小田雅久仁 『残月記』 : 太陽と月、 月の表と裏
書評:小田雅久仁『残月記』(双葉社)
ルナティック(Lunatic・月的)というのは、「狂気」を意味する言葉だ。
どうして、「月」が「狂気」という意味を持つようになったのか? それまあ色々と理由もあるだろうが、一番わかりやすい説明は、「太陽」の発する「光=陽光」が、事物の形を明確に照らし出す、言うなれば「理性としての光」なのだとすれば、そんな「王である太陽」の力能に対し、「女王である月」には、「理性」に対しての「感情」あるいは「反理性としての狂気」を割り振られた、ということであろう。
もちろん、きわめて女性蔑視的な発想による「印象論」にすぎないのだが、当時には「フェミニズム」など存在しなかったから、「知」を独占していた男どもの思うがまま、勝手気ままな「定義」だったわけである。
まあ、そうした「事実関係」は別にして、人間というのは「印象」や「イメージ」というものに支配されがちなもの。でなければ、「宗教」などというものが、いつまでも生き残っているはずがない。人間という生き物は、自分が思っているほど「理性的」な存在ではないのである。
ともあれ、そんなわけで、「太陽=理性」に対する「月=非理性=狂気」という図式が成立した。
「陽光」は、人々の「理性」を励ますものだが、「月光」は人々の秘められた「狂気」を照らし出す。日中には隠されていたそれを、「月光」は照らし出し、誘い出すのである。だから、「狼人」は、昼間は人間で、月光を浴びると狼に変身する。彼は、単純に、人間が狼に変わる、というのではない。変わってそれっきりということではなく、陽が登ればまた人間に戻るというのは、彼の中にもともと「狼=自然=反人間=魔的なもの=狂気」が存在していたからである。つまり、「月」は、人間を「狂わせる」のではなく、人間が元から秘め持っている「非理性」を目覚めさせるものなのだ。一一そのようにイメージされた、ということである。
一方、本書の表題作「残月記」でも言及されている、ドビュッシーの名曲「月の光」は、そうした魔的な「狂気」を表現したものではなく、それとは真逆の、「月光」の「精神鎮静作用」を表現した作品だと言えるだろう。
「ルナティック」という言葉における「月光」が、人の「反理性」的なものを目覚めさせる「積極的な力=喚起する力=亢進作用」を持つのに対し、ドビュッシーの「月の光」が描いているのは「過剰な理性の亢進」からの解放、である。「陽光」が、人間に「活力」を与えて「働け!」と命ずるのに対し、ドビュッシーの「月の光」が語っているのは「休息」であり「眠りへの誘い=理性の休止」なのだ。
当たり前の話だが、いくら「頭の回転が速い」とか「活力があって、バリバリ働ける」と言っても、そんなものがずっと続いては、身がもたない。やはり、生身の存在であれば、肉体的な休息も必要であれば、理性の休息も必要なのだ。
それが往々にして「理性的に選んだ宗教」だという不徹底な選択である場合の少なくないのは困りものだが、合理的な「理性の休息」とは、まさに「夜眠ること(睡眠)」であり「夢を見ること」なのである。
「夢」の中では、人は「理性のくびき」から解放される。「合理的理性」から解放されて、脳髄の「凝り」が解されていく。
形成され強化され、さらには硬直化している「思考回路」に侵襲して、隙間を与え、余裕を与え、別回路を開く余地を与える。
「眠り」とは、毎夜行われる「脳髄のオーバーホール」なのである。そして、夢とは、そうした中で分解されていく「記憶たちの見る共同夢」なのだ。
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本書『残月記』には、「そして月がふりかかる」「月景石」の短編2本と、表題作中編「残月記」の、都合3篇が収められている。タイトルにも明らかなとおり、「月」あるいは「月的(ルナティック)」をテーマとした作品集だが、それぞれの作品に連続性はない。あくまでも別々の作品だが、「月的(ルナティック)」ということでは共通していて、言い換えれば、いずれも「陽光的=理性的=合理的」な作品ではない。本作品集を支配するのは、「昼間の論理」とは、その本質を異にする「別様の論理」であり、それが「月的(ルナティック)」ということなのだ。
「月的(ルナティック)」というのは「狂気」を意味するのだけれど、「狂気」というのは、「出鱈目=無茶苦茶」ということではない。それは「理性=合理性」の軛から解放された、独自に「別様の論理」ということである。
だから本書収録作品は、厳密に言えば、「SF」でもなければ「ファンタジー(小説)」でもない。あえて言うならば、そうした「形式的区分」の外にある、「幻想文学」とでも呼ぶしかないもので、そこを理解できない人、つまり「陽光的(形式的合理性による)区分」でしか作品を見られない人には、本書所収の作品を「理解」することができないだろう。
「なぜ主人公は、いきなり別世界へ飛ぶのか?」という問いは、当然のことながら「形式論理的な合理的説明」を、その自覚なしに求めているだけなのだが、しかし「夢」に対して、そんな説明を求めるのは、お門違い。「夢の世界」で、「昼間の論理=形式合理性による論理」を振りまわす人間というのは、「狂っている」のか、さもなければ、よほど「頭が悪い」ということにしかならないのである。
長々と引用したが、以上の説明を付け足しておけば、本書『残月記』の読み方も、おのずと理解ができよう。
本書読者に求められているのは、「昼間の世界=陽光の下の世界」と「夜の世界=月光の下の世界」を行き来する能力であり、さらに言えば、「月の表側」だけではなく「月の裏側」まで「幻視」する能力だと言えるだろう。
それが無ければ、本書の描く世界を理解し、「実感する」ことは、決してできない。本書読者に求められているのは、多少なりとも「陽光の呪縛」から逃れ得る「理性の柔軟性」なのだ。
そう、「理性」とは「表もあれば裏もある」ものであり、その両面をすべて含んでこそ、真の「理性」なのだ。
どちらか「片方の面」しか持たないような「硬直した(偏頗な)理性」とは、それが「陽光の理性」であれ「月光の理性」であれ、所詮は「厚みを持たない薄っぺらな、理性の書き割り」でしかないのである(だから、現実の精神障害者の思考は、おおむね類型的かつ一面的でしかない)。
そんなわけで、今回は「あらすじ紹介」や「内容紹介」は、しない。
それは、下に示すAmazonの本書紹介ページなどでも、さんざなされているので、そちらをご参照願おう。
私が、ここで書いているのは、そういう「月の表側」の見取り図ではなく、「月の裏側」のロジックなのである。
(2023年10月16日)
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