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諸星大二郎 『孔子暗黒伝』 : 異形なる世界へのロマン

書評:諸星大二郎『孔子暗黒伝』(集英社)

本作『孔子暗黒伝』は、諸星大二郎の初期傑作として名高い作品である。
決して「諸星大二郎ファン」というほどではない私だが、それでも長年の間には何冊かを読んでおり、その中には「印象的だった作品」も少なくない。
したがって、代表作くらいは読んでおかなくてはいけない作家。それが、私のとっての「諸星大二郎」であった。

そんなわけで、昨年はひさしぶりに諸星大二郎の新刊を読んだ。連作的な短編集である『夢のあもくん』である。

この作品集は、私のそれまでの「諸星大二郎の作風イメージ」を覆す、ひねりの効いたユーモアフィクションとでも呼ぶべきものであった。
たしかに「ホラー」的な道具立てではあるものの、見るからに怖い現象をいかにも怖そうに描くことで「読者を怖がらせる」ことを目的としたような、ストレートな作品ではなく、だからこそ私は、この作品を当たり前に「ホラー」とは呼びたくなかった。それで、レビューのタイトルを「斜め裏側から襲来する〈メタ・ホラー〉」としたのである。「思いもかけない角度から、ホラーを問いなおすホラー」というほどに意味だったのである。

で、『夢のあもくん』のこうした「意表をつく批評性」がとても面白かったのこともあって、あらためて「やはり諸星大二郎の代表作くらいは読んでおかないと」と思い、そのとき真っ先に念頭に浮かんだのが、『孔子暗黒伝』だったのである。

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『孔子暗黒伝』を開いてみると、冒頭から文章が多く「読むのに疲れそうな作品だな」と思った。
それでなくても、諸星大二郎の「絵柄」というか、その独特のタッチは、昔から「私の好み」ではなく、あくまでも内容的な部分で評価していたので、その絵づらと文章の多さに、いささか臆したのである。

だが、見開き2ページを読んで、一一過去に読んでいた作品であることに気づいてしまった。
完全に失念していたのだが、さすがに読めば記憶が蘇ってきたのである。

で、なんで完全に忘れていたのかも、すぐに気づいた。
要は、かつて読んだ際、私はこの作品を、まったく楽しめなかったのである。

ならば、読んだことは忘れていても、悪印象くらいはどこかに残っているだろうから、無意識にこの作品を避けても良さそうなものだが、それでも「読まなければならない作品」として、真っ先に『孔子暗黒伝』を思い浮かべてしまった理由もまた、はっきりしていた。

それは、5年ほど前だろうか、孔子とその弟子の顔回を主人公とした、酒見健一の長編伝奇小説『陋巷に在り』(全13巻)に、やられていたからである。

無論『陋巷に在り』は、『孔子暗黒伝』よりずっと後の、『孔子暗黒伝』の影響を受けて書かれた作品で、そもそも、単行本、文庫本ともに、その表紙を飾っているのは、諸星大二郎の手になるイラストなのだ。だから私は、『陋巷に在り』の好印象に引きづられ、すっかり読んだことを忘れてしまっていた『孔子暗黒伝』について「これは、私も読まねばなるまい」などと思ったのであろう。

(左が孔子、中央が顔回)

『陋巷に在り』を読んでいた最中、当然、『孔子暗黒伝』のイメージが重なったはずだ。だが『陋巷に在り』は、それこそ頁をめくる手ももどかしいくらいに面白かったし、なにしろその表紙画が諸星大二郎なのだから、かえって『孔子暗黒伝』を思い出さなかったのではないだろうか。

そんなわけで、今回読み返しても、たぶん楽しめないだろうなと思いながらも、せっかくなので再読することにした。
そして、読みながら「この名作と呼ばれる作品を、私が楽しめなかった理由とは何だろう?」と、そう考えながら読み、いちおうの解答にたどり着くことができた。たぶん、その理解は、間違っていないはずだ。

したがって、このレビューに書くのは、私が『孔子暗黒伝』を「どのような点において、楽しめなかったのか」ということである。
つまり、自分の「好み」を基準にして、この作品を(今回も楽しめなかったことを根拠に)否定するのではなく、私の「好み」がどういうものであり、諸星大二郎がこの作品で「描きたかったもの」がどのようなもので、その二つが「食い違った」からこそ、私は楽しめなかったのだろう、というお話だ。

この作品に典型的に表れた、諸星大二郎の「一つの傾向性」としての「好み」を、以下に論じようと思うのである。

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本作『孔子暗黒伝』は、儒学五行説仏教ヒンドゥー神話日本神話科学といった要素を、ひとつの「理論」に編み直した作品だと言えるだろう。

つまり、孔子や釈迦といった、偉大な先人たちの見出した「世界観」は、「どちらが正しくて、どちらが間違っている」というようなものではなく、それぞれの視点から「世界」を読み解き、それぞれの言葉で語ったものでしかなく、つまりは「ぜんぶ正しかったのだ」とする、「統合的世界観」である(「幸福の科学」などは、このパターンだ)。

それぞれの「世界観」には、もちろん、一定の「一面性」(一長一短)があって、決して「完全」なもの、「完全な世界観」ではなかったけれど、それらを突き合わせていけば、おのずと「総合的な世界観=円満具足な世界観」が浮かび上がるはずで、そうした「世界観」を描いたのが、まさに本作なのである。

ただしこれは、諸星大二郎が、自身の見出した「総合的世界観」を「信じていた」ということではない。
無論、彼は、その「世界観」を「作中における架空理論」として構築し、その「壮大な夢(ロマン)」を楽しんで描いているのである。

したがって、この作品を楽しめる読者というのは、

(1)よくできた「壮大な嘘」が、好きな人(少々冷笑的でもある批評的な人)

あるいは、

(2)よくできた「壮大な嘘」を、真に受けてしまえる人(真面目だが、思い込みの激しい人)

ということになるだろう。

つまり、(1)は、「創世神話的に壮大なスケールのSF=大ボラ話」が好きな人であり、(2)は、「宗教」にハマってしまい、その「神話的な教義」を本気で信じてしまうような人だと、そんなふうに区別することができるだろう。
同じ作品を熱心に支持する人の中にも、ある意味では「真逆」なタイプがいる、ということだ(無論、現実には、両者の性質の混じり合っている人の方が多いだろうが)。

そして、では、私自身はどうなのかというと、まず「創世神話的に壮大なSF=大ボラ話」というのは、私の好みではない。
結局のところ、私の興味の対象は「人間」であり、「人間が作る社会」「人間が生まれた宇宙」であって、「社会」や「宇宙」そのものには、あまり興味がないのだ。

例えば、私が「社会学」や「物理学」の本を読んで、その理論を学んだとしても、それは、それそのものが「面白い」からではなく、それを「梃子(道具)」として、より深く「人間」を理解したいだけ、なのではないかと思う。
同様『儒学、五行説、仏教、ヒンドゥー神話、日本神話、科学』などに対する興味も、むしろ人一倍ある方だと思うのだが、しかし、それら「そのもの」に興味があるのではなく、それらを知ることによって、それらを生み出してきた「人間」というものを、より深く理解できるからこそ、それらは、私にとって「面白い」のだ。

だから、私は「宗教」や「神話」の類を信じないし、「思想」「哲学」あるいは「科学」といったものは、「人間のための道具」であって、それそのものをありがたがるような奴は「オタク」だと謗ったりもするのである。

したがって、こんな私だからこそ、「壮大な架空世界観」をでっち上げて、それを楽しむような本作が、楽しめなかったのであろう。
本作の「登場人物」たちは、あくまでも、そうした「壮大な架空世界観」を、物語の中で紹介し、説明するための「駒」であって、「深み」を持った、味わい深い「人間(それ自体が宇宙としての人間)」ではない。そのようには描かれていないし、初めから、その気もなかったような、薄い描かれ方なのである。

例えば、主人公(の一人)である孔子だが、これがもうぜんぜん「偉大な人」には見えない。
倫理的で理想的な思想を持ち、現実に妥協することなく、自分の信ずるところを求めて、彷徨い生きたこの偉大な思想家が、本作においては「現実を見ることができず、夢ばかり追っている、頼りない理想主義者のおじさん」にしか見えない。
弟子たちや、役人たちが、彼を「先生」と呼んで、下にも置かない態度をとっているから、尊敬されている人だとはわかるのだが、読者である私からは、作中の孔子は、少しも「魅力的に偉大な人物」には見えないのである。

(孔子と顔回)

私が物語作品に期待するものとは、もちろん「ユニークな世界観」ということもあるけれども、やはり、その中を生き抜く「魅力ある人間像」なのだ。

「ユニークな世界観」というのは、たしかにひとつの魅力だ。けれどもそれは、まず「魅力的な人間」が描かれた上での話であり、それを前提として、その上に「ユニークな世界観」があれば尚良い、ということでしかない。私の場合、「魅力的な人間」の存在無くして、「ユニークな世界観」だけを楽しむために、マンガや小説を楽しもうとは思えないのである。
「ユニークな世界観」に接したいのであれば、そうした「フィクション」の中にではなく、「ノンフィクション」である「専門書」を読み、そこで、驚くべき「(裏付けのある)事実」(例えば「量子力学的世界像」など)を知りたい。私は、そんな人間主義的な「リアリスト」なのだ。

そのように考えると、本作『孔子暗黒伝』を楽しめる読者というのは、例えば、オカルト雑誌『ムー』に載っている「トンデモ世界観=トンデモ理論」が、楽しめる読者なのではないだろうか。
それを信じはしなくても、「壮大なホラ話」として楽しめる読者と、オウム真理教の信者や中沢新一の崇拝的読者みたいに「トンデモ世界観=トンデモ理論」を真に受けて、本気で、この「人間世界」の外へ出たがってしまうような読者

だが、私は、そのどちらでもない。
『ムー』で扱われるような、UFOだとか幽霊だとかネッシーだとか地球空洞説だとユダヤ神秘主義だとかチベット密教だとか陰陽道だとかいったものは、ぜんぶ「好きは好き」なのだが、しかしそれは「ロマン」として好きなだけで、信じてなどいないし、実在する可能性がいくらかあったとしても、その可能性を探りたい、などというほどの、興味はない。

ただ「夢のある娯楽」として楽しむだけだから、『ムー』の記事など読む気はさらさらなく、むしろ「こんな雑誌を作っている人って、どんなことを考えているんだろう?」と、「人間」の方に興味が向かった結果、『ムー』編集長の書いた本を読んで、そのレビューを書いたりもしたのである。

つまり、私の興味の対象は、徹頭徹尾「人間」なのだ(だからこそ、「宗教」批判者にもなったのであろう)。

したがって、そんな私に、『孔子暗黒伝』が、まったく「合わなかった」のは、作者の諸星大二郎の場合、どちらかと言えば、「人間よりも、世界(セカイ)の方に興味があるタイプ」だったからだと、そう言っても良いのではないだろうか。

だから、その意味では、私にも面白かった『夢のあもくん』も、「人間」を描いているのではなく、「ホラーとは何か」「フィクションとは何か」を描いた作品であって、「人間にとって、ホラーとは何か」とか「人間にとって、フィクションとは何か」といったことを描いた作品ではなかったのだと思う。

たしかに私は『夢のあもくん』を楽しみはしたけれども、それは、諸星大二郎の「興味」と「重なった」と言うより、それは、「交錯した」部分だった、ということではないだろうか。

そうした意味で、諸星大二郎という作家は、「人間」に対して「ドライな感性」を持った人なのではないか。言い換えれば、「人間」そのものには興味がなく、「人間」を「世界の一部」として見ており、「世界の中の人間」という感じで見ているのではないか(その意味では、私の方は「批判的人間中心主義」だと言えるかもしれない)。

(エドワード・ゴーリーのTシャツを着ている諸星大二郎。人間への冷めた距離感に共通性が感じられる)

私が諸星大二郎の作品に、いつもどこかで感じている「違和感」なり「物足りなさ」とは、たぶん、彼の「人間に対するこだわりの薄さ」でありその「低体温性」なのではないかと思う。

だからこそ、「異形なる世界」を描くには熱くとも、「人間」について描くときは、どこか「距離をおいた批評性としてのユーモア」が、前面に出てくるのではないだろうか。

諸星大二郎は、たぶん「人間そのもの」や「人間の内面性」になど、さほど興味がないのである。


(2023年2月5日)

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