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中野美代子 『西遊記 トリック・ワールド探訪』 : 人間という 解きえぬ「謎」に挑む

書評:中野美代子『西遊記 トリック・ワールド探訪』(岩波新書)

まあ、すごい本だし、呆れた本だ。

「それって、本書のこと? それとも『西遊記』こと?」一一もちろん、両方である。

『孫悟空など登場人物のイメージから、西遊記は荒唐無稽なだけの作品とおもわれがちだが、はたしてそうだろうか。
西遊記の全体構造がもつ極度に論理的な世界に注目した著者は、五行錬丹術などの思想を基に、西遊記の内部に張りめぐらされた仕掛けを解き明かしながら、西遊記成立の創作現場を再建する。』

(本書カバー袖の「内容紹介文」より)

まさに、そういう本なのだ。

つまり、『西遊記』という本は、単なる「娯楽作品」なのではなく、じつはそこに、普通に読んでいただけでは決してわからないかたちで、「道教」的な神秘思想が内蔵されているのである。「仏教」的なお話であるにもかかわらず、だ。

だから、「内蔵されている」とは言っても、作中でそれとなく「語られている」、というのではない。
要は、『西遊記』という作品の構成の中に、それが「構成原理」として込められているから、中身を読んでいただけでは、そうした「思想」に気づくことは、きわめて困難なのだ。

言うなれば、『西遊記』という日本語訳にして全10巻にわたる長編小説は、一種の「暗号」なのである。
「暗号」が作中に登場する「暗号小説」なのではなく、作品そのものが「暗号」になっている「小説に見せかけた、長大な暗号」であり、その暗号を解き明かすことで明らかになるのは、『西遊記』を完成させた人たちの持っていた「神秘思想」なのだ。

したがって、『西遊記』そのものには、ミステリー小説(推理小説)のような、(最後の)「謎解き」部は無い。
作者たちは、あくまでも、読者には気づかれないように、手間ひまかけてそれを仕込んだのであって、この「謎=暗号」は、解かれることを前提としたものものではない。
そしてそこが、「娯楽小説」ではなく、作者自身のための「神秘思想」を込めた作品たる、『西遊記』のユニークさなのである。

作者たちは、読者が『西遊記』に秘められた「暗号」に気づかないまま、娯楽小説として面白がっている姿を見て、ただニヤニヤと笑っているだけであり、読者が「いやあ、面白かったよ。悟空の活躍は最高だね!」なんて感想を聞かせてくれると、口では「それは良うございました。皆様に楽しんでいただけるのが、私どもの何よりの喜びなのでございます」とか言いながら、陰では「表面しか見えていない阿呆どもよ」と、舌を出して嘲笑っているのである。

しかし、『西遊記』が、そうした知恵と工夫の結晶たる「長編暗号」だとしても、流石に長い年月にわたって、多くの研究者たちが読み込んでいくと、あちこちに「不自然さ」や「引っ掛かり」を覚え、そこをきっかけに、『西遊記』の、秘められた「裏の顔=神秘主義的暗号」の存在に気づき始める。
「こいつは、単なる娯楽小説なんかじゃないぞ。何かを隠しているに違いない」と気づき、そこからは「字面」を追うだけではない「読み=暗号解読」が始まるのだ。

つまり、本書は決して「文芸評論」ではない。
言うなれば「文学(作品)研究」ではあっても、「語られている中身」を問題としているのではなく、構成的に「隠されていること=語られていないこと」を、解析的に取り出そうという「研究」であり、その成果を語った本なのである。

だから、「なるほどそうか。そう説明されれば、作品の意味がよくわかる」というようなものではなく、「ええっ! そんなバカなことをやってたの!? しかも、そこまで手間ひまかけて…」というような内容であり、内容的には「解析的に論理的」なものであって、言うなれば、通常の「文系的な読みもの」ではなく、一種の「理系的読みもの」なのだと言えるだろう。

その意味で、本書に「文系的な読み」を期待すれば、そんな的外れな期待は、確実に裏切られることになる。「暗号解読」とは、優れて理数系的なものであって、文系的な「感情的な納得」を求めるものではないからである。

したがって、本書の内容を、具体的に説明するのは、きわめて難しい。
なぜなら、本書は、前述のとおりで、言うなれば「解析論文」であり、「論証のための、長大な数式」みたいなものだから、その一部分を抜き出して語っても、あまり意味はないからである。

それでも、その「雰囲気」が、比較的短く味わえる部分を引用しておくと、次のようなものとなる。

『 魏徴 Wéi Zhēng を、同音の「未徴 wéi zhēng」に置き換えたとしたらどうなるか。「未徴斬龍」は、「未だ龍を斬るを徴めず」、すなわち、「まだ龍を斬りはしない」→「まだ月経をストップさせたりはしない」→「出産できる状態にしておく」ということになろう。誰を出産するのかといえば、『西遊記』においてはしばしば「嬰児」にたとえられる玄奘三蔵を措いてほかにはあるまい。それにしても、物語のうえでは、魏徴は龍を斬っているのだが、女丹においては、龍は斬られていなかったというのだから、このエピソード(※ 未徴斬龍)の隠された意味にはおどろくばかりである。』(P17)

(※ アルファベットに文字化けがあれば、それは「eの上にチョン(プライム)」または「eの上に横棒(エヌダッシュ)」の部分です)

上の部分を読んだだけでは、意味は分からなくて当然だから、心配をする必要はない。
なぜなら「魏徴」「未徴」「未徴斬龍」「女丹」といった言葉や、玄奘三蔵がなぜ「嬰児」と呼ばれるのか、その説明はここより前になされているからだ。

したがって、この部分から読み取っていただきたいのは、『西遊記』における「論理性」とは、通常の「数学的」あるいは「近代的」な(厳格な)論理性ではなく、「アナロジー(相似性)」に依拠した「神秘主義的」な(伸び縮みする)論理性だ、ということである。
洋の東西を問わず、「神秘思想」を根底で支えているのは、この「アナロジー」的な発想であり、「似ているものには、本質的な共通点がある(あるいは、同じ!)」という発想なのだ。

つまり、本書は、『西遊記』という「長編暗号」に秘められた「メッセージ」を、アナロジー的な発想に基づく『五行、易、錬丹術などの思想』の論理を使って、読み解いていくものだと言えよう。

だから「何々は何々に似ている。その何々は何々に似ている。つまり、最初の何々と、最後の何々は、表面的にはまったく異なって見えても、その本質において共通するものを持っている(あるいは、本質は同じもの)」といった「論理」において作られているものだということを踏まえて、その「論理」に沿って、中野(や、中野が参照した研究者たち)は『西遊記』に秘めたメッセージを読み解いていくのである。

しかしまた、その「秘められたメッセージ」とは、ミステリー小説の暗号文のように、解き明かされた結果として「当たり前のメッセージ」的なものが出てくる、とわけではない。

むしろ、神秘主義者たちは、そうした世俗性を超越したところに「秘められた真実」があると考え、その象徴として『西遊記』を書いた(作った)のだから、『西遊記』の作者たちのメッセージとは、結局のところ「この世界は、私たちが気づき得ないところの論理によって、構築され運営されている」というものなのであろう。
そして、その「私たちが気づき得ないところの論理」とは、例えば『五行、易、錬丹術などの思想』などが描き出す世界の根本論理なのだが、それ自体は、結局のところ「人間の理解を超えた論理(法則性)」ということになるから、『西遊記』をいくら深く解読したところで、その「神秘の論理」自体が解読され、示され得るわけではない。

したがって、そこに示されるのは、そういう「見果てぬ真理」を追い求める「人間という動物の、どうしようもない不思議さ」なのだ。

しかしまた、その「人間という動物の、どうしようもない不思議さ」を、それと知りつつ、「論理的」に探究しようとするところが、本書の、真の意味での「学問性」なのだとも言えよう。

「人間ほど、面白い謎はない」、あるいは「学問ほど、(本来ならこのように)面白いもの(探究・冒険)はない」。

一一著者は、そう考えているのだ。

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ちなみに、私がこのレビューの中で、『西遊記』に関して、『作者たち』という表現を使ったのは、本書著者の中野美代子が、最終的に成った『西遊記』の著者は、一般に言われているような「呉承恩」個人ではなく、『西遊記』を今の『西遊記』のかたちへと結晶せしめた「匿名の作者集団」だと見ているからである。
「呉承恩」というのは、その完成された『西遊記』を、後に刊行した、初期の「刊行名義人」にすぎない、という考え方である。

そして、中野美代子がこのように考えるのは、もともと『西遊記』というのは、最初からいきなり今のかたちで書き上げられた作品なのではなく、多くの伝承や物語が先にあって、それを取捨選択し、再構成して「完成させたもの」に他ならないからでもある。『西遊記』とは、決して(今の日本の小説家が書くような)「オリジナル作品」ではないのである。

だからこそ、むしろ問題は、その膨大な先行テクストに対する「再構成の原理」であり、そこに込められた、個人のものとは思えないほどの「叡智」の多彩さ膨大さであり、にもかかわらず、作品の細部に見られる明らかな矛盾なのだ。
それこそが、執筆者の「複数性」を示しており、全体としては「集団作業の集団作者」だったのではないか、というのが、中野の読みなのである。

ただし、それを「物的に証明する証拠」は出てきておらず、あくまでも中野の「見解」は、論理的な「推理」によるものだから、学術世界においては、作者は、いちおう「呉承恩」というのが「定説」ということになっている。

だが、そんな話は「つまらない学術界」の慣習でしかないとも言えよう。
学術もまた、その「確実性」以前に、「好奇心と探究心」があってこそ、のものだからである。


(2023年8月13日)

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