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鈴木優作 『探偵小説と〈狂気〉』 : 「何が 私を 狂わせたのか」

書評:鈴木優作『探偵小説と〈狂気〉』(国書刊行会)

本稿のタイトルは、本書の帯文『近代は 何を 狂わせたか 一一』のもじりである。こう言い表したくなるほどに、本書は期待はずれだったということだ。

「何が 私を 狂わせたか 一一」という問いの回答を、先に書いておこう。
まずは何より「装丁」の素晴らしさだ。特に、表紙カバーに使われた巣鴨病院の写真が、実に謎めいていて素晴らしい。『探偵小説と〈狂気〉』という本書タイトルそのままのレトロ感と妖しさを存分に漂わせて、本書を強力に引き立てていた。その上、本書で扱っている作家が、江戸川乱歩、小栗虫太郎、夢野久作といった、主に戦前の『新青年』誌で活躍した「探偵小説」作家たちなのだから、1980年代半ばに東京創元社から刊行された「日本探偵小説全集」(全12巻)を舌舐めずりして読んだ「探偵小説」ファンの期待は、いやが上にも高まろうというものだ。加えて、著者は若手の近代文学研究者だと言う。すわ新しい才能の登場かと期待したのも、止むを得ないものとご理解いただけよう。
一一しかしそれが、完全に期待はずれだったのである。

若手研究者の第一著作を酷評したくはないが、今後も一般読者向けに著作を公刊する気があるのであれば、自己満足ではなく、それなりの覚悟が必要だということを知ってもらうために、以下に忌憚なく感想を書かせていただこう。

まず、本書は「評論書」ではなく「研究書」である。しかも「研究書でしかありえない研究書」だ。つまり、本書は「研究発表書」であって、一般読者がどのように読むかということを、十分に意識しないままに書かれた論文を、そのまま書籍化した「研究報告」書にすぎないものなのだ。平たく言えば、「退屈」の一語に尽きる読み物なのである。

『 本書では、〈狂気〉というモチーフを視座とした探偵小説作品の分析を行ってきた。近代文学は〈狂気〉を様々に表現してきたのであり、探偵小説もまたそれを物語の内に取り入れてきたが、これまでそれは作品の怪奇幻想性を醸すイメージの一つとして見なされる向きが強かった。だが文学作品はむろんその生まれた時代背景や社会の動向を反映しているのであり、探偵小説における〈狂気〉もまたそれを取り巻く社会やまなざしを捉えている。本書は〈狂気〉概念を支える近代の制度や言説を視野に収め、それらを参照することで探偵小説を独自の視座から論じ、さらにはジャンルの新たな側面を見いだすことを追求してきた。』

(P337、「おわりに」)

著者が本書で行ったのは、まさにこのとおりのことだ。つまり「この作品が書かれたのは、こういう時代であり、こういう言説が主流をなしていたため、このような表現が(順接的あるいは逆説的に)なされたのである」という議論である。これも、身も蓋もなく言ってしまえば、「膨大な注釈付け」にすぎない、と言えるだろう。
なるほど「勉強」にはなる。だが、その「注釈」には、何の意外性もなく、ただ「よく調べてますね」という感想しか浮かんでこない。そんな、かなり退屈な「調査報告=研究報告」なのである。

本書で、紹介される「作品の背景」としては、作品成立当時の『精神分析・優生学・犯罪人類学・骨相学などの科学』『宗教や精神病院の格差・精神病者による建築といった集団・場の力学』『精神病者監護法・刑法第三九条・精神病院法・国民優生法・精神衛生法などの法律や私宅監置・予審制・精神鑑定・捜査取調べというような制度』『超自然性や物語性といった〈狂気〉の前近代性、精神病者を危険視するメディアの言説』(以上、P338)といった事項が、作品の内容に沿って、事細かに紹介されているのだが、江戸川乱歩、小栗虫太郎、夢野久作といった作家に代表される、戦前の「変格探偵小説」の読者にとって、これらの項目は、なんの「意外性」も「新味」もないはずだ。なぜなら、戦前の「変格探偵小説」では、こうしたことが主たるモチーフとされていたからで、それをわざわざ調べたり研究したりはしないものの、読者の多くは、それらの大筋くらいは承知した上で、作品を楽しんでいたからである。
だから、本書になされたのは「膨大な注釈付け」にすぎない。なるほど、作品鑑賞のための「参考」にはなるし、「勉強」にもなる。しかし「無くても、ぜんぜん困らない」ものなのだ。

むろん、それが小栗虫太郎『黒死館殺人事件』の名探偵・法水麟太郎のペダントリー(衒学)のように、「意外性」もあれば「想像力を刺激する」ものなのであれば、読んでいても楽しいのだが、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を論じるのに、当時の精神病治療の状況について「正確なところ」を紹介されても、「そうですか」という印象しか残らない。

著者は『探偵小説を独自の視座から論じ、さらにはジャンルの新たな側面を見いだすことを追求してきた。』と言うけれども、その「独自」性とは、「当たり前すぎて、誰もわざわざ研究しようとは思わなかった部分」についての研究だからで、結果として「独自」なだけでしかないし、「ジャンルの新たな側面」と言っても、それは、これまでの読者が「小説」として楽しんできたものを、なかば社会学的な「素材」として扱った、ということでしかない。
しかも、その「社会学的分析」に、読者が驚くほどの「鋭さや深さ」があるわけではなく、あくまでも「なるほどね」止まりなのである。

もちろん、退屈なものであっても「研究」というのは、大切だし必要だ。これまでなされてこなかった部分についての「基礎研究」というのは、いくら退屈なものであっても、誰かかがやらなければ、その先の「輝かしい成果」は生まれない。しかし、「退屈な基礎研究の報告書」めいたものを、一般読者向けの「商品」にしてもらっても困る。読者が買いたいのは、「素材」ではなく「完成品」なのだ。

例えば「A駅前には違法駐輪が10台、B駅前には20台、C駅前には3台、D駅前には47台、E駅前には0台であった。E駅前の他には、0台の場所は皆無であり、この点に注目すべきである。」というような基礎研究にも価値はあるし、それが「報告書」としてまとめられ、研究者間での基礎資料として共有される必要はあるだろう。しかし、そんなものを、一般読者向けに公刊するというのは、とんだお門違いである。
一般読者が求めているのは、最低でも「なぜE駅前の違法駐輪は0台なのか、その謎を解き明かした上で、違法駐輪問題の処方箋を示したようなもの」だろう。だが、実際には、そんな本だって誰も買いはしない。一般人は「報告書」ではなく、現実の問題解決を求めているのである。一一つまりは本書も、これと同じことなのだ。

本書は、大学の紀要や研究者の同人誌などに発表された論文をまとめたもののようで、そうした専門家の間では、それなりに評価されたからこそ、一般書籍として公刊されることにもなったのだろう。だが、そういう専門家たちだけが共有する特殊限定的な価値観と、一般的な読者との価値観の違いくらいは、当然、理解し配慮した上での公刊でなければならない。読ませたい側の「独りよがり」であってはならないのだ。
もちろんこれは、著者だけの責任ではなくて、編集者や研究者仲間の、認識不足による配慮の足りなさといったこともあるだろう。だが、最後に責任を引き受けなければならないのは、言うまでもなく著者本人なのである。

若い著者だからこそ言っておきたいのだが、一般読者は「単なる(ひねりのない)研究報告書」など読みたいわけではない。「読書の喜び」とは、「知的な発見」によってもたらされる「知の喜び」であって、単なる「知識の蓄積」つまり「学校の教科書を読むようなお勉強」ではないのである。

何も「文芸評論家」に求められるような「非凡な着眼と閃き」「ひねりの利いた論述」といったことまで、すべて兼ね備えよ、と求めたりはしない。しかし、それなりに対価を求めるのであれば、多少なりとも読者を「感心」させたり「感動」させるようなものを書かなければという気構えくらいは、ぜひ持って欲しい。それが「プロの物書き」というものなのだ。

初出:2021年3月12日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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