2章に分けて収められ、それに、松浦寿輝による「訳者後記」と「ロベール・ブレッソン・フィルモグラフィ」が付録している。
私の場合、これまで観たブレッソンの映画は、2本だけだ。観た順に『ジャンヌ・ダルク裁判』『田舎司祭の日記』である。
ブレッソンを見ることにしたのは「ブレッソンという個性派の映画作家がいる」と聞いて「1本くらいは、試しに見ておくか」程度の気持ちでしかなく、『ジャンヌ・ダルク裁判』を選んだのは中古DVDが安かったからというのと、私が趣味でキリスト教の研究をしているためである。後者の点では、単なる映画ファンより、見えるものがあるはずだと考えたのである。
で、『ジャンヌ・ダルク裁判』を見て、この作家の個性は、すぐにわかった。一言で言えば「ストイック(禁欲的)」なのである。
この『ジャンヌ・ダルク裁判』などは、歴史資料をもとに淡々とジャンヌ・ダルクの裁判を再現した、およそ「ドラマ性」を排した作品であり、ブレッソンが「ドラマ性」とほとんど同義的なものとしての「わざとらしさ」というものを徹底的に嫌っているというのが、とてもよくわかった。
だから、ブレッソンファンの中にも、ブレッソンのそんな作風を「ドキュメンタリー風」と評する人もいるようだが、これは筋違いの形容だと私は思う。
なぜなら「ドキュメンタリー」というのは、基本的に「あるがまま、見えるがまま」をフィルムに移し撮って、それを観客に見せようとするものだが、ブレッソンの場合には「表面的な虚飾と錯誤を剥ぎ取って、本質を取り出そう」とする積極性があって、その意味では「あるがまま、見えるがまま」とは、真逆のものを目指していると言えるからだ。そうでなければ、こんな「面白くもおかしくもない」映画を、好んで撮るわけがない。
ブレッソンの場合は、世間で「面白おかしい」と感じられていることが、むしろ「不愉快な虚飾」なのである。そうしたものを、徹底的に排除するからこそ、良い意味で「面白くもおかしくもない」作品に仕上がっているのだ。
当然これは、決して「演出しない」ということではなく、「通常の演出的なものを排除する演出」だということなのだ。つまり、ブレッソンの映画は、まぎれもなくブレッソンの「美意識=欲望」によって「染め上げられている」のだけれども、その好みが「モノクロの美学=雑音排除の美学」だったから、「禁欲的」という印象を与えるだけなのである。
「禁欲者」というのは、おおむね、人並はずれて「欲望」の強い人であり、ありきたりの欲望になど妥協できない人なのだ。そんなものはゴミだとしか思えないから、徹底的に排除するのであって、決して「禁欲的」なのではない。むしろ「やりたい放題」だし、そうでありたいという欲望を、人並み以上に持った人なのである。
さて、ここで、一般に、ブレッソンがどういう作家だと考えられているか、それを代表する文章をいくつか紹介しよう。
まずは「Wikipedia」から。
簡単に言えば「自身の美意識に徹底的にこだわり、それにそぐわないものは徹底的に削ぎ落としていくタイプの作家」だということになろう。当然のことながら「みんなと仲良くやっていけるタイプ」ではない。
しかし、また、それでいながら、彼が「カトリック」であるという事実は、意味深長である。
というのも、彼の「禁欲的」という印象は、カトリック的なテーマを扱っているから、そちらに引っ張られた「形容」になりがちだということなのだが、実際のところ、私が書いたように、彼は、人並はずれて「倒錯した快楽主義者」だと言っていい。「禁欲主義者」とは、しばしば「マゾヒスト」なのだが、ブレッソンには、その気が確実にある。
だが、彼がカトリックだからこそ、人は彼の「美学の偏狭さ」を否定することはあっても、彼を「変態性(趣味性)の作家」だと呼ぶことはない。一一だが、事実は事実だ。このような「解釈」は、ブレッソン本人にも否定できないものなのだ。
次は、ル・クレジオによる、本書の「序言」から。
ブレッソンを「肯定的に語ろうとするのなら」ば、こういう言い方になるのは、ごく当たり前なことであり、ブレッソンを高く評価する評論家やファンの「形容」も、大筋で似たようなものであろう。と言うか、こっそりと「ル・クレジオの口真似」をしている者も少なくはあるまい。なにしろ、ル・クレジオは「ノーベル文学賞受賞作家」なのだから、その評言に合わせておけば「大筋で間違いない」と考えるからである。その人の「権威主義的な順応主義」という「反ブレッソン的な感性」において。
次は、本書の翻訳者である松浦寿輝の「訳者後記」から。
「訳者後記」の冒頭部分だが、まあこのあたりは「読者が期待するブレッソン像」をなぞって見せる「あらすじ」的なものと見て良いだろう。だが、『であるかもしれない。』『言ってもいいかもしれないが』といった言い回しを読み落としてはならない。
まして、松浦寿輝という作家が、どのような個性を持ち主かを知っている読書家なら、松浦の、この「嘘ではない紹介文」を鵜呑みになどできないはずなのだ。松浦は「禁欲主義者」からは程遠い、しかし、いささか臆病な「快楽主義者」なのである。
だからこそ松浦は、この「訳者後記」の後半で、そのあたりをきっちりと補足している。
そうなのだ。知ったかぶりで映画マニアぶって、ブレッソンファンだなどと気取ってみたところで、その大半は「見る目のない観客」に過ぎないのだから、少々の「独善」でも「嘘」でも自信満々に押しつけたさえやれば、それで彼らは、喜んでそれを受け取るに決まっている。
つまり、ブレッソンを、ただ「禁欲的な作家」だの「ドキュメンタリー的な絵を撮る作家」だのと評する者というのは、投げ与えられた餌を咥えて、そこいらを走り回っている、少々おつむの足りない犬みたいなものなのである。
私が、『ジャンヌ・ダルク裁判』『田舎司祭の日記』の2本の映画から感じ取ることのできなかったものを、本書から感じたのは、まず、本書の第1章をなす「1950-1958」の覚書での、まったく揺らぎのない、ブレッソンの物言いにあった。
この言葉に典型されるように、ブレッソンの場合に特徴的なのは、自分のやり方は「揺るぎない真理」に基づく正統なものだという、その確信犯ぶりだ。
所詮「シネマ(映画)」なんてものは「複製品の偽物」だが、私の「シネマトグラフ(活動写真)」は「本物の創造」であると、これは、そういう意味である。
もちろん、そういう「信念」を持って、我が道を行くのは、大いに結構なことである。
仮に、その信念が間違っていたとしても、信念もなくフラフラしているような輩の作るものより、少々モノマニアックに頭のおかしい奴の作るものの方が「面白い」というのは、常識的な創作論であろう。
作家というのは「性格円満な人格者」であるよりも、むしろ「人格的に一部が欠損した、問題含み人間」の方が良いものを作るというのは、創作の世界では常識に類する議論なのだ。
したがって、ブレッソンの「倫理」が、「社会道徳的に素晴らしい」必要はない。彼の倫理は「独善」でしかないもの、ほとんど内容的には「独りよがり」でしかなかったとしても、それが「非凡な強度」を持っているのであれば、それも一種の「美意識」として、人並みのものしか持たない者などよりは、よほどクリエーター向きなのだ。
創造神とは、魔物であっても良いのである。
ところが、ブレッソンのことを、世間並みに「良い意味」での「禁欲主義者」だと思っていた私は、本書第1章のブレッソンの言葉の、そのあまりにもモノマニアックな「確信」ぶりに、「これは変だ」という違和感を覚えずにはいられなかった。
結局、私は、前記2本の映画において、「ブレッソンという人」を、いささか買い被りすぎていたのである。
だが、幸いなことに、本書第1章におけるブレッソンの「確信」は、第2章に入ると、かすかに揺らぎを見せ始める。それでこそ、人間だ。
第1章のブレッソンからすれば、いささか不似合いな、どこか自信なげな言葉だが、これも間違いなく彼の言葉であろう。
だが、「彼にも、気弱なところはあった」とか「迷いも、自己懐疑もあった」と言いたいのではない。そんなことは、当たり前なのだ。それが無ければ、その人は精神異常でしかない。
要は、第1章「1950-1958」の覚書のブレッソンは、そうした部分を「隠していた」にすぎない、ということだ。以前は「強気でいく」という戦略を採っていたのだが、その戦略を第2章に入るあたりから切り替えていったのである。
つまり、じつのところ第1章の頃だって、上に紹介した(1〜4)のようなことを、ブレッソンは考えていたはずなのだが、それはすべて「抹消」されて、強気な部分だけが残された。それはたぶん、それほど彼が「不安」だったということだろう。当然のことながら、彼も「孤立」の中で生きることに苦しみを感じてはいたのだ。だが、それをひと言でも漏らしてしまうと、自分というものがガラガラと音を立てて崩れてしまいそうだったので、「いや、俺はそんな弱い人間じゃないし、そもそも間違っているのは奴らの方なんだから、おれは自信を持っていて当然なのだ」と、そう孤独に自己鼓舞していただけなのである。
だが、本来、ブレッソン自身が忌避していたはずの「映画賞」によって、世間的な「権威」が与えられると、「権威」を得た安心感からか、自身の「弱み」を他人に見せることもできるようになった。「私も人間である」と。
だが、これもまた「世間的な権威」を受け入れてしまった「自己矛盾」を誤魔化すための、意識的な戦略だと見て良いだろう。観客たちには、自分(ブレッソン)の見せたいものを見せてやれば良いのである。同時にそれは、「ブレッソンは、誠実である」という「願望される偶像」でもあり得るからだ。
ともあれ、ブレッソンが「禁欲的」だとか「誠実」だといった「紋切り型」の評価というのは、典型的に「ハリウッド的」な、あるいは「シネマ的」な、通俗的見方でしかないと言えるだろう。そんな、バカ丸出しの見方は、ブレッソンの美学からしても、確実に「ゴミ」である。
だから私たちは、もう少し繊細に、ブレッソンを見て、的確に評価していかなくてはならない。ブレッソンも言っているではないか。
まさに、そのとおり。私とあなたは、別の存在なのだから、そもそも「完全なる(他者)理解」などというものはあり得ない。だからこそ、すべての『酷評も称賛も』所詮は『何らかの誤解から発するもの』にすぎないのだ。
例えば、ある人が、ある作家を評して、その作家が「まさにそのとおり」だと思ったとしても、しかし、そもそも、その作家の「自己理解」が正しいという保証などどこにもないのだから、その点では、両者の意見が一致したところで、その「解釈」が正解だという保証など、どこにもないのである。
つまり、あるのは、すべて「個々の解釈」でしかなく、それがたまたま合致した時に「あなたの理解は正しい」などと思いがちだが、それは単に「異種の誤解の、偶然的な相似」でしかないと考えた方が正確なのだ。私はあなたを理解できないし、あなたも私を理解できないのだから、これは当然の話である。
まただからこそ、評価・解釈において必要なのは「真理を突いているか否か」ではなく、「より洞察に満ちているか否か」ということになる。
「深い洞察」が、より「真理」に近いわけではなくとも、その「深さ」において、人間の世界は、より広がるからだ。
(2024年2月23日)
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