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デイビッド・リンチ 、 クリスティン・マッケナ 『夢みる部屋』 : 〈巫覡〉としてのデイビッド・リンチ

書評:デイビッド・リンチ、クリスティン・マッケナ『夢みる部屋』(フィルムアート社)

私は『ツイン・ピークス』(第1期、第2期)以来のリンチファンで、もともとは読書家だから、リンチ関連の書籍はたいがい購入所蔵しているのだが、しかしこれまでは、それらをいっさい読んでこなかった。
リンチの、謎めいた作品について、他人の謎解きや解答を聞かされたくないという思いがあったからかもしれない。「謎を解くのなら、映像作品そのものから、自力で」というファンらしい自負があったからであろう。

長編作品は、初期作品の『イレイザーヘッド』と『エレファント・マン』の2作を除いて、すべて観ている。この2作がまだなのは、たぶん「もったいなかった」からなのだろうが、本書を読んだ機会に、近々鑑賞の予定である。
それから、『ツイン・ピークス the return』も、すぐにDVDを買ったのに、いまだ視ていない。これを視る前に、まずは『ツイン・ピークス』を観かえして、『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』も観かえして、などと思っていると、(読書優先のため)それだけのまとまった(DVD鑑賞の)時間をとることが出来ず、ずるずると今日にいたってしまった。

だが、今回刊行されたリンチの自伝である本書『夢みる部屋』は、躊躇なく読むことができた。たぶん、作品論や作品解説ではなく、リンチその人を語った本だということで、自分なりの作品解釈に役立つ資料だと考えたからだろう。

『ツイン・ピークス』がそうであるように、リンチの作品は「謎めいて」おり、しばしば「難解」だと評される。
それは、その「謎めいた」部分に、相応の「合理的な意味付け」がなされていると、鑑賞者の側が理解するからであり、そうした「謎」が合理的に解き得るものだと考えるからだ。

しかし、本書を読んでわかるのは、リンチの描く「謎」というのは、通常の意味での「合理性」に属するものではなく、「推理小説の謎」を解くようなかたちでは、決して解けないであろう性質のものだということである。
と言うのも、リンチは、ごく当たり前に「スピリチュアル」な人であり、「瞑想」において、この世界を直観的に認識し、理解する人であったからだ。

彼の描く「闇」に属する「謎めいたもの」や「非合理的なもの」あるいは「邪悪かつ魅惑的なもの」は、現実的かつ合理的なものの「比喩」や「象徴」ではなく、私たちの現実世界の側には属さず、そのために、普通の意味では「描き得ないもの」を、なんとか形象化し表現しようとした結果の、「非合理」なのである。だからそれは、「この世の合理性」では、十二分に解体することは出来ないのだ。

このように評すると、私自身が「スピリチュアル(霊性)」なものに共感的な人間であると思われてしまうかもしれないが、残念ながらそうではない。むしろその逆で、私は「リアリスト」であり「無神論者」であるからこそ、「宗教」や「スピリチュアリティ(霊性主義)」について、批判的な興味を持って研究している人間だ。だから、リンチの立場に対しても、共感はしないが、理解はできる。

そして、そうした立場からすれば、リンチの「スピリチュアリティ(霊性主義)」を高く評価するつもりなど毛頭ないが、彼がそうした人間であるという事実は、否定することも変えることも出来ないものなので、それは事実として認めるしかない、ということになろう。
それに、リンチのそうした世界認識は、世間に害をなすようなものではないから、それはそういう「個性的感性」として、認めても良いと思うのだ。言い変えれば、宗教とかスピリチュアリズムといったものは、しばしば世に害をなし、警戒すべきものであることが多いのだが、リンチのそれは「例外的に、ほぼ無害である」と判断した、ということである。

私個人は、「論理的解析と直観」のギリギリのせめぎ合いの中で世界を直視する、といった厳しい認識論的立場を理想とするので、率直に言って、リンチの「スピリチュアリズム(霊性主義)」は物足りないのだが、無い物ねだりをしてもしかたがない。彼は思想家でも評論家でもなく、芸術家なのだから、結局のところ大切なのは「表現結果としての作品」なのである。
したがって、本書を読んで、リンチ本人への興味はやや薄れたものの、しかしそれはそのまま彼の「作品」への興味を失わせるものではなかった。

「直観」であろうと「妄想」であろうと「勘違い」であろうと、それによって表現されたものが、「非凡な強度」を持つのであれば、その作品が「世界の何か」を把握し表現しているという事実は否定できない。だから、鑑賞者としては、鑑賞者側のロジックにおいて、その「何か」を読み解く努力と喜びを味わえるし、味わうべきなのだ。
つまり、平たく言えば、「リンチの提示する謎」に対して「あれには、深い意味はないよ。リンチの神経症的な世界認識の反映に過ぎない」などと言って済ませることこそ、鑑賞者としての「無能」の証しにしかならないのである。

リンチ自身は、よくいる「スピリチュアルな人」ではあるけれども、彼は、そうしたいささかユルい構えにあっても、この世界の「隠された何か」を直観して、それに「独特で魅力的な形象」を与えた。

実のところそれは、「霊的な世界把握」などではなく、単純に「鋭く非凡なセンス」の賜物であり、ただ彼はそれを「スピリチュアリティ(霊性)」という「形式」において理解(誤解)したのだと、そう考えるべきだろう。
だから、その「形式的仮象」にとらわれて、リンチの能力を見誤ってはならない。彼自身は、誤った「自己了解」にとらわれていたかもしれないが、たしかに「世界の深み」を直観して、それを的確に表現しえた、「巫覡(ふげき)」的な人なのである。

ならば私たちは、その「謎めいた言葉=魅力的な闇の形象」を、この世の論理的な言葉へと「コード変換」してみせるべきであり、それこそが彼の作品を読み、深く鑑賞するということなのではないだろうか。

ともあれ、デイビッド・リンチという人についての「現象的な謎」は解けたと言えよう。だが、彼が描いて見せた、その奥にある本当の謎は、これからも解かれることを待って、そのまま残されているのである。

初出:2020年11月9日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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