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中山昌亮『不安の種』 : 〈不安〉とは何か

書評:中山昌亮『不安の種』第1巻(ACW CHAMPION)

書店で見かけて、気になった。
真っ黒な表紙の上部左端に、不気味な白い仮面のような顔が描かれている。

知らない作家の知らないマンガなのだが、気になったし、古い作品で、続編もたくさん刊行されていて評判も良いようなので、某ブックオフオンラインのお世話になることにした。

いわゆる「ホラーマンガ」なのだが、すべて掌編である。10ページにも満たない作品ばかりで、お話としては「日常の中に、いきなり怪異が現れた」ところでお終いである。したがって、ストーリーらしいストーリーも、オチも仕掛けもない。

怖いか怖くないかは、読者によるだろうが、私は怖くなかった。と言うか、私はこの手の作品で「怖い」と感じたことが、ほとんどない。子供の頃は別にして、大人になってから接した、いわゆる「ホラー」作品は、小説であれ映画であれマンガであれ、「怖い」と感じたことがほとんどない。せいぜい、鈴木光司の小説『リング』くらいだろう。しかし、続編の方は、よく出来てはいても、すこしも怖くなかった。
私は「怖い」作品(怖がらせてくれる作品)を欲しているのだが、なかなかそういう作品はなく、評価はもっぱら「よく描けている」とか「よく出来ている」といったことになり、「怖いか怖くないか」という話にはならない。なにしろ、怖くはないのだから、仕方がない。

で、本作も、決して怖くはなかったのだが、なかなかよく描けていると思う。
「怖さ」を求めた読者なら不満を感じるかも知れないが、この作品は「怖さ」を描こうとした作品ではないのではないか。つまり、作者が描こうとしたのは「不安」である。
その「不安という種」の発芽した先を、ちょっと描いて見せたのであろう。そうでなければ、商品にもなりにくいだろうし。

「不安」とは、かたちを持たない。かたちを持たないから、どうなるのかわからないから、不安になるのである。つまり、「怪異」が現にあらわれてしまえば、そこには「恐怖」こそあれ「不安」はない。

そうした意味で「不安」とは、恐怖の無いところにしか生まれない。だから、意識されることは少ないが、「不安」とは、平凡で平和な日常にこそ、潜んでいる。
今が平和であるからこそ、それが崩れるのを、無意識に予想して、人は無意識的な「不安」を抱えているのだ。言い変えれば、「化け物が出そうだ」という「予想」がされている(意識化されている)時に感じるのは、「不安」ではない。それはすでに「恐怖」である。ただ「恐怖」に、具体的なかたちが、まだ与えられていないだけなのだ。

したがって、本書作者が描きたいのは、「怪異という非日常」ではなく、実は「日常にひそむ感情」の方なのだろう。だからこそ、これだけ似たような話をたくさん描いても、いずれもそれらしい作品になっているのではないか。「怪異」や「恐怖」をメインにしたなら、すぐにパターン化して飽きられてしまうが、「日常」は飽きるようなものではなく、むしろ意識されないものだからこそ、いくらで描けると言おうか、何か事の起こる前は、すべてが「日常」なのである。

私たちは「日常」のなかで「不安」を抱えているのだが、その原因とはなんだろうか。
少なくとも、大人にとっては、それは本作やその他の「ホラー」作品に描かれたような「怪異」ではないのだろう。たぶん、「怪異」とは、私たちが無意識に感じているものの「象徴」なのではないか。一一では、それは何の「象徴」なのか。

私なりの暫定的解答をここに書いても良いのだけれど、それではいかにもつまらないので、この問いの答えは、読者諸兄それぞれににお任せすることにしよう。
いずれにしろ、あなたにとっての「不安」の原因とは、他人が教えてくれるようなものではないのだろうし。

書評:2020年8月14日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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