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死のように 〈静かな夢〉 : 小池結衣 メゾチントの世界

美術評: 「小池結衣 メゾチント展」(ワイアートギャラリー)

現在、大阪梅田のワイアートギャラリーで開催中の「小池結衣 メゾチント展」に行ってきた。

十数年も前だったか、たまたまネットで見かけたワイアートギャラリーの展覧会告知をきっかけに、以来、二年に一度くらいの頻度で足を運んでいる。最初に行った展覧会で、作品を何点か購入したからか、以来、案内状が届くので、気になったものにだけ足を運んでいる。

私の絵の選び方は、完全に直観的であり、要は、自分の趣味に合うかどうかだけ。世評などは、まったく気にしない。

今回足を運んだ、小池結衣についても、数年前に開催された個展に足を運んでいて、作品も数点購入しており、かなり気に入っている作家だったのだが、作家名については、まったく失念していた。

先日「note」に、現代アメリカ小説家スティーヴン・ミルハウザーの『イン・ザ・ペニー・アーケード』の書評をアップする際、記事のトップにつかう画像をネット検索で探していたら、たまたま小池結衣の「ステージ」を見つけて、これを(勝手に)使った。今回、購入した作品の一つが、この「ステージ」だ。

前記記事のために画像検索して「ステージ」を見つけた際、「これはいいな。ちょっと可愛すぎるきらいもあるが、そこはかとない不安感が『イン・ザ・ペニー・アーケード』に、おおむね合っているし」と思い、その後「この版画家、前にワイアートギャラリーで買った作家の作風に似ているが、同じ人かな? たまたまかな?」と、チラと考えた程度で、それ以上、確認したりはしなかった。

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『ステージ』

○ ○ ○

小池結衣の描くものは、「夢」である。
憧れる「夢(希望)」ではなく、夜に寝て見る「夢」だ。

では、どんな「夢」かと言うと、静かな夢であり、孤独な夢であり、ある意味では「死後の世界」である。

しかし、「静かな」のも「孤独」なのも「死後の世界」であるのも、そこに否定的な意味合いはない。
小池にとっては、それが好ましいものだから、それを描き続けているだけである。「死後の世界は、こんな感じだといいな」と。

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『夢を思い出すことは夢の一部である』

で、私も、ほとんど同じ趣味を持っているから、小池結衣の作品に惹かれたのであろう。小池の作品が、「客観的」に見て特別に優れているからといったことではなく、要は私の「好み」に完全にフィットしたのである。

詳しく確認したわけではないが、小池の作品には、いくつかのパターンがあって、比較的初期のものには(展覧会で設定されたテーマによる部分もあるのだろうが)、「南米の夜」的な「気温」を感じさせるものもある。しかし、それら以外は、基本的に「低体温」だ。
しかし、「寒い」のではない。正確に言うなら「無温度」なのである。なぜなら、「死後の世界」には、基本的には「温度」そのものが無いからであろう。

そして、小池結衣の作品には、「怖い」ものが多い。
幽霊や死者のようなものがものが徘徊している作品も少なくない。また、顔に、ブラックホールめいた真っ黒な穴が空いている人物や、顔の無い、のっぺらぼうのような人物が描かれたりする。しかし、それは「のっぺらぼう」ではなく、たぶん、すでに「個性がない」存在なのではないかと思う。

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『からっぽ』

ともあれ、私は、小池結衣の「怖い」系「不安」系の作品が好きだ。なぜなら、作品に独特の緊張感があって、安心させてくれないところがいい。
「綺麗な絵」というのは、おおむね「おさまりかえっていて、つまらない」のだが、その反対なのである。

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『赦されない扉』

だからと言って、怖ければいいというものでもない。つまり、楳図かずおの「ぎゃーーっ!!」と悲鳴をあげている少女の怖い顔、みたいなものが良いというわけではない。
楳図かずおの漫画は好きだが、私が絵画作品に求めているのは、ああした動的なものではなく、ある意味で「凍りついた一瞬」でありながら、次の瞬間には「何かが起こりそうな、不安な予感」の漂う作品であること。要は、「物語」を描かずに、稀有な「物語」を予感させる、そんな世界の広がりを持つ作品が好きなのだ。

さて、小池結衣の作品には、暗くないものもある。
「明るい」とまでは言えなくても、「救い」や「希望」を感じさせる部分のある作品も、比較的新しい作品には多いようだ。だが、こちらは私の好みではないので、ほとんど見向きもしない。こういう作品は、絵画作品に「癒し」を求める人が購入すれば良いと思う。きっと、売れ筋はこっちでもあろう。作家に食ってもらうためにも、こういう作品はどんどん売れるべきである。

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『風』

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前回の小池結衣展の当時、私は「Amazonカスタマーレビュー」を中心にレビューを書いていたから、画集の出ていない小池結衣のレビューを書くこともなかったが、活動拠点を「note」に移した今回は、映画評でも展覧会評でも、「作品」に関わるものなら何でも書いてやろうという気になっているので、今回の展覧会についても書くことにした。
もっとも、今回の個展も新旧作品の入り混じったもので、展覧会としてのコンセプトを論じる必要もないから、このようにストレート(?)に、作家(画家)論ということになった。

で、前述の小池結衣論(つまり「小池は、自身の夢見る死後の世界に通じる、静謐で、ちょっと不安な夢の世界を描く画家である」)だけでは、あまりにも「当たり前すぎる」ので、今回は、展覧会場に掲示されていた「ギャラリーによる作家紹介文」と、小池自身によるエッセイ「今日 この頃 思っていること」をひかえて帰ってきた。
これらを分析すれば、「作品」というよりは、「作家」の方について、もう少し踏み込むことができるだろうと考えたからだ。

『生きていくには何事もプラス思考でポジティブに、悲しい事を早く忘れて、前を向いてと、励ましのつもりで強要する人が居ます。
小池 結衣さんは こうした日常に感じる違和感や生きる事の苦悩を作品に取り上げて14年、280点を超える銅版画作品が生まれました。
小池さんの銅版画はすべてメゾチント技法で制作されています。
銅板にこまかく垂直、水平、対角の線を刻み、平行に密接した点刻を無数に打ち、銅版の表面に傷をつけて作る深い黒色と、その傷を潰し、削ることで明るい部分を作り出し白色から灰色に階調をつけて作画します。
小池さんの作品はモノクロームの階調に特徴があり、作品の内容を微妙に表現し、心の煙るような暖かみや悲しみを表現しており注目されています。』

 (ギャラリーによる作家紹介文)


『 今日 この頃 思っていること    小池結衣

・ぶれない、迷わない、潔い。若い時にはこれがかっこよかった。
しかしこれは時に、反省しない、人の話を聞けない、思考停止、を意味する。
ぶれて迷って往生際悪く生きるのも悪くない。

・日の出前、日没後に、太陽と反対側の地平線近くの空が暗く見える「地球影」。
珍しい現象でもなく、晴れた日なら、大抵見える。
ぼんやり空を見ることが好きなのに、名前を知るまでこの現象に気づかなかった。

・メゾチントの説明を求められる。求められたので、一生懸命説明する。
相手は大抵ぽかんとしている。
あるいは笑顔で、「じゃあ木版画と同じですね!」などと言ってくれる。(まるで違う。)
なぜ、説明を求めるのか。私の説明が悪いのか。
言葉は、つくづく通じない。では、絵画なら通じるのか。たぶん、こちらも通じない。
絵の説明を求められる。求められたので、また一生懸命、説明する。
大抵は、なにやら誤解したまま、笑顔で納得してくれる。やはり通じない。
けれどもたぶん、それでいいのだ。

・世の中は外出自粛で、人に会えない日が続く。
しかしもともと引きこもりがちな私としては、生活が何か変わっただろうか。
友達付き合いと言うものが煩わしく、友人に連絡をとる習慣もない。
外食は、もともとしない。飲み会に至っては、下戸の私にはほとんど不愉快な記憶しかない。
引きこもって今日も相変わらず、うじうじメゾチントである。
幸福である。

・なぜメゾチント?と聞かれます。なぜ?理由が必要ですか?
好きな食べ物を聞かれ、その理由を聞かれて、
おいしいから、という以上の答えを持っている人はあまりいないのではないかと思う。

・不要不急、と言う。
一昨年病気をした。
医者にかかるのは、要で急と見なされるらしい。
食料品を買いに出るのも、要で急。
外出は、不要不急。展覧会も不要不急。
飲食店の閉店が、相次ぐ。
彼らの職を守るのは要で急ではなかったのか。
要で急の病気を治し、要で急の食料を買い、
私がやることはと言えば、不要不急の何の役にも立たない作品制作。
それなら、その私自身も不要不急ではなかろうか。 』

小池自身のエッセイからは、この人の個性が、わかりやすく伝わってくる。要は、「マイペース」の人だ。

このエッセイからは、抑制されたものとは言え、明らかに「怒り」が伝わってくる。
その作風からは想像できない人も多いだろうが、小池結衣は「怒り」を抱えた人であり、その意味で「怖い」人であり「危険」な作家だ。

小池の怒りとは、要は「偽善」や「言い訳」や「ごまかし」などが、嫌だ、というところに発している。
「好きなものは好き」だから、やっているだけ。理由らしい理由や、必要性、有用性、公共性なんかが無くて、それで何が悪いのだ、ということである。

それは「好きな食べ物」だけの話ではない。「友達づきあい」も「生活」も「美術鑑賞」も、すべて同じだ。

「どうして、好きなものに理由が必要なの?」
「どうして、友達づきあいが悪くてはいけないの?」
「どうして、友達が少ないと恥ずかしいの?」
「どうして、友達にこまめに連絡を取ってご機嫌伺いをする、気配りがなければいけないというの?」
「どうして、作品を理解しなければならないの?」
「どうして、作家に作品説明を求めるの?」

そんなこと、どうでも良いではないか。
好きな人と好きな時に好きなように付き合い、好きな作品を自分勝手に鑑賞すれば良い。

どうして、自分の「生き方」や「趣味」を理由づけし、それを「アリバイ」や「三つ葉葵の印籠(問答無用の権威)」のごとく持っていないと安心できないのか?
あなたはどうして、人の顔色ばかりうかがって生きているのか? 一一そんな生き方、つまらなくないか?

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『月光』

小池結衣の言いたいことは、おおむねこういうことである。

「いや、そこまでは言っていないし、そこまでの確信犯でもない。じっさい、私には迷いも多いし、その意味で、意外に自信もない」と言うかもしれないが、それは自身に対する期待水準が高いから、そこからすれば「たいしたことありませんよ、私なんか」という、けっこうな「謙遜」でしかないのである。

したがって、小池結衣が「切り捨てられる人たち」の存在に注目し、「弱者」の味方として、「切り捨てる人たち」を批判するのも、要は「嘘つき」や「偽善」や「ごまかし」が嫌いだからであり、それが不愉快であるからに過ぎない。
「人を苦しめてでも良い目が見たいと思ってやっているのなら、堂々とそう言明してやれば良い。それなら、まだ納得できる」という気分なのである。

それにしても、なぜ、小池結衣は、こういう人なのだろうか。

それは無論、彼女自身が、そのように生きてきて、ほとんど何の不都合もなかったからである。そして、そのように生きられない「弱い」人たちの「ごまかし」というものが、「作家」的な感性には、もっとも「悪しきもの」に感じられたからだろう。

作家というのは、良くも悪くも自分の持っているものでしか勝負ができず、それでダメなら仕方がないじゃないかという世界(であるべき)なのだが、世間の人たちは、あまりにも「自分」を偽り、自分を殺して、つまらない生を生きている。一一そのように、小池には感じられているのであろう。そして、この「直観」は、まったく正しいと思う。

ただし、私が思うに、世間の多くの人は、善人も悪人も含めて、そもそも、自分の生を十全に生きる力を持たないのだ。出さないのではなく、もともと持たないから出せないのである。

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『不安』

そして、そのことに小池結衣は、なかば気づいている。だからこそ、無駄に「予防線」ばかりが張り巡らされた、騒々しくて煩わしい「この世」にはウンザリさせられ、「死後の静謐な世界」に憧れるもするのだろう。

むやみに「安心・安全」ばかりを求めて、うるさく情報が飛び交う世界ではなく、無駄なものは闇の底に沈んでしまった、静謐な世界。しかし、だらしなく生ぬるい、つまり安心安全な「天国」ではなく、どこかに「不安」を隠し持った、緊張感を失わない「死後の世界」に惹かれるのではないだろうか。

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もちろん、小池結衣本人に会ってみれば、決して「怖い人」でも「変人」でもないだろう。この私が、そうであるように。

だが、作家にとっては、「世間での顔」などどうでもいいし、「誤解」されるのも仕方ない。所詮「この世」そういう場所なのだ。

そう思っているから、私はこのように遠慮なく「小池結衣」論を書いている。
本人が、どう思おうと、そんなことは関係ない。それが、作家なのだ。

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 執筆:2022年3月22日
 公開:2022年3月23日

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