Kashmir 『てるみな 東京猫耳巡礼記(4)』 : 日常世界と異界の〈逆転〉現象
書評:Kashmir『てるみな 東京猫耳巡礼記(4)(楽園コミックス・白泉社)
「鉄道幻想マンガ」の傑作シリーズ第4巻。鉄道が大好きな猫耳少女が、電車に乗って不思議な世界に迷い込むというお話だが、本巻の帯には、
とある。
つまり、本巻は「電車に乗って、不思議な世界へ行く」お話に止まらず、鉄道に関わりながらも、主として「不思議な世界」の方を描いた作品集だと言えるだろう。
この違いは、なかなか微妙だが、たぶん作者にとっての「不思議な世界=異界」が、電車に乗って移動するという過程を経なければならないような「どこか遠く」ではなく、ごく「身近(の裏側)」に(接して)あるものと感じられるようになってきた、という「変化」を示しているのではないだろうか。
例えば、本巻のエピソード「PIPE」や「TUNNEL」に描かれる「内臓」的な世界は、以前にも同種のものが描かれており、明らかに作者の「胎内回帰願望」を思わせるものなのだが、そこには以前ほど切迫感が無いように感じられる。
これは、作者のそうした願望が薄れたということではなく、むしろ「生の感覚」が、以前より身近に(生々しく)感じられるようになった、ということなのではないだろうか。
では、どうして身近に感じられるようになったのかと言えば、それは私たちの「日常」感覚が、時代的に変化したからではないだろうか。
例えば、社会学者の宮台真司は、1995年に刊行した『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』で、何を語っていたか。
それは、タイトルからも明らかなとおり「退屈で揺るぎない日常」から(テロ事件を起こした、オウム真理教信者のように)「逃避」しようとするのではなく、「終わりなき退屈な日常を、まったりと生きろ」と訴えるものだった。つまり、当時の日本人の、特に若者の多くは、「変わりばえのしない平穏な日常」に「堪え難さ」を感じていたのだ。
だが、その後に「バブル経済の破綻」が明らかになって、私たちの「日常」は「揺るぎない」ものではなくなってしまった。「変化のなさが退屈だ」などと贅沢なことを言っていられないような、好ましくない「変化」に晒される「不安定な日常」に変わってしまったのである。
つまり、おおむね2000年のミレニアム以前の日本では「日常」が揺るぎなく鉄壁なものであったからこそ、そこから脱出して異界に至るためには、それなりの「距離=過程=手間」が必要だったのだが、今のわれわれの場合、「非日常としての異界」は、そこここに口を開いていて、悪い意味で「身近なもの」と感じられるようになったのではないだろうか。
かつては「平穏な日常」とは「堪えなければならないもの」だったけれども、それが今では「死守しなければならないもの」「いつ失われるか知れない、儚いもの」と感じられるようになったのではないだろうか。言い換えれば、「非日常=異界」は、「どこか遠く」ではなく、「日常の裏側」に潜んでいるものと感じられるようになったのではないか。つまり、両世界の距離が、決定的に縮まってしまったのだ。
本巻最後のエピソード「TOJO」は、本シリーズの中でも異色の「外伝」的な作品となっており、「日常からの逃避」を、一種の「救い」として肯定的に描いた佳作である。
しかし、それ以外の本編エピソードに描かれた「異界」が、どこか閉塞的で救いのない暗さを感じさせるのは、かつて描かれた「(「明るくて隠れ場所もない日常空間」とは真逆な)暗くても救いのある異界」が、今の時代を反映する「救いのない暗い異界」に侵食されていることを、暗示しているのではないだろうか。だからこそ、「救いのある異界」のエピソードは、主人公の猫耳少女の語りではない、「外伝」的なものになってしまったのではないだろうか。
そして、事のついでに言ってしまえば、幻想的な世界を描く本シリーズ『てるみな』が、このように現実世界の暗さを反映するのと裏腹に、同じ作者の別の鉄道ものシリーズ『ぱらのま』が、幻想的な描写が無くなっていく一方で、その「日常の楽園性」を強調する一種の「ファンタジー性」を強めてきたのは、作者の鋭い「現実感覚」と絶妙な「バランス感覚」を示すものなのではないだろうか。
初出:2021年8月15日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除
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