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近藤聡乃 『はこにわ虫』 : 記憶と夢の手ざわりを求めて

書評:近藤聡乃『はこにわ虫』(青林工藝舎)

今では『イラストレーター・漫画家・アニメーション作家』Wikipedia)ということになっているらしい本書著者による、2004年刊行の第一作品集である。

版元は「青林工藝舎」
特異かつ前衛的な漫画誌『ガロ』で知られ、伝説的な編集者・長井勝一の創設した小出版社「青林堂」が、長井亡き後の経営的なゴタゴタのすえに、いつの間にか「ネトウヨ御用達の出版社」になってしまったために、青林堂の衣鉢を継ごうと、新たに設立されたのが、この「青林工藝舎」である。

同社は、『ガロ』の後継と呼んでよいだろう漫画雑誌『アックス』を刊行して、時代に即しつつも、流行とは一線を画する、新たな「ガロ系」の新人作家を輩出している。
本書の著者・近藤聡乃は、その「第2回アックスマンガ新人賞奨励賞」(2000年)を受賞して、漫画家デビューした作家である。

さて、じつのところ私は、『ガロ』系のマンガが苦手な人間である。もちろん例外はあるものの、おおむね「絵柄が不気味」という印象が強い。
また、ストーリー性が薄く「イメージの具象化」に重きを置いたクセの強い作品が多く、なんとなく「内向的」かつ「自閉的」な印象もある。昔の言葉で言えば「ネクラ」だろうか。

(つげ義春「ねじ式」

このあたりは、たぶんつげ義春のイメージが強いのだろうし、実際、『ガロ』と言えば「つげ義春」と言っても、そう大きく間違ってはいないはずだ。
もちろん、私が幼かった半世紀近くも前なら、左翼学生から絶大な支持を受けた伝説的な作品『カムイ伝』白土三平という「社会派」の作品もあったようだが、こちらは「劇画調」の絵柄が好きになれないのと、かなり長い作品なので、「読んでおかなければならない作品」だとは思っていても、いまだに読んでいないし、この先も読まないだろう。
その点、「つげ義春」の場合は、1冊に収まる作品も多いようだから、ひとまず、あまりにも有名な短編「ねじ式」を表題作とする短編集だけは、だいぶ前に読んでいる。そして「なるほど」おおよそのところイメージしていたとおりだと確認し、たしかに「ユニークな作家」だと、それなりに評価はしたものの、「好き」にまではならなかった。

「つげ義春」にしろ、『カムイ伝』の白土三平にしろ、とにかく、その「情念が漂う画風」が好きにはなれなかったのだと思う。
だから、白土三平の場合なら、少年漫画誌に連載され、テレビアニメや劇映画にもなった『サスケ』『ワタリ』なら、かなり好きだった。私の場合はもともと、白土三平にはアニメで接したのだし、そこでは「劇画タッチ」が、いい具合に整理され希釈されていた。また、なにより白土自身が、子供向けを意識して描いた、主人公の少年忍者が「可愛くて」好きだった。まあ、その意味ではワタリの方は、サスケに比べるとだいぶ印象が薄い。そもそも「忍者もの」は好きだったのだが、サスケの方は、とにかく「健気な美少年」というところが、私の琴線に触れたのだと思う。今でも、あの「親指だけが強調された足」の省略表現が忘れがたい。

(白土三平『カムイ伝』より)
(アニメ版『サスケ』より、主人公サスケ)

そんなわけで、私には、「絵柄」でマンガを選んでしまうところが、大いにある。
「読めば、たぶん評判どおりの名作なのだろう」と思い、「読むべき作品」だと思ってはいても、「絵柄」のせいで、どうしても手の伸びなかった名作がいくつもある。
例えば、(『ガロ』系ではないが)はるき悦巳『じゃりン子チエ』などもそうだ。尊敬するアニメ監督、故 高畑勲が高く評価してテレビシリーズを作ったくらいだから、間違いなく「傑作」なのだろうと思ったものの、アニメは視たけれど、原作マンガの方は、どうしても読む気になれない。「読まなきゃ」とまで思っても、手が止まるのは、やはり「絵柄」のせいなのだろう。
また『じゃりン子チエ』の場合も、アニメ版なら視ることができたのだから、厳密にいうならば、「絵柄」が嫌いというよりも、「タッチ」あるいは「描線の個性」が嫌いなのだと思う。具体的にいうなら、まず『ガロ』的な「軟質な線」が嫌いであり、『じゃりン子チエ』の場合は、いささか「垢抜けないガサツな描線」が嫌いなのだ。
私が、アニメーター杉野昭夫が好きなのは、杉野の「描線」が、「ガロ系」とは真逆に「硬質で力強くもシャープ」だからであろう。私の好みの「線」とは、言うなれば「劇画の力強さと、アニメの洗練と、漫画の柔らかさをかねそなえたもの」という感じだったのだ。

(杉野昭夫によるアニメ『宝島』の修正原画)

私のイメージで、喩えて言うなら、「ガロ系」の絵柄というのは、庭石をどかせるとその下に見つけるような、小型の芋虫やダンゴムシやゲジゲジといった「湿った」印象のある、あまり触りたくはないタイプの虫であり、杉野昭夫の場合は、カブトムシやクワガタムシ、あるいはカミキリムシやタマムシといった「乾いた硬質感」のある虫だとでも言えようか。
これは、私が「恋愛小説」などに代表される「情動先行」の「湿った」小説には興味がない一方、「本格ミステリ」のような「思考・分析」的な(ドライな)小説が好きなのと、軌を一にした、「感覚的指向」なのであろう。私はどうにも、「湿ったもの」や「ぶよぶよしたもの」が好きではない。これは、完全に「理屈」ではなく、感覚的なものなのである。

(『はこにわ虫』収録作品「虫時計」

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そんなわけで本書、近藤聡乃の第1作品集『はこにわ虫』にしても、決して私の好みではない。特に、初期作品ほど好きではないのだが、2004年の作品集刊行のために描かれた表紙画くらいにまで洗練されているなら、好みとは言えないまでも抵抗はなかったから、読んでみる気にもなったのであろう。
また、だからこそ巻頭のデビュー作「小林加代子」は、私のイメージする「ガロ系」の絵柄そのものであり内容であったから、その意味で、本作品集の中では、一番「好みに合わない作品」であった。

(『はこにわ虫』所収、デビュー作「小林加代子」

では、そんな私が、どうして近藤聡乃を読んでみる気になったのかというと、たまたま目にした、SNS「note」の記事で、ある知らない人が、まだ名前も知らなかった近藤聡乃を、やたらに褒めていたからである。
まあ、プロになるほどの力量があれば、どんな作家にだって、熱心なファンくらいはいるだろうから、そんな評価自体は、まったく当てにはならない。実際のところ、狭い視野の中で、自分の「好み」を自己肯定的に垂れ流しているだけの人が大半だからだ。

だが、「ぜんぜん知らない作家」というところで引っ掛かった。もしかすると、すごい作家なのかもしれないし、読んでみれば「私好み」の作家なのかも知れないからだ。
だから「ひとまず1冊読んでみよう」と思い既刊本を確認してみると、すでにベテランと言ってよい作家で、著作もそれなりにあったので、ひとまず第1著作を読んでみることにした。「デビュー作には、その作家の資質が詰まっている」というのは、おおよそ正しい認識だと思っていたからである。

本作品集には、2000年のデビュー作から、本作品集の刊行年である2004年の作品までが収められているが、「絵柄」的に言えば、どんどんと「洗練」されていくと言うか、「私の好み」に近い方へ変わってきている。絵柄がスッキリしてきているのだ。
初期作品に見られた、いかにも「ガロ系」らしい「過剰に情念的なもの」が、薄れてきたと言うよりは、前面に出てこなくなったという感じに変化しているのである。

だが、本作品集の収録作品で、私が最も好きなのは、いちばん最後に収録されている「つめきり物語」(全5話)で、これは「2003年」の作品だから、新しい作品ほど好みに合うとまで「単純化」することはできない。
ただ、初期の作品には薄かった、ある種の「禁欲」あるいは「自己抑制」的なものが、著者の中で作動するようになってきているようには見えたのである。

(『はこにわ虫』所収「つめきり物語」

つまり、当然ながら本質的な部分は残っているとしても、それを「そのまま」取り出そうとするのではなく、ある種の「抑制」という「形式的な殻」の中に収めることに、作者は、ある種の「美」を見るようになってきたのではないだろうか。

近藤の作品は、少なくともこの作品集に収録されている作品に限っていうなら、「すべて」の作品が、「女性性」と「夢(無意識的なもの)」や「記憶」をテーマとしていると言ってよいだろう。
自分の中にあって、明確に「言語化できないもの」をビジュアル化することで取り出そうとする衝動が、この作者には感じられる。

(2019年開催「近藤聡乃展 呼ばれたことのない名前」の出品作品)

ただ、初期の作品は、その「衝動」に逸るところがあったのだが、徐々に「じっくりと腰を据えて」というスタンスに変わってきたように思える。要は「余裕」が出てきて、「これみよがし」な「若さ」が薄れてきたのではないか。

そして、こうした「抑制性」において、最も「私の好み」に合っていたのが、前記の「つめきり物語」だ。この連作には、どこか、稲垣足穂『一千一秒物語』を思わせる「硬質感」がある。
稲垣足穂のそれは、また私にすると「硬質すぎて手に負えない」部分もあるのだが、「つめきり物語」は、適度に「柔らかい女性性」があって、「ちょうどいい」感じに仕上がっていたのだ。

そんなわけで、近藤聡乃という作家は、「私の好み」だとはとうてい言えないものの、この変化の先にあるものには、興味がある。

事実「Wikipedia」を見てみると、『A子さんの恋人』(2015年-2020年)全7巻とか、『ニューヨークで考え中』(2015年-)既刊4巻といった、本作品集からは想像もできない「現代的で都会的な洗練」を感じさせる作品タイトルになっているし、何より「長編」化しているのが興味深い。本書に代表される初期の「ガロ系」の作風では、このような「長編」化は困難なはずで、作家の中で「物語」性、あるいは、「物語という枠組み」への要請が強まっているというのは、ほぼ間違いのないところであろう。

ほとんど別人の作品。絵柄的には高野文子を思わせる)

また、近藤は、エッセイ集も刊行していれば、アニメーション作品まで作っているというのだから、根っこのところは変わらないにしても、少なくとも、その「開かれ」の方向性において、変化を見せているというのは、間違いのないところであろう。
したがって、私が興味を持つのは、この作家の「何が変わらず、どの側面が発展展開したのか」であり「その変化は、何に由来するものなのか」といった側面であり、要は「分析的な興味」なのである。

この作家の「感覚的なもの」「情念的な匂い」に、「共感する」ことは出来そうにない。しかし、その正体を「腑分けして理解したい」と、そう思うので、私は今しばらく、この作家とつきあってみたいと思う。


(2023年12月17日)

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