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〈描線〉 と 作家的個性について : 「画像生成AI」とは 無縁なもの

本稿は、本日書いた、『乱歩えほん 押絵と旅する男』のレビューの中身を、ほぼそのまま流用し、それに補足を加えたものである。

なぜ、「ほぼ同じ内容のもの」を書き直して、別タイトルでアップするのかというと、その内容の半分以上が「アニメーターの描線」に関するものでありながら、上の「書評タイトル」では、読んでほしい、「アニメ」に関心を持つ多くの読者の目には止まらないだろうからである。

したがって、上のレビューを読んでくださった方は、本稿では「○ ○ ○」記号で挟まれた部分は、飛ばしてもらってかまわない。

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私が本稿で紹介したいのは「描線の個性」という、あまり意識されることのない問題である。

鉛筆画、ペン画、油絵などの手法的区別などを問わず、描き手が直接、画面に絵筆を走らせる創作行為において、その絵が「個性」を持つのは、描かれている物(題材・モチーフ)の選択や、構図、色使い、タッチといった、誰もが容易に気づくことのできる要件における「選択的な違い」だけ、から生まれるものではない。
(※ したがって、本稿では、自分の「線」で描かない、画像生成AIを使った作品は、対象外である)

私たちが、頭の中にあるイメージを「文章」化する場合に使う道具とは、「言葉」である。「言葉」を組み合わせることで、ある「意味」や「イメージ」を文章化して表現し、それで「意図するもの」を他者に伝えようとするわけだ。
例えば、江戸川乱歩の短編小説「押絵と旅する男」のイメージを、自分の「言葉」で(「言葉」に置き換えて)他者に伝えたいと思った場合、「幻想・耽美・幻惑・無常・彷徨」といった言葉を、多くの人が使うことになるだろう。

だが、こうした「単語」自体には、書き手の「個性」というものは、こもっていない
Aさんが「耽美」と書こうが、Bさんが「耽美」と書こうが、その「意図しているところ」に違いがあっても、その「単語」だけを見ている読者にとっては、どちらも同じ「耽美」という言葉であって、そこには「何の違いもない」ということになる。

つまり、文章表現による「個性(の表出)」というのは、「言葉の組み合わせ(関係性)」の中で初めて発生するものであって、「単語=言葉」自体に、あらかじめこもっているものではない。その意味で、「言葉」というのは、道具としての「無機質な記号」でしかない。「個性」を宿すのは、「文章」になって初めてのことなのである。

一方、「手描きの絵画表現(鉛筆画、ペン画、油絵の手法的区別などを問わず、描き手が直接、画面に絵筆を走らせる創作における表現)」の場合、そこでは、各種の「画材」を駆使することで、表現したい「意味」なり「イメージ」なりを、画面に定着させることになるのだが、ここでは、最も基本的で、一般には「個性的」なものとは思われず、ややもすると見過ごされがちな「線=描線」というものを問題にして、「個性というものは、たった1本の描線にも表れる」ということを確認したい。

「線」とは、決して「文章表現における単語(言葉)」のような「無機質なパーツ(道具的ブロック)」ではなく、「1本の線」がすでに「個性を表現したもの(表現結果)」になっている、という事実を確認しておきたいのだ。

このあたり、絵を描かない人には理解しにくいところなのだろうが、絵を描く者には、これは常識に類する話である。

 ○ ○ ○

「線=描線」というのは、プロフェッショナルな絵描きと、絵を描かない素人では、「線1本」を引いただけで、その違いがハッキリと表れる。
わかりやすく言えば、プロの線は「生きている(あるいは、生き生きして力がある)」のであり、それに対し、素人の線は「死んでいる(あるいは、力が無い)」のだ。

さらにプロの絵描きの場合、同じ「生きている線(あるいは、生き生きして力がある線)」だといっても、その線には、書き手の「個性」がハッキリ出てしまう。プロの絵描きの「線」といっても、みな一様に「力強くシャープ」だということではないのだ。

「プロの線」としてわかりやすいのは、前記のような「力強くシャープな線」ということになろうが、しかし、その「絵描き(作家)」の個性が、「力強さ」や「シャープさ」といったところにはない場合、その「線」もおのずとそういうものではなくなってしまう。
例えば、「病的」であり「暗い」作風の作家の「線」は、その「世界観」を表現するのにマッチした「病的」に「力弱い」線になる。「力強くクッキリとしたシャープな線」ではなく、「力弱く、時によろよろとよろめき、途切れそうな線」であることも珍しくない。

しかしそれは、決して、素人の「死んでいる線(あるいは、力が無い線)」と同じなのではない。

素人の「死んでいる線(あるいは、力が無い線)」とは、要は「自分が表現されていない線」あるいは「表現するほどの自分を持っていない者の線」ということでしかないのだが、自身の個性を反映したものとしての「力弱く、時によろよろとよろめき、途切れそうな線」というのは、そういう「個性を生きている線」なのである。

例えば、「手塚治虫の描線」と「諸星大二郎の描線」(あるいは「大友克洋の描線」「萩尾望都の描線」)などを比べてみれば、その「違い」は一目瞭然なのだが、その「違い」は「上手下手(巧拙)」の問題ではない。

(手塚治虫『ブラック・ジャック』
(諸星大二郎『妖怪ハンター』

例えば、「手塚治虫の描線」は、わかりやすく「力強く、かつカワイイ」ものだが、そんな「手塚治虫の描線」のまま、諸星大二郎(あるいは、大友克洋、萩尾望都)のキャラクターを描いたとしたら、それは「上手な模写」にはなっても、「まったく別物」になってしまうというのは、明らかだ。

つまり、モノクロのマンガ作品に限定しても、「絵」というのは、単に「キャラクターデザイン」や「構図」といったものだけでできているのではなく、その作家の「線」によって、その作家特有の「息吹」が吹き込まれるものなのである。

で、このあたりまでなら、素人にもわかりやすい実例だが、もう少しつっこんだ例を挙げておこう。

いわゆる「アニメーション」、特に多人数で制作する「テレビアニメーション」などの場合は、キャラクター(登場人物)を、誰が描いても同じように見えるようにするために、例えば、原作マンガにおける「描線の個性」というものを、消すのが一般的だ。

キャラクターを似せるだけでも大変なのに、「個性的な描線」まで似せるとなると、とんでもなく手間がかかるし、そもそもそれは、よほどの手だれではないと真似できないことだから、普通「作業効率」の問題として、そうした「描線の個性」まで再現することはしない。逆に「(テレビアニメらしい)フラットな描線」に、あらかじめデザインしなおされる、のである。
つまり、原作マンガ付きのアニメ作品における「キャラクター・デザイン」というものが、なぜ存在するのかといえば、それは「絵柄を統一し、描線を統一する」ためなのだ。

したがって、一般に、上手いアニメーターの線というのは、一見したところは、さほど「個性的ではない」のだが、しかしまた、それでいて同時に、「生きている線(あるいは、生き生きして力がある線)」でもある。
どんな絵柄にも適応できるように、不必要な「個性」は主張しないよう訓練がなされているからこそ、マンガ家が描くような線とは違って、アニメーターのそれは「描き手の個性を主張しない線」になっているのだ。
しかしながら、「個性」というものは、殺して殺し切れるものではないし、隠して隠し切れるものではない。

例えば、その昔、虫プロが製作した傑作テレビアニメ『あしたのジョー』(原作・高森朝雄、作画・ちばてつや)の場合、キャラクターデザインは、アニメーター杉野昭夫が担当したが、作画監督は各話分担制で、杉野昭夫だけではなく、荒木伸吾金山明博の3人体制で進められた(なお、チーフ・ディレクターは、出崎統)。

(上は、ちばてつやの原作。下は、杉野昭夫の『あしたのジョー2』)
(『ジョー』という作品を象徴するカットのため、原作に忠実に描こうとしているが、それでも、個性としての、絵の持つ「温度」が違う)

で、このアニメ版『あしたのジョー』を見ると、各話の作画監督が誰なのかが、見馴れた者には、おおよそわかるのだ。
これは、「描き癖」というのももちろんあるのだが、力を込めて描けば描くほど、「描線」の違いというものが、出てくるからである。

いずれも、「天才」と呼んでいいほどうまいアニメーターであり、当時は3人とも「若手の俊英」だったから、各人が競うようにして、良い絵を描こうと力を尽くした。そうすると、最低限「似せる」努力はしても、やはり「個性」が出てしまう。わざわざ力を矯めてまで、絵柄を似せることに専念できないからである。

(金山明博の描いた矢吹丈。書き下ろしと思われる)

私が「描線の個性」ということを説明するときに持ち出すのは、最初に挙げた「手塚治虫と諸星大二郎(あるいは、大友克洋・萩尾望都)」という「わかりやす過ぎる例」ではなく、基本的には「個性を消す」アニメーターの中でも、特に「上手い」と言われるアニメーターたちの「描線」である。

たしかに、人物画(キャラクター画)まで描けば、その「描き癖」において、描き手を推定することは、比較的容易だ。だが、「1本の線」だけなら、はたして「見分け」がつくものなだろうか?

普通はつかない。だが、見馴れてくれば、おおよそ「見分けがつく」ようになるのである。

例えば、わかりやすいように、個性的なアニメーターを3人上げると、前記の「杉野昭夫」「荒木伸吾」に、ここでは「安彦良和」を加えよう。
この3人が、どれだけ優れた仕事をした作家かは、いまさら縷説の必要はないだろうが、それだけの仕事をした人たちだけあって、並のアニメーターとは、「線1本」からして、ものが違うのだ。
線を1本、シュッと引いただけで、その力強い線には、たしかに「個性」が宿って、まさに息づいているのである。

(杉野昭夫のよる『マルコ・ポーロの冒険』の設定画と画面レイアウト・1979年)
(荒木伸吾による『キューティーハニー』設定画・1973年)
(安彦良和による『勇者ライディーン』の設定画・1975年)

では、その「違い」とは、具体的にいうと、どうなるのか。
それを文章表現した先例はまだ無いと思うが、私はここで、あえてその難題に挑戦しよう。

杉野昭夫の線は「硬質で力強い、透明感のある線」である。
荒木伸吾の線は「艶のある、完成した線」である。
安彦良和の線は「シャープで、躍動感のある線」である。

アニメマニアの方に聞きたいが、この「描き分け」は、いかがだろうか?

もちろん、いかな天才アニメーターだと言っても、年齢とともに成熟し、やがて衰えていくものだから、描いた時期によって「線」の持つ「力」はもとより、「個性」さえ、多少なりとも変わるという事実は否定できない。

例えば、この中で、最も「線」が変わったのは、安彦良和だと私は思う。
この人の線は、若い頃は「走り過ぎるほどに走る」見るからに天才アニメーターの線だったが、マンガ描きを長く経験し、歳をとった現在の安彦の線は、ずいぶんと落ち着いたものになったように、私には感じられるのだ。

 ○ ○ ○

このように「絵画表現」とは、単に「題材(モチーフ)」や「テーマ」といった「意味的内容」だけでないというのはもちろん、それに加えて「色使い」や「(意識的な)タッチ」といった「テクニック的なもの」だけでもなく、そもそも、半ば無意識に引かれる「描線」1本からして、「個性」というものが否応なく表れるものであり、そうした「半ば無意識」なもの(表出)を考慮せずして、絵画表現というものの実態を、理解できるものではない。
ほとんど「手癖」に近いものにさえ、その作家の「個性」が、作品の中に表れているということを、よくよく知ってもらいたいのだ。

それは、「テレビアニメの作画」という、「(描き手の)個性を消す」という「特異な方向性」を発展させてきたジャンルにおいてさえ、描き手が「良い絵を描こう」と力を尽くせば尽くすほど、否応なく「個性」が滲み出てくるものだという事実を知って欲しかった。

世には「個性的な表現者でありたい」と考える人と、「個性は一般的な需要の妨げになるから、無個性でフラットな表現者になりたい」と考える、まったく相反した2種類のタイプに、大まかに分けることができるだろう。

だが、本稿で語ってきたことを理解できたなら、「個性」というのは「出そうと思って出す」ものではなく、「出すに値する個性があれば、それは否応なく出てしまうもの」であり、逆に「無個性でフラットな表現者」というのも、「なりたくて、なれるものではなく」、そうでしかあり得ない者が「そうならざるを得ないもの」なのだと、そう理解できるはずだ。

無論、力を抜いての「小手先レベル」でならば「個性を隠す」ことも可能ではあろうが、本当に力のこもった表現においては、個性は否定できるようなものではなく、むしろ「個性の充実度」において勝負するしかないのだということを、「表現者」を目指す人には、是非とも真剣に考えてほしい。

言うなれば、「作家的個性」というものは、「恩寵としての祝福」であると同時に、「束縛としての呪い」でもある、ということであり、そこでは、それ(個性=自分自身)を引き受ける覚悟が、是非とも必要となるのである。

(2023年7月19日)

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