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小林武彦 『生物はなぜ死ぬのか』 : 近い将来に 絶滅する人類として 〈誇りある撤退戦〉を

書評:小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)

ユーモアを交えた軽い語り口だけれども、書かれていることは、実に「冷徹な事実」である。

問題は、その事実に、私たちが向き合うことができるか、あるいは、「面白いことを教えてもらった」と言いながら、実際には何もしないで、本書で語られた現実との直面を避けて、顔をそむけるか。この二つに一つである。

本書に語られているのは、

(1)生物は(人間は)なぜ死ぬのか
(2)人間はなぜ老化するのか

という2点について、「進化論」的に説明して、「死にたくない」「老いたくない」という人間的な感情を、少しでも理知的に「相対化」することだと言えるだろう。

では、本書で語られる「進化論」的な、「死」の理解、「老い」の理解とは、どういうものだろうか。

(1)については、生物(種)が適度に絶滅死しないと、入れ替わりが起こらず、生物全体が死滅することになるからである。つまり、進化論的に言えば、より優れた(環境に適応した)生物が生き残ればよいわけで、それが人間である必要はない、ということだ。
(2)については、複雑化した多細胞生物にあっては、細胞の老化による「小さな死」があってこそ、新しい細胞という「小さな誕生」が可能となり、総体的には、種の保存に必要な程度に、命を長らえることができるからである。

一一とまあ、これは私の理解だとしておこう。

著者は、こうした「進化論的な事実」を語ることによって、「死」というものの「必要性」を語り、「老い」の「意味」を語り、人類が絶滅すること、個々人が死ぬことへの、闇雲な恐怖を和らげた上で「それでも人間は、より良く生きることはできる」と説明する。いや、人間の生命の進化論的な意味を知れば、人間がいかに「正しく」生きなければならないかが理解できるはずだと、そう期待して本書を書いたのだと言えよう。
著者が言いたいのは、「種の存続のために」、要は「せめて子や孫の世代のために」、私たちは今の生き方を考えなおさなければならない、ということだ。後の世代に「ツケ」を回すような生き方は、「種」としての自殺行為である、と警告しているのである。

当然、その『ユーモアを交えた、軽い語り口』にも関わらず、著者の「未来予想図」は暗い。

『私は、何も(※ 少子化)対策を取らなければ、残念ですが日本などの先進国の人口減少が引き金となり、人類は今から100年ももたないと思っています。非常に近い将来、絶滅的な危機を迎える可能性はあると思います。未来への投資は簡単ではありませんが、手遅れにならないうちに真剣に取り組むべきです。』(P166)

つまり、今やっているような「少子化対策」などは、到底『真剣』な取り組みとは呼べない、まったく不十分なものであり、このままでは、たったの100年ほどで『絶滅的な危機を迎える』可能性は否定できないだろう、と言うのである。

私はこの「未来予想図」を、ことさら悲観的なものだとは思わない。ただし、私の考える、人類が『絶滅的な危機を迎える』主たる原因は、「少子化」ではなく、「地球温暖化」であり、その観点から「良くて100年」だと考えている。
だから、私は本書著者のようには、「実の子」を作らなかった。こんな世界に、子孫を残すのは「無責任」だと思ったからだ。

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(人は、絶滅への途上よりも、むしろ絶滅後の風景に安らぎを感じるのかもしれない。苦しみながら生きるよりも死んだほうがマシだ、ということなのだろうか?)

著者が、こんな「暗い未来予想図」を抱えながら、それでも『ユーモアを交えた軽い語り口』で、人々に「未来のために動こう」と訴えかけるのは、端的に言って、子や孫に対する「責任感」あるいは「負い目」のせいだと思う。
子供を作った以上は、子供たちが最低限「普通」に生きていけるような環境を遺してやらないことには、あまりにも「無責任」だと考えるから、著者は「親」としての最低限の務めを果たそうと、なかば「絶望的な撤退戦」だと承知していながらも、義務感から戦っているのではないだろうか。
そして、そんな「絶望的な撤退戦」であり「抵抗戦」だからこそ『ユーモアを交えた軽い語り口』ででも語らないことには、どこにも救いのない本になってしまうという自覚があっての、この文体選択だったのではないだろうか。

そんなわけで、私個人は、なかば以上「人類は、あと100年くらいで、実質的に死滅するし、それは進化論的には必然的なことで、良いも悪いもないことだ」と思っている。

だが、人類の最晩年に、それでも比較的「幸福」に生きさせてもらった者としては、せめてもの恩返しとして「絶望的な撤退戦」に手を貸すくらいのことはしようと思っている。つまり、残りの命を、自分の趣味快楽の追求だけに使うのではなく、残される人類子孫のために、少しは「義理を果たしておこう」と考えており、私がこのようにレビューを書いているのも、そうした活動の一つなのだ。
だから、私のレビューの多くは、「嫌なこと」を言い、「傍観者ではなく、当事者として動け」というメッセージが込められている。「どうせ言っても無駄だ」と思ってはいても、「無駄を承知の努力」をすることが「義理を果たす」ことだからである。

『 ここからが重要ですが、次に子供たちに教えないといけないのは、せっかく有性生殖で作った遺伝的な多様性を損なわない教育です。ヒトの場合には、多様性を「個性」と言い換えてもいいと思います。親や社会は、既存の枠に囚われないようにできるだけ多様な選択肢を与えること、つまりは単一的な尺度で評価をしないことです。
 加えて、この個性を伸ばすためには親以外の大人の存在が、非常に重要になってきます。自分の子供がいなくても、自分の子供でなくても。社会の一員として教育に積極的に関わることは、親にはできない個性の実現に必須です。特に日本は伝統的に「家」を重んじ、しつけや教育をそこで完結させる文化があります。子供が小さいときには、基本はそれでいいのですが、個性が伸び始める中学・高校生くらいからは積極的にたくさんの「家の外のいい大人」と関わらせるべきです。私は、少子化が進む日本にとって社会全体で多様性を認め、個性を伸ばす教育ができるかどうかが、この国の命運を分けると思っています。
 他人と違うこと、違う考えを持つことをまず認めてあげないといけませんね。残念なことに日本の教育は、戦後の画一化したものに比べて良くはなっていますが、まだそこまで若者の個性に寛容ではありません。若者が自由な発想で将来のビジョンを描ける社会が、本当の意味で強い社会になります。
 正直言って、個性を伸ばす教育というものは、ともすれば型にはまらないことを良しとする教育なので難しいです。それを達成するための一番簡単で効果的な方法は、「本人に感じさせること」でしょう。親やコミュニティーが自ら見本を見せることです。また、親の世代も含めた社会全体で多様性(個性)を認め合うことが大切です。「君は君らしく生きればいいよ、私がやってきたみたいにね」という感じです。子供の個性の実現を見て、親はその使命を終えることができるのです。』(P176~177)

端的に言って、これを「日本人」に期待するのは、極めて困難だということくらいは、著者も重々理解しているだろう。だが、『子供たち』への責任として、無駄を承知で、それでも言わないわけにはいかなかった、ということであろう。

それに、ここでは「子供たちの個性を認めてあげよう」と言っているが、実質的には「あなたがた大人が、他人の個性を認め、多様性を認めないことには、未来は無いよ」と言っているも同然なのだが、「和をもって貴しとなす」とか「絆」とか言いながら、その「同調圧力」で、「個性的な人間=毛色の変わった人間」を排除し、潰していくというのが、日本人の日本人たるところなのだから、普通に考えれば、こんな提案は「現実味のない理想」であり「絵空事」に過ぎないだろう。だが、それでも著者は、「親」の責任として、こう書かずにはいられなかったのであろう。まことに痛々しいことだと心より同情するし、また、だからこそ私は、せめてもの務めとして「家の外のいい大人」の役割を演じようと、こんな憎まれ口を叩いてもいるのだ。

私の、子供たちへの、ここでのメッセージは「言いたいことを言えよ。嫌われたって気にするな。言いたいことを言う奴がいるから、社会は硬直しないでいられるんだから、言いたいことを言う奴は、自己犠牲的なカッコイイ文化英雄なんだぜ」ということである。

私は独身で子供もいないから、遺伝子は遺せない。しかし、遺伝子を遺すとは、なにも子供を遺すだけではなく、固有の情報を遺すことでもあろう。いわゆる「ミーム」というやつだ。

『ミーム(meme)とは、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報である。例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である。』
(Wikipedia「ミーム」

だとすれば、私がやっていることも、立派な「種」への貢献だと言えるだろう。たとえ、あと100年ほどしか生きられない種だとしても、私は私なりに、「本能」のままに、「種」に貢献しているのであろう。

初出:2021年5月13日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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