折口信夫 (東雅夫編) 『文豪怪談傑作選 折口信夫集 神の嫁』 : 〈情〉の人・ 折口信夫
書評:折口信夫(東雅夫編)『文豪怪談傑作選 折口信夫集 神の嫁』(ちくま文庫)
日本の民俗学を確立した三巨人、柳田國男、南方熊楠、折口信夫。一一その中で、折口信夫にだけは長年、手を付けかねていた。
私は熊楠ファンだし、妖怪はもとより民俗学そのものにも興味があるから(宮田登や小松和彦も読んでおり)、当然、柳田國男もいくらかは読んでいる。読まないわけにはいくまい。
また、そこまで来れば、折口信夫も何冊かは読んで、あたりくらいは付けておきたいと思っていたのだが、いつからだか折口には、「癇症で気難しい人」「書くものも難解」というイメージが出来上がっており、さらに、「熊楠の粘菌」や「柳田の妖怪」とは違い、「神道」という取っつきにくいイメージも強くあったので、どうにも気後れして手を付けかねていたのである。
そんな私が今回、折口の「怪談」集らしき本書を手に取ったのは、有名な『死者の書』などとはちがって、きっと「怪談」なら読みやすいだろうと考えたからに他ならない。
しかしまた、今回折口に挑もうと考えたのは、折口を「民俗学」者や「怪談」作家ではなく、「神道」を論じ「天皇」を論じた人として、いよいよ無視できないと考えたからだ。つまり、「趣味」的な部分でのアプローチではなく、「天皇制」と「宗教」という、今もなおアクチュアルな問題に向き合う一端として、その理論家の一人である、折口信夫を読もうと思ったのである。
それでも、いきなり「神道」だ「天皇霊」だ「大嘗祭」だといったところからでは、いかにもしんどそうなので、まずは「怪談」で「折口の空気に馴れてから」と考えたのだった。
しかし本書は、「怪談傑作選」とは題しても、「小説」や「戯曲」だけを収録したものではなかった。
『四谷怪談』など江戸の「怪談・奇譚」文学ついての論考やエッセイ、あるいは「怪異・妖異」に関する民俗学的論考を収め、さらには、太宰治や平田篤胤に関する文章なども収められていて、結果としては、折口信夫を瞥見するのに最適の一冊だったのである。
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本書を通読して、まず思ったのは「それほど構える必要もなかった」ということである。
折口信夫は、思っていたほど、ピリピリした神がかりの人ではなく、ごく当たり前に熱心な「研究者」であったし、人間的にも「弱者」に対する思いやりのある、優しい人だとわかった。
それは何より、太宰治の人柄についてのフォローであったり、平田篤胤についての偏ったイメージを修正しようとする文章に、とてもよく表れていた。「彼らは決して、そんな偏った人ではなかったのだ。もっと人間的な奥行きや幅があったのだ」と、世間のイメージ的な決めつけを、なんとか修正しようとする優しさが、そこには滲んでいた。
しかしまた、彼は決して単なる「優しい人」ではなかったのであろう。
私が折口に「癇症で気難しい人」というようなイメージを持ったのは、たぶん、ずいぶん昔にこのエピソードをどこかで耳にしていたからだろうと、この「解説」文を読んで思い至った。折口のこの「過剰さ」、愛するものへの純粋すぎる「妄執」が、恐ろしく感じられたのだと思う。その印象だけが、私にとり憑いていたのだ。
だが、今となっては、これをそれほど恐ろしいとは思わない。宗教テロリストがそうであるように、純粋な情熱というものは、たいがいはこのような「逸脱的過剰さ」として表れるものだからで、ましてやそれが「恋愛」感情であってみれば、尚更だからだ。
しかし、このことと、太宰や篤胤への思いやりと優しさに満ちた感情とは、「マイノリティ」であること、ある種の「異形性」において、連絡しているはずだ、と気付いた。
太宰や篤胤もまた、ある意味では「純粋な情熱の過剰性」を持っていたからこそ、その全貌を見られぬ、見ようとしない世間からの「一面的な評価」に晒され、一種の「異形=偏頗な人」と誤解されてしまったのだと、折口は彼らを自身に引き付けて「同情」していたのではなかったろうか。
今後、私が折口信夫を読む場合に注目するのは、こうした「誤解されたもの、排除されたものへの同情」という視点からになるだろう。
彼が「神道」や「天皇」を論じるに当たっても、太宰や篤胤や、妖怪や幽霊と同様に、昼間の世界から「排除されたもの」への感情が働いていたのではないかと、そう思うのである。
無論、今はまだ、その見方が当たっているかどうかはわからないのだが、私個人の足掛かりは、たしかに得られたようだ。
初出:2021年3月11日「Amazonレビュー」
(同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月18日「アレクセイの花園」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
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