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映画 『ヒドゥン』 と ジャック・ショルダー監督の秘密

映画評:ジャック・ショルダー監督『ヒドゥン』&『エルム街の悪夢2

ジャック・ショルダー監督『ヒドゥン』は、私の偏愛する映画の一本だ。

デイヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピーク』で一躍スターダムにのし上がった、カイル・マクラクランの主演で、1987年の、ニュー・ライン・シネマ制作作品である。

主演のカイル・マクラクランは、本作『ヒドゥン』でも、『ツイン・ピークス』と同様、背広姿の若きFBI捜査官を演じているが、作品としてはこちらの方が先で、むしろ『デヴィッド・リンチが、(※ 『ヒドゥン』の主人公)ギャラガーのキャラクター造形を高く評価したため』、そのイメージを『ツイン・ピークス』に拝借したものだ『と伝えられる。』そうだ。(※ 『』内は、Wikipedia「ヒドゥン」からの引用)

(『ツイン・ピークス』より)

私個人は、『ツイン・ピーク』でカイル・マクラクランを知り、すっかりファンになって、その後、可能なかぎり観た彼の主演作の一つが、本作であったという順になる。

捜査協力依頼のために単身、所轄警察署の殺人課部屋にやってきた、カイル演じるところのFBI捜査官ロイド・ギャラガーが、主任刑事のトム・ベック(マイケル・ヌーリー)に自己紹介したところ、それを横で見ていた刑事の一人が「ずいぶん若いな。FBIは高校生を雇うようになったのか?」と冷やかしの声を上げる。たしかに本作のカイルは、『ツイン・ピーク』の3年前とはいえ、当時すでに28歳になっているのに、二十歳過ぎくらいに見える。彼の、色白で育ちの良さそうな優男ぶりが、実年齢より、かなり若く見せるためだろう。

ちなみに、若いと言えば、カイルは『ヒドゥン』以前にすでに、リンチ監督の『デューン/砂の惑星』(1984年)、『ブルーベルベット』(1986年)に出演しているから、私の印象とは違って、この作品のカイルが最も若いというわけではなかったようだ。

(『デューン/砂の惑星』より)

さて、まず何より『ツイン・ピーク』のファンであり、カイル・マクラクランのファンであり、デイヴィッド・リンチのファンでもある私だが、カイルの主演作品で好きな順というと、『ツイン・ピークス』に続くのが本作『ヒドゥン』ということになる。
退屈な『デューン/砂の惑星』は別にしても、評判も高く、それなりに好きな作品である『ブルーベルベット』であって、カイルの魅力を引き出しているという点では、『ヒドゥン』の方が上だったからだ。

 ○ ○ ○

そんな、知る人ぞ知る傑作『ヒドゥン』が、どんな映画なのかというと、ジャンルで言えば「SFホラーアクション」ということになる。

『ロス市警刑事トム・ベックは、カーチェイスの末、凶悪殺人犯を逮捕した。しかし、いくら調査しても、犯人のデヴリーズは平凡な常識人であったという証言しか得られない。そのことに混乱しているベックを、ロイド・ギャラガーと名乗るFBI捜査官が訪ねてくる。エリートの若僧への反発から、ベックは犯人が死亡したことを理由に追い返そうとするが、ギャラガーは強引に捜査に介入してくる。
ギャラガーは、これは連続した事件で、次の事件がまた起きると言い、そのとおりに同様の凶悪事件が発生し、犯人は射殺された。犯人のミラーは、デヴリーズとはまったく交友はなく、唯一の接点はデヴリーズが死亡した病院で同室だったことだった。
疑念を深めるベックに詰問され、ギャラガーはついに一連の事件はすべて同一犯によるものであり、自分も犯人も同じ異星人だと告白する。』

(WIKIpedia「ヒドゥン」

お話の内容は、妻子を殺された異星人(?)の宇宙生物が、犯人である宇宙生物を追いかけて地球にやってきて、どちらも人間に寄生したかたちで、追い追われるという物語。なんだか、初代「ウルトラマン」第1話のようなお話だ。

ただし、悪者異星生物の方は、寄生した人間の体を使い捨てにして別の人間の体に(口から口へと)乗り移る際に、何度か、そのナメクジとゴキブリの合いの子みたいなグロテスクな姿を見せるのだが、ギャラガー(カイル)に乗り移った方の異星生物は、最後まで姿を見せない。

物語の最終盤で、瀕死の重傷を負った、親友となった刑事ベックの命を救うために、ギャラガーの体に寄生していた善玉の異星生物はベックに乗り移るのだが、その際も、悪玉とは違い、金色の光の帯のようなものが、口から口へ吹き込まれるという、何やら遠隔キスめいた、きれいな光学合成で表現されていてる。

そんなわけで、「WIKIpedia」に書かれているような『同じ異星人』だとは、とても思えないのだが、本編の内容としても、別種の異星生物と解することも可能だと思う。
一一だが、いずれにしろ、これもどこか、初代「ウルトラマン」の最終回を思わせるものだった。

『ヒドゥン』は、基本的には、カーチェイスや銃撃戦を見せ場とした「刑事モノの追跡アクション」だと言ってもいい。そこに、SF要素としての「敵の不死身性」が加わるので、普通の刑事モノでは不可能な、ど派手なアクションが可能になっており、痛快さも倍増なのだ。

したがって本作は、決して特に深い内容のある作品ではなく、基本的には「低予算のB級アクション映画」なのだが、しかしその一方、1988年の「第16回アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭」において、本命視されていた、ポール・バーホーベン監督の大ヒット作『ロボコップ』を押さえて、みごとグランプリを受賞しており、エンタメ映画として、とてもよくできた作品だったと言えるだろう。

そして、その魅力はというと、まずわかりやすいのは、テンポの良いスピーディーな展開とド派手なアクション。そして、適度にユーモアを交えつつ、最後はヒューマニズムあふれる、感じの良い物語になっている、といった点だろう。
つまり、低予算ながら、よくぞここまで魅力溢れる完成度の高い作品を作ったとものだ言いたくなる、およそ欠点らしい欠点のない、傑作エンタメ作品だったのだ。

(※ この予告編は、アクションばかりを強調しすぎて、本編の良さを表現できていないので注意)

だが、ここまでなら、これまでに多くの人によって指摘されてきただろう、「表面的な魅力」でしかない。
したがって、ここからは私独自の「深読み」を披露しよう。

 ○ ○ ○

まず、この作品に存在する『テンポの良いスピーディーな展開とド派手なアクション。そして、適度にユーモアを交えつつ、最後はヒューマニズムあふれる、感じの良い作品』を「超えた部分の魅力」とは、その独自の「リリシズム(叙情性)」だと思う。
そしてそれを引き出したのが、カイル・マクラクランの、反時代的なまでに「浮世離れした、雅びな雰囲気」だ。彼の「王子様キャラ」である。彼が、映画出演の以前にはシェークピアの舞台にも立っていたというのも、なるほどという感じではないだろうか。

(「ミーハーdeCINEMA」より)

通常、『ヒドゥン』のような「バディ(相棒刑事)もの」というのは、「インテリ刑事と粗野な刑事(つまり、知性派と肉体派)」とか「都会派刑事と田舎刑事」あるいは「ベテラン刑事と新米刑事」という感じの好対照ペアで、そんな二人が、最初はそのタイプの違いゆえの齟齬もあってぶつかりもするが、最後は、お互いの足りないところを補い合う名コンビへと成長していく姿を描く、というタイプの作品である。

そうした意味では、本作も「若手エリート捜査官と、現場の実力派刑事」というコンビなのだが、カイルが演じる「若手エリート捜査官」には、単に「若い」とか「エリート」とか「知的」というのとは違った、独特の「浮世離れした雅びさ」がある。「エリートでも現場派」でもない、そもそも「どこか浮世離れした生活臭の無さ」があるのだ。

一一で、これが「異星人に乗り移られた人物」というキャラクターに、ぴったりとハマっている。
要は、単なる「異なったタイプの人間のバディ」ではなく「人間と異星人のバディ」であり、それでいながら外見上は普通に「人間のバディ」にしか見えないところで、独特の雰囲気を生んでいるのだ。

もちろん、当初ギャラガーは自分の正体を隠したまま、ベックとともに悪玉異星人の乗り移った凶悪犯を追うのだが、相手は人間の体を使い捨てにすることで次々と「姿」を変えていくため、人間のベックからすれば、犯人は死んだはずなのに、同じような犯人がリレー的に発生するという、訳のわからない状態に置かれることになる。そして、どうやらギャラガーはその意味を知っているようなので、事情を話せと迫るが、ギャラガーはなぜか「話しても、君には理解できない」と、頑なに説明を拒むのだった。

つまり、この物語は「常識を異にする異種どおしが、その違いを乗り越えて、相互理解と友情を深めていく物語」であり、そこが普通の「バディもの」とは、少し違っている。
普通の「バディもの」なら、乗り越えるべきは、せいぜい「人間としてのタイプの違い」程度なのだが、『ヒドゥン』の場合は、「生物種」というかなり「決定的な違い」を乗り越えた「友情」を描いているのだ。そしてそのせいで、通常の「ヒューマニズム」の枠を超えた、どこか「浮世離れしたリリシズム(叙情性)」さえたたえた作品になっているのである。

だが、「生物種の違いを越えた友情」を描いたことによって、この作品は、なぜ、ここまで「美しいリリシズム」をたたえるものとなりえたのであろうか?

私は、その答えを、この「異星人」というのは、「男性同性愛者(ゲイ・ホモセクシャル)」というマイノリティー性の「隠喩」であり、その「世間に広く受け入れられたい=日陰者ではなくなりたい」という「切実な願い」の込められたものだったからだ、と考える。
つまり、ジャック・ショルダー監督は、カミングアウトしてはいなかっただろうが、ゲイなのだと私は推測したのだ。

だから、彼は、ギャラガー役のカイル・マクラクランの「美しさ」にうっとりしたのは当然として、ベック刑事役のマイケル・ヌーイーの「野性味のある、たくましく男っぽさ」に惹かれたのであろうことも、まず疑いない。

つまり、ショルダー監督は、自身を「美しい」ギャラガーに投影し、たくましいベックとの友情(に擬した愛情)を育てていく物語に心底いれ込んで、そこに持てる力のすべてを注ぎ込んだのであろう。
そのため、この作品には、ショルダー監督の「現実では満たされない夢」が描かれており、だから、どこか「非現実的な(夢見るような)美しさ」をたたえることになったのではないだろうか。

 ○ ○ ○

そして、この「読み」の傍証として紹介したいのが、ショルダー監督の2年前の前作『エルム街の悪夢2』だ。

「Wikipedia」によると、ジャック・ショルダー監督は、

『大学卒業後、編集者になる為にニューヨーク市に引っ越した際に、ニュー・ライン・シネマのロバート・シェイと知り合い、定期的に予告編やタイトルバックを編集した。1980年、『13日の金曜日』がヒットした頃、ニュー・ライン・シネマは独自のホラー映画を作ろうとしていた。 ショルダーは"精神分裂患者と、それと戦う精神科医"という異色の題材によるバイオレンス・ホラー『ジャンク・イン・ザ・ダーク』を企画した。 ショルダーは2020年のインタビューで、「ボブ(シェイ)は私が編集者としての腕前が十分であり、彼は私が全ての作品を上手く仕上げてくれる事を知っていたので、この企画を信頼してくれた。」と語っている。
『ジャンク・イン・ザ・ダーク』のヒットにより、ショルダーは『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』の監督を務め、こちらも見事大ヒットさせた。この2本の成功により、ショルダーの元には大量のホラー映画の仕事が舞い込むようになった。しかし、彼はそこまで興味を示さなかったので、代わりにニュー・ライン・シネマは"寄生体を転々と変えつつ殺戮を繰り返すエイリアンを追うFBIとロサンゼルス市警察の刑事"の活躍を描いたSFアクション映画『ヒドゥン』の企画を提供。こちらは大ヒットまではいかなかったものの、1987年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭にて『ロボコップ』を抑え見事グランプリを獲得。ショルダーがアクションの演出にも長けている事を証明した作品となった。』

という経歴の持ち主である。

私が最初に、この『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』を観たのは、オリジナル作品である、原作者のウェス・クレイヴン監督の作品『エルム街の悪夢』のファンとしてである。
私は、この「エルム街の悪夢」シリーズ全9作を観ているが、この『2』に関していえば、むしろ評価は低かった。だから、あとで、この『2』が、『ヒドゥン』と同じ監督だと知って、「どうしてここまで落差があるのか?」と、訝しんだ記憶がある。

そこで、ひさしぶりに『ヒドゥン』を再鑑賞した今回、あれこれ考えた結果、『ヒドゥン』の場合は「ゲイ的な夢想」を「美しく」描いていたけれど、『エルム街の悪夢2』の方は、「ゲイ的な夢想」が「生臭く」描かれてしまっていたからではないか、という考えに至った。

つまり、『ヒドゥン』の方は、主演にカイル・マクラクランという「犯しがたい美貌」を備えた美青年を迎えた「刑事(バディ)もの」だったから(「悪徳」と距離がおくことができ)、ショルダー監督の「ゲイ的な夢想」は「抽象的な愛としての友情」というかたちに「昇華」されたのだけれど、『エルム街の悪夢2』の方は、もともと「青少年の夢の中に侵入してくる、殺人鬼のバケモノ(フレディ・クルーガー)」のお話なので、どうしたって「きれいな」お話にはならず、逆に「被虐的」なお話とならざるを得なかったのではないか。
その結果、『ヒドゥン』とは真逆に、生々しくも「エロティックな被虐願望」が、作品に投影されることになったのではないだろうかと、そのように推理したのである。

私が、悪印象を持って記憶しているのは、囚われた男性(たぶん、主人公の通う学校の、クラブ活動のコーチ)が、素っ裸で、立ったままの大の字で鎖に繋がれ、その背中を鞭打たれるというシーンだった。一一ハッキリ言って「男の裸なんか見たくないよ。まして鞭打ちシーンなんて」という感じだったのだが、このシーンも、監督の、一種の「被虐願望」の反映だったのではないだろうか。

(フレディの指が注射器に変貌)

つまり、人はその恋愛感情において「優しく抱きしめられたい」と望む反面、時には「冷たく拒まれたい」とか「意地悪をされたい」と望むような「倒錯性」を持っている。両者は決して矛盾するものではなく、一人の人間の中に両立しうるものなのだ。たとえ、多くの人は、そうと公言はしないにしろだ。

『エルム街の悪夢2』については、次のような、異色性の指摘や否定的評価もある。

『シリーズ通して人間の主役は女性であったが、この作品のみヒロインはあくまでサポートの立場になり、男性が主役となっている。空き家になっていたナンシーの家にウォルシュ一家が引っ越してきたため、再び物語の惨劇の舞台となった。』

『ある日、ジェシー(※ 主人公の青年)は押し入れからその家の前の住人であるナンシーが書いた日記を発見し、彼女もまた自分と同じように、フレディという怪人に襲われる悪夢に悩まされ、そして戦ったことを知る。フレディは、ジェシーの体を乗っ取ろうと襲ってくる。』

『映画は614館の劇場で公開され、初週末に330万ドルを稼いだ。 製作費300万ドルに対して興行収入は約3000万ドルと成功し、第一作目『エルム街の悪夢』を上回った。
一方で、原作者のウェス・クレイヴンは「主人公がフレディに乗っ取られるストーリーは、主人公と視聴者の一体感を阻害している」「フレディを現実世界に寄こし過ぎたせいで、彼の威厳が失われる状況へと追い込んだ」「若者たちに囲まれプールサイドを走り回るフレディの姿はバカバカしい」と否定的なコメントを寄せており、続編ではシリーズに終止符を打つつもりで脚本として参加している。』

ヒット作の2作目続編だから大ヒットしたのだとも言えようし、それに第1作の監督であるウェス・クレイヴンが嫉妬して、否定的に評価したのだとも言えようが、注目すべきは、

『フレディは、ジェシーの体を乗っ取ろうと襲ってくる。』
『主人公がフレディに乗っ取られるストーリー』

という部分だ。

つまり、シリーズの主人公とも言うべき殺人鬼フレディ・クルーガーの基本的な性格は、オリジナルの第1作では、若い女性たちの夢に現れて、さんざ怖がらせたあげく殺す、というものであった。
怖がらせるのなら女性であり、女性の悲鳴の方が「絵(映画)になる」と、クレイブン監督は考えていたのではないだろうか。

ところが本作では、フレディは、なぜか「青年(男性)」の体を奪うことで「現実」の方へ出てこようとする。そのために、クレイブンから『フレディを現実世界に寄こし過ぎたせいで、(※ 悪夢世界の魔王である)彼の威厳が失われる状況へと追い込んだ』と批判されたのだ。

私も、このシリーズのファンとして、クレイブンの批判は、完全に正しいと思う。
つまり、「エルム街の悪夢」シリーズの魅力というのは、「悪夢が現実を侵食しはじめ、その境界がわからなくなる恐怖」を描くにあるのだから、「悪夢」を体現するフレディが、「現実の肉体」を得て、「現実」世界に出てきてしまっては、「ただの殺人鬼」でしかなくなってしまい、シリーズ本来の魅力を欠くことになる、ということだ。

では、どうして『エルム街の悪夢2』のショルダー監督は、こんな「倒錯した設定」にしてしまったのだろうか?

それはたぶん、このシリーズが、否応なく(「美しい夢」ではなく)「悪夢」を描かねばならない以上、描かれる「悪夢」は「倒錯した願望」を反映したものにしないではいられなかった、ということなのではないか。
つまり「主人公の美少年(である私)が、醜い男に、乱暴に体を奪われる悪夢」である。これが一一「被虐的な強姦夢想」であるというのは、それほど無理のある推理ではないと思う。

だからこそ、『エルム街の悪夢2』は、「ドロドロと生臭く汚らしい」印象を、私に与えた。
それはちょうど、『ヒドゥン』が私に与えた「美しいリリシズム」とは真逆の印象であり、畢竟『エルム街の悪夢2』とは、非現実的なまでの「美しい友情(愛)」を描いた『ヒドゥン』の、「陰画」だったのであろう。

ちなみに、そうした観点から見ると、日本未公開の、ショルダー監督の第1作『ジャンク・イン・ザ・ダーク』が『"精神分裂患者と、それと戦う精神科医"という異色の題材によるバイオレンス・ホラー』であったというのも、理解しやすいのではないだろうか。

つまり、当時はまだ、「同性愛」というのは「性倒錯」であり、治療されるべき「心の病」の一種だと考えられていたから、ショルダー監督は、自身の「同性愛」にやましさを感じ、自身の中に「自己肯定と自己否定の分裂・葛藤」を抱えていたため、「できれば癒されて普通になり、楽になりたい」という「痛ましい願望」を持っていたのではなかっただろうか。

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このようなわけで、私にとって『ヒドゥン』は偏愛の一作だけれども、同じショルダー監督の『エルム街の悪夢2』は、好きな「エルム街の悪夢」シリーズの中でも、最も「嫌い」な部類に入る作品となってしまった。その理由は、すでに書いたとおりだ。

また、こうした観点から『ヒドゥン』を振り返ってみると、主役のギャラガー役であるカイル・マクラクランが「性を超越したような(天使的)存在」であるのに対し、悪玉の異星生物に乗り移られる被害者の中で、唯一の「女性」がストリッパーであり、過剰なまでに「セクシー(性的)」だったのは、ギャラガーから抜き去られた「性欲」の転移先が、ショルダー監督自身にとっては性欲の対象ではなかった「女性」だった(映画に邪魔な「性欲」の捨て場所が、「女性」だった)、ということなのではないだろうか。

(『ヒドゥン』より)

また逆に、「性的なもの」が、そのまま主人公に向け得た『エルム街の悪夢2』では、「女性」の居場所が無くなってしまった、ということなのではなかっただろうか。

(『エルム街の悪夢2』より)

ともあれ、この2作のギャップには、ほぼ間違いなく、ゲイであったジャック・ショルダー監督の「生身の人間としての哀しみ」が、期せずして現れていたのではないかと思う。

人間には誰しも「美しい部分と醜い部分」「高潔な部分と生臭い部分」の両面があるのだが、それが一般的な「異性愛者」の場合であれば「人間、そんなものだよ」と、世間にも認めてもらえるが、それが少数者である「同性愛者」の場合は、抽象化された愛の「美しさ」の部分なら広く認められようとも、生臭い「性」の部分では、世間の理解を容易には得られず、むしろ「ホモセックスなんて気持ち悪い」と嫌悪されてしまう。

そうした「一般的な異性愛者的感性」にも、止むを得ない部分(としての本能的好悪感覚)があるとはいえ、それが多数派の「常識」であり「当たり前」であるとされているがゆえに、少数者は、その「本当の姿」を隠さなければならなかった。
世間からは「醜い怪物」のように見られてしまう自分の「本性」を隠し、それを、殊更に「美しいもの」であるかのように美化して糊塗しないかぎり、彼らは一般社会からは受け入れられなかった。その「ありのままの自分」を表現するのを許されなかったのである。

『ヒドゥン』という「美しき傑作」と『エルム街の悪夢2』という「異形の失敗作」という2作は、そんなジャック・ショルダー監督の「引き裂かれた素顔の両面」とでも呼ぶものなのではないか。

そう考えれば、『ヒドゥン』の方が、興行的にはイマイチだったものの、映画賞も受賞した世評の高い傑作だとされるのに対し、『エルム街の悪夢2』の方は、興行的には成功したものの、作品としての評価が低くなってしまったという「対称性」は、なんとも皮肉なものである。

なぜなら、それが意味するのは「君たちは、私たちノーマルでも理解できる美しい作品を作るのであれば、喜んで評価しよう。しかし、君らの生臭い欲望なんて、気持ちい悪いだけだから、絶対に人前に出すんじゃないぞ」と、そう言っているも同然の評価だったと考えられるからである。
たとえ、私と同様に、それが「悪意のない客観的な評価」であったとしてもである。

(2022年11月13日)

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