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ボルヘス『伝奇集』: ボルヘスという〈迷宮〉

書評:ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫)

ボルヘスという作家は、「読書家に憑く」という性格を持っているようだ。

その極端なまでに「肉質」を欠いた抽象性は、ふわふわとした「世俗的な夢」や「物語性」といった「生活世界の肉」を削ぎ落として、ストイックに錬成された重金属製のオブジェのごときものである。
「書物」「迷宮」「図書館」「螺旋」「宇宙」「幾何」「象徴」「薔薇」「神学」「異端」「探偵小説」あるいは「無法者」。それらは、私たちの有する雑味の多い「日常生活」とはまったく異質であり、縁遠いものと感じられるからこそ、私たちはそこに魅せられる。

「書物」だってそうだ。それは「書物」であって、「本」という言い方は、適切ではない。まして「書籍」などという野暮な言い方では、「書物」というものの孕む「無限性」は、とうてい暗示し得ない。

「無法者」もまた、純化された存在であって、「犯罪者」などではない。「犯罪者」は、生活の中における逸脱者だが、「無法者」とはそもそも「生活」という概念を欠く、「人間」ではない何かであり、だからこそボルヘスも、それに憧れることができたのだ。畢竟「無法者」とは、抽象的な存在である。

同様に、私たちはボルヘスの「小説」を読んでいるのではなく、ボルヘスの暗示する「小説」を夢想することに喜びを感じているのだ。その秘儀に参与できる「選ばれたメンバー」としての「読書家」であることに、無上の喜びを覚える。
ボルヘスは、私たち「読書家」を、「書物」の彼方の世界へと導く、盲目の司祭なのだ。

じっさい、彼のキャラクターは、ウンベルト・エーコの原作小説を映画化したジャン=ジャック・アノー監督の『薔薇の名前』に登場する、フェオドール・シャリアピン・ジュニアが演ずるところの「盲目の修道院図書館長・ブルゴスのホルヘ」をはるかに凌駕して、魅力的だ。
もしも『伝奇集』の作者が、エーコのような「気の良さそうなおじさん」だったら、ボルヘスの魅力は、間違いなく半減するだろう。ボルヘスが作品を書いたのではなく、作品がボルヘスをボルヘスにしたという言い方も、あながち転倒したレトリックだとは言えないのではないだろうか。

ボルヘスという作家の作品が「難解」だという読者は多い。だが、その「難解」という言葉が「面白くない」ということを意味して発せられたものなのだとしたら、その読者は「ボルヘスの読者」ではない。ボルヘスとは「難解な書物」であり、その「難解さ」は、苦痛ではなく、喜びなのだ。
名探偵が「難解な謎」に舌なめずりするように、「ボルヘスの読者」は「ボルヘスという迷宮」に喜んで踏み込み、踏み迷い、そしてぞくぞくとした快感に背筋を震わせながら「道に迷っちまったじゃねえか!」と、小さく歓声をあげるのだ。

言うまでなく、「迷宮」は迷うためにあるのであり、迷わない迷宮は迷宮ではない。また、迷宮を首尾よく脱出してしまったら、そこにはもう「生活」世界しか待っていないのである。当然、私たちは、そこで回れ右をして、もう一度、迷宮へと戻っていくはずだ。

そして、ボルヘスの迷宮とは、踏み込むたびに姿を変える、何度でも迷える迷宮なのである。

初出:2020年12月2日「Amazonレビュー」

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