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今年の「12月10日」 : 神戸をめぐる思い出

12月10日は、小説家・中井英夫の命日であり、中井のデビュー作にして代表作であった『虚無への供物』の物語が開幕する日でもある。

そうした意味で、中井英夫ファンにとっては、一種特別な日である12月10日なのではあるが、そうしたことに特別の意味を見出すのがあまり好きではない臍曲がりの私は、例年、人に言われるまで、12月10日を、当日まで失念している場合が少なくない。今年も、昨日届いた、友人からのLAINメッセージで、翌日の今日が12月10日であることを思い出したという始末であった。

今年7月に退職してからは、特に曜日や月に対する意識が薄れ、実際、このように「note」でも書いていなければ、今日が何月何日であるかなど、知っておく必要のない毎日を送っている。

そんなわけで、退職後は「読んでいるか、書いているか、食っているか、寝ているか」という、引きこもりライフを、思う存分エンジョイしている私だが、今日は久しぶりに、神戸まで出かけてきた。前回、神戸に行ったのは、10年ほど前になるかと思う。

今回、神戸に出かけた理由は、好きな版画家の展覧会の案内状が、神戸の画廊から届いたからで、それを観に行く方々、神戸の街の様子を、ぶらぶらと見てこようかと思ったのである。

展覧会は、「神戸元町 歩歩琳堂画廊」で、本日から開催されていた「小池結衣 版画展」である。

今年3月に、大阪の「ワイアートギャラリー」で開催された展覧会については記事を書いているので、小池結衣の作風と私の評価については、そちらを参照いただければ幸いである。

ところで、この「神戸元町 歩歩琳堂画廊」というのも、今回が初めてというわけではない。

今回の案内状は、3月の大阪での展覧会で作品を購入したので、作家の方から送られてきたものだと思うが、この「歩歩琳堂」には、ずいぶん昔に何度か来た記憶があった。

今回名刺をいただいた歩歩琳堂画廊の主人である川辺さんに「ずいぶん昔に、こちらに何度か来たことがあるように思うのですが、昔、梅木英治さんの展覧会をなさったことはありませんか?」と尋ねると、18年ほど前に経営者が替わっているのだが、前の経営者の時代にやっているという話であった。たしかに川辺さんが、その当時から主人にしては、若すぎると納得した。
梅木さんの神戸での展覧会を見に行ったのは、その時だけで、元町商店街の裏手の画廊であったという記憶があったので、たぶんここだろうと思って尋ねたのである。

ついで、「大竹茂夫さんの展覧会もやってませんか?」と尋ねたが、こちらは、あまり自信がなかった。
というのも、元町商店街に近い画廊で行われた「大竹茂夫展」に行ったのは、前記の「梅木英治展」よりもさらに前で、たぶん、神戸での展覧会に足を運んだのは、その時が初めてであっただろうから、別の画廊かもしれないという思いがあったし、その後の神戸での「大竹茂夫展」は、同じ神戸でも、もっと山手に位置する別の画廊で行われており、そちらには何度か足を運んだという、ハッキリとした記憶があったからだ。

だが、結果としては、やはり、こちらでも以前に「大竹茂夫展」をやったことがあり、今も大竹さんとの繋がりはあって、来年には大竹さんをはじめとした「幻想絵画」のグループ展を企画しているとの話であった。

さて、梅木英治さんと大竹茂夫さんについて、ちょっと紹介させていただこう。

梅木英治さんの存在を知ったきっかけは失念したが、たぶん、1992年に国書刊行会から刊行された画集『梅木英治幻想画集 最後の楽園』か、同じ頃に刊行の始まった同出版社による大型企画「日本幻想文学全集」の装丁画家としてである。
私のことだから、たぶん「日本幻想文学全集」の装丁画家として梅木さんを意識したのが先だろうが、出版社としては、画集の刊行もそれと連動したものであり、「日本幻想文学全集」の刊行開始と画集の刊行は、時期が重なっていたはずである。

で、同出版社のサイトによると、同画集の紹介文は、

『メゾチント、油彩、水彩の代表作約120点を収載。ノスタルジアとリリシズムとグロテスクにあふれる夢魂の世界。種村季弘、吉岡実、高橋睦郎ほかの文章とともに、著者自作の童話も収める。金子國義氏推薦!!』

となっており、幻想文学ファンであった私が、この画集に興味を持つのは当然のなりゆきだっただろうし、たぶん「神戸元町 歩歩琳堂画廊」で開催された「梅木英治展」も、この画集刊行記念の展覧会であったように思う。

梅木さんには、その時にお会いしただけか、それを含めて、せいぜい二度ほどしかお会いしていないはずだが、その時の印象は「お酒がお好きな、陽気なおじさん」という感じであった。
梅木さんは、私よりひとまわり上で、当時の梅木さんは、今の私よりもずっと若かったのだが、私も若かったから「中年」の梅木さんが「おじさん」に見えたのである。

しかし、正直に言ってしまえば、梅木さんの画風は、必ずしも私の好みというわけではなかった。
前記の画集が、『最後の楽園』と題されているとおり、少なくとも当時の梅木さんを代表する作品は、ヒンズー教の象頭の神を思わせる、象頭の人物(?)が描かれた「南国幻想」に彩られた作品であったし、どちらかというと「軟質」なタッチの画風だった。

そして、私の好みはというと、今も昔も変わらず、「南国風の柔らかさ」よりは、「暗く厳しい硬質感」の方にあったから、梅木さんの作品で気に入っていたのも、色彩豊かな作品ではなく、モノクロの版画作品の中でも、人物の登場しない、抽象的なオブジェを描いたものに限られていたのである。
したがって、梅木さん本人には好感を持ってはいたものの、その後、展覧会には足を運んではないはずで、もしもお会いする機会があったとしたら、グループ展か何かでだろうという感じだったのだ。

だから、梅木さんと長らくお会いしないままの2009年に、その若すぎる訃報に接したときは驚いた。しかも、その死が、自殺によるものであり、YouTubeか何かに、遺書的な動画を遺していたらしいという話があって、そこに何とも言えない痛ましさが感じたのだった。
梅木さんが「お酒好きで陽気な人」だったのは、きっと、元が繊細な人で、お酒に依存したところもあったのではないかと、そんな風に勝手に想像して、なんとも言えない気分になり、そのことで忘れられない人になったのである。

一方、大竹茂夫さんの方は、今もお元気で新作を描いておられ、時々、展覧会の案内状が届いているが、一時は、始終画廊を覗いていた私も、ある時期から、その熱も冷めて、展覧会へ足を運ばなくなっていた。たぶん、レビュー書きに熱中し始めたからではないかと思う。

ともあれ、大竹さんの方は、展覧会で何度もお会いしており、ネット上でも何度かやり取りをしていたので、かなり個人的な親近感を抱く間柄になっていたと言えるだろう。私は、今年閉鎖したネット掲示板「アレクセイの花園」を含む、ホームページ「LIBRA アレクセイの星座」を開設していたし、大竹さんの方は、今も続くホームページ「冬虫夏草館の秘密」を開設しており、そちらにリンクを張らせていただいていたりしたからだ。

大竹さんは、その作品のモチーフにもなっているとおりの 「冬虫夏草」を含む「菌類」マニアで、当時からその方面では有名な方であったらしい。
画廊などで、雑談となり、談たまたま「冬虫夏草」に話が及ぶと、やおらズボンのポケットからマッチ箱か何か、小さな箱を取り出して見せ、その中には「冬虫夏草」が入っているという寸法である。

「そんなもの、持ち歩いているのか」と驚かされたわけだが、このエピソードは、昭和天皇に粘菌の標本を進呈するのに、キャラメル箱にそれを入れて贈ったという、南方熊楠の超俗的な変人ぶりを彷彿とさせて、大変楽しい思い出である。失礼ながら、私はこういう「一風変わった人」が好きなのだ。

もっとも、こう書けば、大竹さんは「いや、あなたには負けますよ」と言うのは、ほぼ間違いなく、それは私がネット上で「ネット右翼」をはじめとして、あちこちでバトルを繰り広げていたことを、目の当たり見て、知っていたからである。そんな私に比べれば、自分は常識人であるという大竹さんの見解は、たしかに一理あるとは思う。

しかしながら、大竹さんに初めてお会いした展覧会で、学生時代に描いたという「クトゥルフ」の、執拗なまでに描き込まれた鉛筆画だったかペン画だったかの、その濃厚さと、その後の作品の、奇妙な生物たちの乱舞する楽しげな世界は、やっぱり普通とはとうてい言いがたく、「この人は、栴檀は双葉より芳し、タイプだったんだなあ」と思わずにはいられなかった。そして、それに比べれば、学生時代の私は、平凡なアニメファンでしかなかったのだ。

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「小池結衣 版画展」を後にして、ひさしぶりに、神戸元町商店街を歩いてみたのだが、思いのほか活気があったのに驚いた。
10数年前に、その時も久しぶりに歩いた際には、少々「元気がない」という印象を受けたのだが、盛り返している印象がある。

(この写真の何倍も賑わっていた)

大阪の多くの商店街では、シャッターを下ろしたままの店が少なくないが、神戸の元町商店街には、それがない。
神戸の中心地である三宮付近である元町商店街の西端あたりは別にして、前回、商店街を東の端まで歩いた際、東端の方では、少々寂れた感じがあったのだ。
今回、そこまで見に行きはしなかったが、歳末ということはあるにせよ、やはり商店街にはかなり活気があったし、新しい古本屋がいくつも目について、ここでは「ネットのせいで、古本屋の実店舗が消えていく一方」という感じでは、まったくなかった。

(懐かしい店も残っていた。入ったことはないが)

私が、最も神戸に足を運んだのは、二十代半ばから三十代の時期だろう。神戸の阪急花隈駅にほど近い、JRの「高架下商店街」に、「皓露書林」という小さな古本屋さんがあって、私はここに通っていたのだ。

この古本屋を経営していた「金井さん」ご夫妻は、もともとは高校の教師をなさっていたのを、早期退職して、好きな本に関わる小さなお店を始めたという経緯である。ご主人は数学教師で、奥様の方の教科は失念したが、国語だったような気がする。
ご主人は、数学教師だったといっても、相当の読書家であり、幅広い知識を持っており、私の印象に残っているのは、マラルメのファンであったということだ。私にとっては、随分と高尚な趣味だったので、それが印象に残っている。

このご主人は、とにかく聞き上手で、あれこれ自分の守備範囲の話がしたいマニアックな客たちの話を、ふんふんとよく聞いてくださる方で、幅広い年齢層の常連客から尊敬されており、私もそうした客の中の、最も若い部類の一人であった。
奥様の方は、非常に明るく朗らかでおしゃべりな方で、寡黙なご主人とはベストマッチなご夫婦だったという印象がある。

ところで、この「皓露書林」が、普通の古本屋ではなく、まさに「趣味の古本屋」であったのは、客が熱心に本を見ていると、ご主人の方から椅子を出して「コーヒーでも飲んでいきませんか」と声をかけ、近所の喫茶店から出前を取ってまで、コーヒーを振舞ってくださったことだ。
もちろん、誰にでもというわけではないのだろうが、何度も訪れる客や、面白い探求本の相談をする客なんかに興味を持って、声をかけていたのかも知れない。

当時は、インターネットが無かったから、本探しは、もっぱら足で行なっていたのだが、神戸には古本屋がたくさんあるし、何より金井さんに会うために、私は会社帰りに、神戸までいそいそと出かけていった。
私は警察官(交番のお巡りさん)で、(当直・非番・週休の)三部制勤務をしていたから、週に2回の頻度で、当直明けの非番日に、会社を後にすると家には帰らず、そのまま神戸へと足を運んでいたのである。
神戸に着くのが、ちょうどお昼前後で、「皓露書林」も開店の時間だったからだ。

(高架下商店街は、立ち退きで、これが現状)

私は、まず「皓露書林」に直行し、一息ついた後、そこから出て、元町付近の古本屋を約1時間かけて一回りし、その途中で昼食を摂った。そのあと「皓露書林」に戻り、そこで本格的に腰を据え、夕方の閉店近くまで、あれこれと雑談したのである。

と言っても、これだけ始終行って、しかも長時間ねばっていると、話すこともなくなるのだが、話が途切れると、私は何度も何度も見ている棚の本を、またチェックしたりするのであった。
金井さんが「何も変わってないでしょう」とおっしゃるのだが、要は、そこにいること自体が楽しく、居心地が良かったのである。

しかし、そんな「皓露書林」も、かの「阪神淡路大震災」で、一時は休店した。
金井さんご夫婦が高齢であったこともあって、そのまま店を畳んでしまうのではないかと心配したが、しばらくして、再び店を開いた。

だが、それだって永久に続くわけではなく、やがて、本当に閉店することが決まり、私は年長の常連客たちに声をかけて「文集」を作り、金井さんご夫婦に進呈した。
もちろん、とても喜んでくださり、私にしては、珍しく良いことができたと、自分でも満足できた良い思い出である。

だが、もともと私は、用もないのに「ご機嫌伺いの連絡をする」といったことのできない人間なので、その後、何度かは何かの口実があって連絡は取ったもののの、それ以降はほとんど連絡を取らなかった。

すると、ある時、奥様からご主人が亡くなったというご連絡をいただいて、その時は、すでに葬儀も終わった後だったけれど、奥さんにご挨拶をするために、ご自宅に初めてお伺いしたと思う。

そして、その後はまた、連絡を取らなかったのだが、2013年に、私が責任編集という肩書きで関係した『薔薇の鉄索  村上芳正画集』を国書刊行会から刊行することができたので、この本を是非とも、金井さんの奥様に進呈して見ていただき、ご主人の仏前にも供えて欲しいと思い、お手紙を添えて画集を郵送させていただいた。
もしかすると、もう奥様も亡くなっているかも知れないと、内心不安はあったのだが、その後、奥様からお礼の電話をいただき、そのお声が元気そうだったので、とてもホッとしたことを憶えている。

そして、その後もやはり、私は、今日までご連絡を差し上げていない。
ご年齢からすれば、すでに奥様も亡くなっていると思うが、もしかするとまだご存命なのかも知れない。だが、それを確認するために、連絡を取るようなことはしたくない。

いずれ人は死ぬのである。今、生きていようと亡くなっておろうと、私の思い出の中では、その人は変わらぬ面影を留めているのだから、それでいいのではないかと思うのだ。
わざわざか確認することに、何の意味があるとも思うし、お元気でいらしたのを確認したところで、それは私自身のための、一時的な気休めでしかないとも思うのだ。

平均寿命が、男性で81歳、女性で87歳にもなり、「人生百年時代」などとも言われる今日、まだ60歳になったばかりの若造である私が、「死と人生」を語るのは、口幅ったいことなのかも知れない。

だが、定年が見えてきた五年ほど前から、なぜか「死」というものを考えるようになった。
平たく言えば「いつ死んでも後悔しないでいいように、好きに生きたい」という気持ちが強くなってきた。

それでも、母が生きている間は、私が先に死ぬわけにはいかないし、仕事も辞めるわけにはいかないと思っていたが、今年、母を失って、そうした重石がなくなった私は、あと半年で満期定年退職でありながら、自分でも思いもかけず、あっさりと依願退職してしまった。もう、いやいやながら頑張ることはできない、と思ったのだ。
私は、警察官人生の四十年間で、一度もこの仕事が楽しいと思ったことはなかった。ただ、身分は安定しているし給料も悪くない。そして、「交番のお巡りさん」をやっているかぎり、自由になる時間が多く、そこが「趣味人」である私には、何より重要だったのだ。

昨日は「冬のボーナスが、何年かぶりのアップで支給された」というテレビニュースをやっており、私も辞めていなければ、50万円は絶対に下らないボーナスをもらっていたはずで、それはちょっと惜しいなと思ったりもしたが、しかし、退職してからは毎月、同じくらいの給料をもらっていないのだから、今更ボーナスだけを惜しむのは、まったく無意味だし、この4ヶ月あまり、長らく憧れだった「自由気ままな生活」を送れたことを思えば、別に後悔するほどのことではないと思った。

私が仕事を辞めたのは、退職金も年金ももらわないまま、さらには貯金すら遣わないまま死ぬのでは、死んでも死に切れない、と思ったことが大きい。
私には、妻も子供もいないのだから、一銭たりとも金を残す必要はない。だから、できることなら、残りの人生は好きなように生きて、お金を使い切って死にたいと思う。まあ、それでも遣いきれなかったら、ユニセフにでも寄付をするように遺言を書いておかなければならないなあ、などとも思っている。

子供のいる人には、こうした呑気な考え方は、ピンとこないかも知れない。
しかし、人の生というものは、結局のところ、子孫を残そうが残すまいが、いずれ「忘却の彼方」へと消え去ってしまうものなのだと思うし、それが実感できるのは、今の私が「ほとんど(無責任な)自由の身」だからであろう。「その責任において、考えなければならない」という必要がない、からだと思うのだ。

必然性もなく生まれきて、いずれは忘却の彼方に消えていくさだめ。

そう考えれば、生きている間に、出世したいとか、有名になりたいとか、事績を残したいとかいうのも、結局のところ、生に捉われた者の姿なのではないかと思える。

親しくしていただいたミステリ作家の竹本健治さんが、ある時「死後の評価など、どうでもいい」といった趣旨の話をなさり、それにちょっとしたショックを受けた私だったが、今となっては、真理を突いた「重い言葉」のように思う。

人は、なぜ生きるのか。

昨今では、「反出生主義」思想のように、生まれ出て、生きること自体が苦しみであり不幸だ、とそう考える立場もあるようで、それは、ある種の真実ではあると思う。
と言うのも、人間は、自分が生きているかぎり、その「生」に「肯定的な意味を見出したい」と思ってしまうのが当然で、言い換えれば、いやでも「自己正当化」しがちだからだ。

したがって、一部の例外は除いて、「もしかすると、多くの人の人生は、喜びよりも苦しみの方が多いのではないか」と思うし、その少ない喜びをアリバイとして、生を無理矢理にでも肯定しているのではないか、とも思う。

だが、いずれにしろ、現に生きている私としては、この残された生を、真の意味で、生きたいように生きたいと思っている。
もっとも、私の望みとは、読みたい本を読みたいだけ読んで、書きたいことを書きたいように書く、とただその程度のことである。

権力を掌握して、美女を奴隷にして、酒池肉林のやりたい放題をしても、多分、それだけでは満足できないと思うし、実現不可能だとも思うからだろう。
それに私は、残念ながら、虐げられた人たちの気持ちを無視できるような人間にはならなかったので、そんなことを、心から楽しむことはできないのだ。

何をしたら、より深く満足できるのか、それはよくわからないが、ひとまず、好き勝手に書いて読む、これができるだけで、特に不満がないというのも、偽らざる事実なのだ。

人の、快楽や喜びのリミッターというのは、案外、低く設定されているものであり、何をやっても、それほど喜びの「量」に違いはないのではないかと思う。脳科学的に考えても、そうなのではないだろうか。

ただ、殊更に、自分の「幸せ」をアピールしたがる、一部の金持ちや権力者がいて、多くの人は、そうした人たちがふりまく「幻想」に、幻惑されているだけなのではないだろうか。

私も、書籍コレクターとして、いろいろと収集したが、手に入れてしまったものは、もはやオーラを半分以上失うもので、それは稀覯本でも、美女でも、地位や名声でも、結局は同じなのではないかと思うのだ。

(2022年12月10日)

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