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ジャン=ガブリエル・ガナシナ 『虚妄のAI神話  「シンギュラリティ」 を葬り去る』 : エセ知識人の 権威主義的〈被害妄想〉

書評:ジャン=ガブリエル・ガナシナ『虚妄のAI神話 「シンギュラリティ」を葬り去る』(ハヤカワ文庫NF)

本書は「シンギュラリティ論のうさん臭さ」を批判した批評書だが、残念ながら、著者自身が自負するほど科学的なものではなく、むしろ人文学的な「美意識論」に過ぎないものとなっている。
私自身、完全に人文的な人間ではあるのだが、だからこそ、著者の自己愛的な議論の独善性が、鼻ついて我慢ならない。

著者の「肩書き」を過信し過大評価している方もおられるようだが、それは著者自身が本書において、ほかの著名人の「肩書きの権威」とそれへの「妄信」を批判しているのだから、「肩書き」に惑わされて著者を妄信するなどというのは、そもそも著者の意図にも反したものと言えるだろう。
その上で、著者の文章のみを虚心に読むならば、著者の批判は、いかにもバランスが悪く、所詮は、偏見的な「決めつけ」ありきの議論でしかないと言えよう。

例えば「シンギュラリティ」と言っても、それにはいくつかの意味があって、ひとまとめに「非科学的で論ずるに値しない」と断じられるようなものではない。

『 この(※ シンギュラリティ)仮説には現在、主に三つの見方が存在する。第一は、AIが人類に光明をもたらすという楽観論、第二は逆に災厄をもたらすという悲観論。両者はいずれも、シンギュラリティがかならず到来するという前提に立っている。次に、来るか来ないか、よく分からないが、経済効果を見込めるし、マスコミ受けがして予算も取れるので騒いでおこうという中立論だ。』
(本書の西垣通「解説」より)

つまり、
 (1)楽観論
 (2)悲観論
 (3)利用論(予想の内容ではなく、利用目的の功利的立場)
の3つに分けられるのだが、(3)については、基本的には社会倫理的な問題であって、「シンギュラリティ」仮説の内容当否の問題ではないので、ここでは議論から除外する。

まず(1)の楽観論は、AIがシンギュラリティを超えて進化し、人間と一体になって、人類に進化をもたらすといった「技術的ユートピア論」とでも呼べるものであり、一方(2)の悲観論は、AIがシンギュラリティを超えて進化した結果、人類を超えた存在となって、人類に取って代わり、人類を使役したり絶滅させたりするようになるといった「技術的ディストピア論」だとでも言えよう。

本書の著者の場合、この明らかに方向性の異なった3つの仮説を「シンギュラリティ」という言葉でひとまとめにして、「うさん臭い」と批判して見せているのである。
しかし、明らかにこれは、そういう問題ではない。

つまり(1)の楽観論が、正しい見通しなら、それは喜ばしいことと言えようが、問題は、それが「確実ではない」という点にあるし、また喜ばしい結果が「すべての人」のためのものでないのならば、やはりそれも、恩恵を受けない人にとっては「究極的格差拡大のディストピア」にしかならない。
したがって(2)の悲観論は、「すべての人」にとっての場合と「一部の人」にとっての場合の、両方を含むものとして、検討に値するものだと言えよう。つまり、人類全員が不幸になる場合は無論、一部の金持ちが技術的エリートとして君臨し、その他を「ただの人間」として「非人間」的に扱うような世界もまた、歓迎すべからざる「ディストピア」に相違ないからである。

もちろん、そんな世界が確実に到来するとは限らない。「未来」とは、いつでも「可能性」でしかないからだが、人は「予想を立てて行動する」生き物なのだから、「危険性の高い予測」が立ったならば、それに対応しようとするのは「当然の備え」であって、それは「シンギュラリティ」仮説に対しても、まったく同断なのである。

骨の髄までの「無神論者」として知られるスティーブン・ホーキングが、悲観的な「シンギュラリティ」を語るのは、西垣が語るところとはちがって、「シンギュラリティ」が「必ず到来するもの」だとは考えられておらず、「改変可能な未来」だと考えての「警鐘」に他ならない。
100%避けられない悲劇について、わざわざ「警鐘」を鳴らす意味などないのは、分かり切った話でなのだ(そもそも、必然の未来に対するそれは、「警鐘」ではなく、「泣き言」にしかならない)。

つまり、ホーキングら(2)の悲観論者が言いたいのは「シンギュラリティの悲劇は避けられない」ということではなく「避けられる悲劇は、避けるよう努力すべきだ」ということであり「(1)の楽観論や、(3)の目先功利論に甘んじて、悲劇回避の努力を怠るならば、シンギュラリティの悲劇は避けられない」という「不作為における必然」の問題に他ならないのである。

よって、(2)の悲観論の立場から、(1)の楽観論や(3)の目先功利論を批判するのは、しごく当たり前なことなのだが、なぜか本書の著者は、(2)のホーキングらの「警鐘」をも、(1)や(3)を「追認・保証」するものでしかない、かのように強弁している。
本書におけるロジックの「無理」や「不自然さ」は、ここにあるのだ。

では、なぜ著者は、(1)から(3)までをひとまとめにして、こんな無茶な「難癖」をつけたのだろうか。

それはたぶん、著者が「人文学的な議論の厳格性」にこだわり「木を見て森を見られなくなった」からであろう。

「シンギュラリティ」というのは、そもそも「何時来るかは分からない」ものであり、単に「もう間近なのではないか」という、漠然とした「期待や不安」の上で語られている仮説にすぎない。
また「シンギュラリティ」とは「予測限界点」のことでもあるのだから、あらかじめ語ることなど、厳密に言えば、ほとんど無意味であり、徒労に等しいこと、のように見えるのだ。だから「理性的な人間は、そんなペテン的な話に惑わされるべきではない」というのが、本書の著者の「良識」なのだろう。

だが「予測不可能」なことは「あり得ないこと」ではない。

『チェルノブイリや福島の原発事故は、予測可能な原因によって引き起されたのではなく、さまざまな出来事が連鎖した結果、引き起されたものである。一連の出来事は、確かに起こりうる蓋然性はあった。しかし、それらの出来事が重なって、ひとつの大きな結果に至ることは、予測を超えたことだったのだ。』(本書文庫版P152)

つまり著者はここで、福島原発の事故は「複雑な事象の重なりの結果であり、予測不可能な事態であった(から仕方がなかった)」という、東京電力が大喜びそうな話をしているのだが、この理屈が、極めて初歩的な「言い訳」でしかないというのは明らかだろう。
と言うのも、世の中の多くの社会的事象は「単一原因によるもの」などではなく「無数の要因が複雑に絡み合った複雑系」であり、人間はそれを前提として「想定しうる(考えられる)不幸な事象」に可能なかぎり備えなければならないのだし、事実そのとおりにしてきたのだ。

ところが、著者は「学問は、厳格でなければならない。その点、シンギュラリティ仮説などというものは(20メートル級の大津波同様)、科学的な仮説の名に値しないファンタジーでしかなく、じつは金儲けの道具でしかない蓋然性も高いのだ」などという「陰謀論」めいた「視野狭窄的な正義感」を振り回しているだけなのである。

もちろん、著者の意見にも、いくつか聞くべき「知見」が含まれてはいるし、それは著者もまんざら馬鹿ではないのだから当然のことなのだが、しかし「ある点で極めて優秀な人の意見が、どんな局面ででも正しいというわけではない」というのは、明らかな歴史的事実なのだから、読者は著者自身の言うとおり、著者の「肩書き」に目を眩まされることなく、その主張の中身を、醒めた目で検証すべきなのだ。

じっさい、著者と面識もある、問題意識を同じくする日本人研究者としての西垣通が、本署の解説を書いているが、西垣の書きっぷりが、著者の主張と微妙に距離をおく、無難なものである、というくらいのことは、読み取って然るべきであろう。

ちなみに、著者が「グノーシス主義」の話を持ち出しているので、キリスト教に無知な日本人は「おお!」と驚かされるかも知れないが、このような「異端」思想の扱いは、キリスト教圏ではむしろ「陳腐」なものだと言えよう。

例えば「善なる神が創ったこの世に、どうして悪や不幸が存在するのか」という「当たり前の疑問」に答えようとする「神義論」が、いつまで経っても人々を説得できないのは、そもそも「善なる神がこの世界を創った」というのが「嘘」だからなのだが、それでも少しは誠実に説得力のある世界論(仮説)をと考えれば、グノーシス主義のように「神には、善と悪の二種があった」という方が、よほど「論理的」なのである。
ところが「論理性」において劣るキリスト教正統教会は、理屈において勝った「グノーシス主義」を排除するために何をしたかと言えば、キリスト教的「ダブルスタンダード」(例えば「キリスト論=完全な神であり、かつ完全な人間でもある、キリスト」とか「三位一体論=神は、三つのペルソナを持つが、同時に神は一つである。よって、キリストを神とすることは、偶像崇拝ではない」などという非論理的な強弁)を「正統教義」と決めて、グノーシス主義的な党派を、暴力的に排斥したのである。

つまり「グノーシス主義」とは、すこしも「うさん臭いものではない」のだ。
それが、うさん臭いものであるかのように語られるのは、彼らを「異端」として抹殺したキリスト教正統教会の「勝てば官軍」的「歴史修正主義」による印象操作がなされたからで、いまどき「グノーシス主義は二元論で、うさん臭い」などという「比喩」を平気でつかうキリスト教圏の知識人など、もともと知的公正さに欠けた、うさん臭い存在なのである。

初出:2019年9月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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