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赤江瀑 『オイディプスの刃』 : 陶酔的な情念の〈呪い〉

書評:赤江瀑『オイディプスの刃』(河出文庫)

赤江瀑は、呪う作家である。
その阿片にも似た濃厚な情念にとらわれた者は、赤江瀑を追いかけないでいられないであろう。その意味で、赤江瀑の呪いを知らない人は不幸であるし、幸福でもあろう。何も知らずに、明るく平凡な生活の中で、消費的な娯楽とその快楽に生きるというのも、それはそれで無難な幸福には違いないからだ。

赤江瀑を語る上で、「ホモセクシャル」というその属性を、語り落とすことは出来ない。
著者生前には、公然と語りづらい部分ではあったものの、デビュー短編集の『獣林寺妖変』初版単行本の帯には「妖艶! ホモセクシャルの世界!!」という惹句が踊っていたのだから、読む人が読めば、それは否定のしようもないことだったのである。

「ホモセクシャル」作家の系譜と言えば、だれでもまずは『仮面の告白』の三島由紀夫を思い出さずにはいられないだろう。そして、その盟友であった中井英夫が書いた、幻想ミステリの巨峰『虚無への供物』では、赤江瀑がモデルとして登場しているというのは有名な話である。その名も「氷沼紅司」。

また、赤江瀑周辺の「ホモセクシャル」作家と言えば、それはなにも小説家にとどまるものではない。赤江瀑の著作の装幀を担当した、人形作家の辻村ジュサブロー(講談社文庫版『獣林寺妖変』『罪喰い』等)、装幀画家の村上芳正(角川文庫版『海峡』『美神たちの黄泉』等)もまた、忘れがたい「魔の美神」的な存在だ。

彼らに共通するのは、その「耽美」性と、ホモセクシャルゆえの「疎外感と渇愛」であろう。
今のように、若い女性の間でBL(ボーイズ・ラブ)小説が当たり前に消費されても、あるいは社会的に性的少数者(LGBT=lesbian, gay, bisexual, and transgender)の権利が広く叫ばれるようになっても、まだまだ世間の「生理的偏見」までが薄れたわけではないのだから、まして赤江瀑世代の「疎外感」は、けっして尋常一様ものではなかったし、だからこそ逆に、それは消費社会における「微温的な作品」には見られない、「赤黒い情念」の渦巻く、非凡な作品へと結晶し得たのである。

本書『オイディプスの刃』は、赤江瀑の長編代表作である。
赤江瀑は、基本的には短編型の作家で、長編は必ずしも得意ではない。というのも、情念をこめた緋文字で物語を綴るタイプの作家には、プロットの構築性が求められる長編は、不向きだったからであろう。
しかしまた、『オイディプスの刃』の場合は、赤江瀑がその個性を矯めることなく、むしろそれを過剰なまでに投入することで、「赤江瀑の長編」として成功した、例外的作品でもある。
本作は「宿命の兄弟」の物語として語られるが、それは「ホモセクシャル的な関係性」を「兄弟」いう形式にズラして描いた作品と考えても、間違いではないはずだ。だからこそ、この物語は「過剰に濃厚」なのである。

ちなみに、本作では「刀剣と香水」がテーマ的に扱われているが、これは容易に「男根と精液(とその匂い)」のメタファーであることが理解できよう。
また、こうした小道具の扱い方は、中井英夫の『虚無への供物』が「植物と色彩」をテーマにしたことと関係があるのかも知れない。中井が、構想して果たし得なかった三部作の残り2作は「鉱物と音」「動物と臭い」をテーマにしたものであった(『ケンタウロスの嘆き』所収「黒い水脈」)。

ともあれ、赤江瀑の作品は、残念ながら「読者を選ぶ」。
平凡で起伏のない日常を、パステル色の幸福を生きている人には、とうてい理解できない世界を、赤江瀑は描いているからだ。いや、描かざるを得ない生を歩んだ、「宿命」の作家だったからだ。

赤江瀑が読者へと突き出す、目に見えない妖刀。
その切っ先が、あっさりと空を切るかのように通り抜けてしまう、生きる世界を異にする人たちが多い中で、稀に、その刃が胸肉に立って、赤黒い血を噴き出させる読者がいる。
赤江瀑は、そんな読者のために、何度でも甦るだろう。
赤江瀑は、決して「代わり」の生まれて来ない、最初で最後の「宿命の小説家」なのである。

初出:2019年9月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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