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荻原浩 『人生がそんなにも美しいのなら 荻原浩漫画作品集』 : 「優しさ」以上の何か

書評:荻原浩『人生がそんなにも美しいのなら 荻原浩漫画作品集』(集英社)

荻原浩は、直木賞受賞作家である。当然、小説家だ。
その小説家が一冊のマンガ単行本を刊行しているというのを新聞書評で知って、興味を持った。その記事は、文庫版の刊行に際してのものだったから、単行本が刊行されたのは3年前の2020年で、私が入手したのは単行本の方である。マンガは、文庫サイズで読むものではない。

じつのところ、荻原浩の作品を読むのは、これが初めてである。つまり、小説は読んだことがなかった。
結構、評判の作品を出している売れっ子作家だから、その存在はだいぶ前から知っていたのだが、なんとなく、ぜひ読みたいとまでは思わず、ずっとスルーしてきた。しかし今回、このマンガ作品集を読んで、その理由がわかった。

私は、もともとアニメとマンガで育ってきた人間だし、高校生の頃には「漫画部」にも所属して、多少なりとも絵を描いてきた人間だから、「絵柄」というのは、かなり端的に、その人の「人柄」を反映するものだというのを知っている。もちろん、文章書きにおける「文体」も同様で、「表現行為」においては、否応なく描き手(書き手)の人間性がそこに反映されてしまうものなのだか、やはり絵柄のほうが、かなりわかりやすい。

で、荻原浩の「絵柄」はどうだったのかというと、「優しく温かい」。そして、およそ気取ったところがない。またそれでいて十分に上手い。プロの漫画家でも、荻原に及ばない者などいくらでもいるだろう。今の時代に流行る絵柄だとは言えないとしても、荻原の絵柄には、「絵本」のそれのような、優しさと安定性があったのだ。

そして、私がなぜ、これまで荻原浩の小説を読まなかったのかも、これでわかった。
荻原は「尖った作品」「重厚な作品」を描くタイプの作家ではないというのが、その「絵柄」からはっきりと感じとれたし、私はこういう「優しくて上手い」タイプの作家は、おおむね避けてきたからである。
しかし、無論それは「趣味の問題」であって「良し悪し」の問題ではない。私はこの「漫画作品集」を読んで、なるほどこの作家は侮りがたいと思ったのだ。

荻原の作品リストをチェックしてみると、表面的にはいろんなジャンルの作品を書いており、どれも評判は上々で、当たりはずれの少ない器用な作家のようである。
ということは、換言すれば、表面的にはあれこれ器用に書ける作家ではあっても、けっして、自らの個性を消して無理をするような作家ではなく、どんなジャンルの小説を書くにしても、その個性において一貫した魅力を発揮するタイプの作家なのであろう、と察せられた。

(直木賞受賞作)

で、私は、この「漫画作品集」に感じられた荻原浩の「人柄と世界観」に、私が通常求めているものとは違った方向性を感じたはしたものの、それでも小説の方だって読んでみる価値は十分にありそうだと、そう感じたのであった。

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本書には、8本の短編マンガが収録されている。

絵柄的には、わかりやすいところでは、ドラマやアニメ映画になった『夕凪の街 桜の国』や『この世界の片隅に』のこうの史代を挙げておけば、間違いない。
「民俗学的な世界」に惹かれている点でも、その共通性は否定できないところで、両者が本書の刊行にあたって対談しているというのも、必然性のあることだ。荻原は、こうののファンなのだそうだ。

(こうの史代『ぼおるぺん古事記』より)

また、この対談では諸星大ニ郎の名が挙がっているが、これも、ごく自然なことだ。荻原が諸星大次郎の影響を受けているというのは否定できないところだろう。

(諸星大ニ郎『男たちの風景』より)

だが、こうした名前を挙げているだけでは、前記対談の受け売りにしかならないから、私独自の視点で、ここでは別の作家名を挙げておこう。
それは、荻原とは真逆と言ってもよい、個性派のマンガ家・谷弘児(陰溝蠅兒)である。

(谷弘兒(陰溝蠅兒)『盲時計』より)

荻原の絵柄は、谷弘児から「毒気」や「ネチネチと描き込む執着性」を抜き去って、そこに「明るい人柄の良さ」や「優しさ」「柔らかさ」などを充填したら、こんな絵柄になる、といった感じなのだ。谷弘児が西洋の悪魔なら、荻原は日本の郷土の神仏である。
たしかに、絵柄的に、こうの史代や諸星大次郎に似ているとは言え、この二人よりもむしろ、意外に「かっちりとした感じ」の絵柄は、谷にそれに近いのではないだろうか。

なお、谷弘児について、「毒気」や「ネチネチと描き込む執着性」などと書いたけれども、もちろん、私は谷が嫌いなのではない。そうではなく、むしろとても好きな「個性派作家」であり、谷こそが、私が本来求めている方向での「尖った」作家なのだ。
そんな谷弘児と荻原浩の絵柄が、方向性を真逆に違えながらも、しかしどこかで似ているというのは、不思議なものである。

(本集収録作。上が「祭りのあとの満月の夜に」、下が「大河の彼方より」)

だが、絵柄以外に共通点がないのかと言えば、そんなことはない。
両者に共通しているのは、この「現実世界」を確固として不動のものだとは見ずに、他の世界と融通無碍につながっているという感覚である。方向性こそ違え、そうした世界観が、両者に共通しているのだ。

谷弘児の場合だと、この世界が裏でつながっているのは、「怪奇幻想の世界」である。主人公は、この当たり前の世界から、わりあいあっさりと「異形の世界」に滑り込んでしまう。そんな恐怖をともなった快楽を描くのが、谷弘児というマンガ家の稀有な個性なのだ。

それに対し、荻原の描く世界は、「この世とあの世」がシームレスにつながる「民俗社会的な世界」だと言えるだろう。
そこでは、「生者と死者」に大きな区別はなく、「この世とあの世」、あるいは「現実世界と異界」があっさりとつながっていて、そこに「差別」はない。両者は完全に「同等」なのだ。

(「猫ちぐら」より)

そして、この「同等性」であり「非差別性」とは、荻原の本質的な「肯定性」に由来するものであり、そこに発する「おおらかな優しさ」が、作品全体を覆っていると評してもいいだろう。
本作品集の中には、地球の滅亡を描いたような作品もあるけれども、それは決して恐ろしいような作品ではない。むしろそれは、ユーモラスな作品であり、そうした点で、他の「心優しい作品」と矛盾するものでは、まったくないのだ。

つまり、荻原浩の作家的個性とは、結局のところ、この「肯定性」にある言えるだろう。
何がどうなろうと、それはそれで、決して悲観すべきことでも不幸なことでもない。私たちがこうして生きられたことこそが、あるいはまた、死んでしまえることすら、その大前提として、幸福なのである。一一そんな、悠々とした肯定性を、この作家は持っている。

だから、こうした他を持って代えがたい「荻原ワールド」に魅せられる固定的なファンが、かなりいるのだろうというのも容易に察せられる。
私個人は、こういうものより、不幸を不幸として直視するという方向に惹かれるリアリストではあるのだが、思いのほか、荻原浩の「肯定性」の強度は、侮りがたいものだと、本書によって知らされたのだ。

そんなわけで、本書は、見かけからは想像できぬほどの強度を持った稀有な作品集である。だから、目先の優しさには捉われない、「大人の読者」にこそ、強くお薦めしたいと思う。ここには、もっと大きな何かがある。


(2023年9月21日)

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