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平山瑞穂 『忘れないと誓ったぼくがいた』 : 〈双曲線〉の交わるところで

書評:平山瑞穂『忘れないと誓ったぼくがいた』(新潮文庫)

「特異な才能を持った小説家」というのは、しばしば貧乏くじを引きがちである。
なぜならば、その「特異な才能=非凡性」というものは、たいがいの場合「一般ウケ」しないからである。端的に言って、彼の才能は理解されないのだ。また、理解されたとしても、本筋とは違うところで評価されがちなのである。そして本作についても、それは同じだ。

本作は、ヒロインが「周囲の人々の記憶とともに徐々に消えてしまう」という「超自然的」設定による、悲恋物語である。
「平凡な少年が、あるとき魅力的な少女と出会うのだが、彼女には悲劇的な運命が進行中であった」というような点では、本作も「ありふれた悲劇的悲恋もの」の一つだと言えるだろう。
この種のパターンは、ヒロインが死病に憑かれていて余命幾ばくもないとか、病いによって記憶が失われていくといった、類似の作例が多数あるのだが、本作の場合、悲劇の原因は「超常的現象」であり、しかも作中ではそれについて「現実的な説明」が無いばかりか「SF的な説明」すらもない。その悲劇は、ただ「運命」のごとく「理由も無く」起こるのである。

したがって、本作を、その種の「悲劇的悲恋もの」として読むと、「少し違う」と感じる人が出てくるのも、決して故無きことではない。著者は、ある程度意識的に「一般ウケ」の良い、よくある「悲劇的悲恋もの」を書こうとしたのだろうが、著者がもともと持っている、その「特異性」は、やはり否応なく滲み出てしまっているのである。

何人かのレビュアーが言及しているように、著者が『ラスマンチェス通信』で日本ファンタジー大賞を受賞した人だと知った上で本作を読むのであれば、その「滲み出している特異性」は、決して苦にはならないものどころか、もっとやってほしかったくらいのものなのだが、当たり前に「一般的な悲劇的悲恋もの」を期待した一般読者が「何か違う」と感じたのも、決して間違った評価ではなかったのである。

では、本作は、どこが「一般的な悲劇的悲恋もの」と違うのだろうか?

私が思うに、「一般的な悲劇的悲恋もの」は「完成した恋愛が失われていく悲劇」を描くのに対して、平山の場合は「本来交わるはずのないものが一瞬交わったように思えた、悲劇的な夢想」を描いているのではないかと思う。
つまり、「一般的な悲劇的悲恋もの」では、主人公の少年とヒロインは「同じ世界」に住んでいて、同じ世界の中で恋愛を成立させ、しかしそれが「この世界の中」で失われてしまう悲劇を描いているのだが、本作の場合、主人公の少年とヒロインは、もともと「別の世界」に属しており、少年のヒロインへの憧憬は、その「もともと手の届かないもの」へのそれであって、それが「成就しない」というのは、初めから運命づけられたものだった、ということなのではないだろうか。

もちろん、物語の設定の上では、ヒロインももともとは、少年と同じ世界で当たり前に生きていたということになっているのだが、しかし、作品上での描写においては、ヒロインは最初から「あちら側の世界」の人でしかない。最初から「普通の女の子」ではないのだ。だが、それ故にこそ、常ならざる不思議な魅力が彼女にはある。それは、彼女の「悲劇性」が醸し出すものと言うよりも、もともと「この世のものではないからこその魅力」なのではないかと、私には感じられる。つまり、彼女の魅力というのは、少年には「手の届かないもの」として大きいのであって、「消失という運命の悲劇性」は、物語の本質部分ではないように思えるのだ。

どうして、こうなるのかと言えば、それはもちろん、著者が求めるものは「あちらの世界にいる(不在の)女性」であって、「こちらの世界にいる女性」との恋愛や悲劇ではない、といった、この作家の本質に由来するものなのであろう。

だから、「こちらの世界での恋愛や悲劇」を求める読者には、作者が描かんとする「手の届かないものへの憧憬」は、何かズレたもののように感じられるのではないか。
そして、もしこの「悲恋小説」を「非凡に魅力的」だと読者が感じたのなら、それはその読者の求めるものが「こちら側の世界」のものではない、ということを意味するのではないだろうか。

このようにして、本作の評価は「こちら側の人間」と「あちら側の人間」で、微妙に交錯しつつ、すれ違うのである。

初出:2020年5月15日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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