宏洋 『幸福の科学との訣別 私の父は 大川隆法だった』 : 〈アンチ・幸福の科学〉ですらない、 孤独な告発者
書評:宏洋『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』(文藝春秋)
刊行から1週間も経たない現時点において、すでにレビューが(当レビューを除いて)「29」本の多きに達している。レビューの星取り分布を見てもらえばわかるとおり、評価はおおむね「星5つ」と「星1つ」に二分されている。
要は、「幸福の科学」に批判的なウオッチャーが「星5つ」を与える一方、「幸福の科学」信者が火消しのために「星1つ」の対抗レビューを投稿しているという構図だ。
そもそも「幸福の科学」というのは、大変わかりやすい三流宗教であり、そのわかりやすさは、オウム真理教や創価学会の比ではない。だから「幸福の科学」を褒める有名知識人というのは、いないに等しい。
例えば、地下鉄サリン事件を起こす前の、まだ実態が定かではなかった当時のオウム真理教について、宗教学者の中沢新一や島田裕巳が、その宗教性について肯定的な評価を与え、そのために、事件後に激しいバッシングに遭ったのだが、彼らへの批判は所詮「結果論」でしかなく、オウム真理教の「教義」も知らないまま「初めから麻原彰晃なんて、見るからにうさん臭いと思っていた」などという「世間一般の評価」は、「宗教」というものが、もともと「すべてうさん臭い」ことを理解していない門外漢による、いかにも無内容なものでしかなかった。
一方、創価学会について言えば、現在においても、キリスト教プロテスタント信者(神学者)の佐藤優が、好意的な解説本を刊行しつづけている。
要は「宗教に無知な、世間の人々」が、その「外見的印象論」だけで、事も無げに、批判している(つもりになっている)オウム真理教や創価学会についてすら、その秘められた「反社会性」ではなく、純粋に「宗教教義」の観点からすれば、そう簡単に批判できるものではないだけの中身はある、ということなのだ。
一一しかし、そうしたオウム真理教や創価学会とは違い、「幸福の科学」とは、宗教に無知な一般人でも「これはトンデモ宗教だな」と一目で分かる、極めてわかりやすいお粗末さをそなえた、稀有な宗教教団であった。
たとえば、「幸福の科学」の総裁、簡単に言えば「教祖」である大川隆法は、自身のことを、釈迦よりもキリストやマホメット(の神)よりも上位の神である「エル・カンターレ」だと自称しているが、この「設定」が、あまりにも安直で幼稚なのは、もはや屢説を要さないレベルであろう。
世間では「嘘をつくのなら、大きい嘘の方がよい(人を騙せる)」などと言うが、さすがに、釈迦よりもキリストやマホメット(の神)よりも上位の神である「エル・カンターレ」だと自称するのは、「僕の方が上」「俺はその上」「僕はその上」といった「子供の自慢合戦」めいた幼稚さが露骨で、さすがに「リアリティー」が無さすぎる。
さらに、「幸福の科学」の売り物である大川隆法による「霊言」、つまり、かの「イタコ芸」などは、まさに「お笑い」の対象にこそ、ふさわしかろう。
もちろん、どんなものにも「例外」はある。
公称「1100万人」という会員数は論外として、本書著者の宏洋も指摘するとおり、「幸福の科学」の信者数は、「幸福実現党」が比例代表区で得た「20万」程度だと見て、大筋で間違いはないだろう。
しかし、この「20万」人という数字もまた、著者が指摘するとおり、18歳以上の会員数ではあっても、その会員すべてが、「エル・カンターレ」という教義や「大川隆法総裁のイタコ芸」を、本気で信じているということ意味するものではなく、「各種事情で入会してしまったので、あとは惰性的に会員であり続けている」という、消極的な会員が大半なはずなのだ。
というのも、あらゆる宗教に言えることだが、教義を丸ごと本気で信じて、人生を賭けて信仰に打ち込んでいる、などという人の方が、むしろ「例外」的存在で、大半は「なりゆきと惰性」の信仰しか持たない信者だからだ。
例えば、一般人のおこなう結婚式や葬式や先祖供養などといった「宗教行為」は、「半信半疑で行われている、惰性的で習慣的な宗教儀礼でしかない」という広範な現実が、その良い例証だろう。
だからこそ、著者も「幸福の科学」の信者数について、次のように正しく推定しているのである。
つまり、私が本稿で言いたいのは、本書に「星1つ」のレビューを投稿する「幸福の科学」信者は無論のこと、本書に「星5つ」をあたえて「幸福の科学」を批判する者(アンチ・幸福の科学)もまた、「宗教」について、まともに考えたことのない人たちでしかない、ということである。
信者の妄信は論外として、その批判者もまた「じつにくだらない」というのが、私の評価なのだ。
事実、著者の宏洋も、本書を読むことで、「幸福の科学」信者が「目を覚ます」などということには、ほとんど期待をしていない。そんな人なら、遠の昔に脱会しているに決まっているからで、それでも会員を続けている人というのは、否定的情報など信じないし、そもそもそんなものに興味がない人たちなのである。
だから、「本書を読んで、現実を見よ」などと、信者に向っていまさら言うのは、実質的には「宗教に無知な部外者の言」でしかないというのを、著者の宏洋は、痛いほど理解しているのである。
本書をまともに読めば、著者の意図が、いまさらの「信者の脱会」工作などではなく、「一般世間への報告」にあるのは、明らかだろう。
つまり「世間の皆さんは、幸福の科学をバカげた宗教だと、軽く考えておられるかもしれませんが、しかし、ああした、私利私欲にまみれた、デタラメな宗教を野放しにしていることで、不幸になる人も出れば、社会的に悪影響を及ぼす怖れもあることを、どうか理解してください。私も、そんな被害者の一人なんです。だから脱会しました」ということなのである。
その意味で、私は「アンチ・幸福の科学」などという(「幸福の科学」批判、あるいは「新興宗教」批判に、特化された)人たちは、まったくつまらない存在だと評価する。
被害にあった元信者ならばともかく、選りにも選って「幸福の科学」などという「わかりやすく幼稚な宗教教団」だけを批判する人というのは、「宗教」の本質的問題にまでは考えの及ばない、「軽薄な正義漢(づら)」でしかないからである。
まともに「宗教批判」をやっている人であれば、「幸福の科学」批判が必要なこととは分かっていても、それ以前に、もっと批判されるべきでありながら、批判されることの少ない「既成宗教」の問題に、継続的に取り組まざるを得ないというのが、否応のない前提なのである。
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私が本書を読んで、特に印象に残ったのは、著者・宏洋の「諦観に満ちた、冷めた文体」である。
通常の「告発本」というのは、「我に正義あり」ということで、「熱意」を持って「悪」を攻撃断罪するというかたちになる(本書に対する「星5つ」レビューの多くも、そうだ)。
ところが、本書の著者には、「アンチ・幸福の科学」のような「熱意」や「浮かれたヒーロー(あるいは、知識人)自認」などは、欠片も無い。
両親や弟妹に対する「冷めた語り」もさることながら、ここには「宗教」というもの全般にたいする「冷めた認識」が、ハッキリと読みとれる。
もちろん著者は、「宗教」全般を否定して、わざわざ事を荒立て、問題の焦点を無駄にぼかしてしまうようなことを避けるために、「宗教」一般については「それが気休めになるのなら、それも悪くはないでしょう」といった、無難な言い方に終始している。
しかし、まともに文章を読める人であれば、著者の本音は「それが気休めになるのなら、それも悪くはないでしょう。……教義で語られるような、超科学的な功徳など、そこに無かったとしても」といったものであることが、容易に読みとれるはずである。
しかし、「アンチ・幸福の科学」と「幸福の科学」信者との抗争では、議論がそうした「本質」レベルに至ることは決してなく、「目くそ鼻くそを嗤う」レベルに終始して、著者の宏洋の失望を、さらに強化するものにしかなっていない。
著者の宏洋は、「アンチ・幸福の科学」などという、「宗教オタク(新興宗教ウォッチャー)」ではない。
彼は、ただ「宗教という無根拠な束縛」から自由でありたかった「普通の人」なのだ。
できれば、「宗教」になどとは深く関わりを持たない「普通の人生」を送りたかった人に過ぎない。だが、彼の「生まれ」が、それを許さなかった。
だからこそ、彼にとっての「幸福の科学」批判とは、「アンチ・幸福の科学」のような「趣味的に積極的」なものではなく、嫌々なされる、嫌々でもなさざるを得なかった、極めて消極的な「過去の清算」にすぎない。
それをしないことには、いつまでたっても「宗教の暗い影」を引き摺らなくてはならないから、しかたなくやっているのが、彼の「幸福の科学」批判で、それはまさに『私の父は大川隆法だった』という「生まれの宿命」からの『訣別』行為だったのである。
彼は、深く傷ついた「不幸な子供」なのだ。にもかかわらず、そんな彼を利用してでも、「幸福の科学」批判という「お遊び」を楽しみたい、知ったかぶりの「外野」に、私は、深い嫌悪をおぼえずにはいられないのだ。
初出:2020年4月29日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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