見出し画像

島田裕巳『神社崩壊』 : 「八百万の神々」VS「稲作神官の家系的神話」

書評:島田裕巳『神社崩壊』(新潮新書)

これまで私にとって、もっとも縁遠い日本の宗教が「神道」だった。

両親は仏教系の宗教に帰依していたので、その雰囲気は子供の頃から何となく身近に感じてきたが、その分、どこか面白みのない「慣習」のようにも感じられた。
結局、私はそうしたものの「理論的無根拠性」に失望して無神論者になるものの、各種「宗教」を鵜呑みにして信じられる人たちの存在を不思議に思い、そうした人間の非理性性の研究材料をキリスト教に求めた。キリスト教は、理知的な研究の歴史と量において最先端をいく宗教だし、仏教的な「比喩」ではなく、神を「実在する」ものとして信じるスタンスにおいて、もっとも「メジャーかつ典型的な宗教」だと判断したからだ。

そんなわけで、私の場合、神道は「つかみどころのない宗教」として長らく脇に追いやられていたのだが、近年の日本政治問題のエポックである「安倍晋三政権」「日本会議」「神社本庁」との関わりにおいて、いちおうの知識は持っておかなければならないものとして注目するに到った。
この問題については、すでに藤生明『徹底検証 神社本庁』(ちくま新書)を読んで一定の理解を得たが、それを非政治的な宗教学の立場から補完する入門書として本書を読み、本書で、神道の基本的なところを「客観的に教えられ」て、裨益されるところ多大であった。

さて「神道は宗教なのか?」という基本的な問題については、「定義による」としか言いようがないようだ。
ただ、神社本庁も言うとおり、神道には尊崇の対象である「教祖」がおらず、おのずと「本来」は「教義がない」。
しかし「教義がない」はずなのに「伊勢神宮(を本宗とする)神道」「敬神尊皇の教学」という「限定的教義」を、かってに立てた段階で、著者・島田裕巳の言うとおり、「神社本庁の神宮神道」は「新興宗教(新興神道)」、新たに成立した「宗旨」として理解した方が、非政治的評価であり、客観的であろう。

そもそも、神道というものは、民衆の「一木一草に魂が宿る」というアニミズムに発するもので、その意味では、全世界に存在する素朴な(擬人化による)自然理解の一形態だと言えるだろう。つまり、西欧でも「森の精霊」や「妖精」といったものが信じられたように、日本でも、山川草木や動植物それぞれの中に「神」を見、それらとの適切な関係を結ぶための儀式として、わが神道は「形式的」に形成されていったのである。
だから、そこには「唯一神」も無ければ「教祖」も「教義」も無かった。そして、その意味では、神道は「宗教ではなかった」と言って良かったと思うし、今もそんな神道は生きている。

しかし、そんな民衆の素朴な感情が、政治利用され「国家神道」となった時に、神道は決定的に歪められてしまった。いや、歪められた神道こそが、神道(の王道)だとされてしまったのだ。

もちろん、その際に用いられたのが「天皇の政治的権威」である。
「天孫降臨の神」の末裔とされる天皇は、同時に「稲作を司る神官」の末裔だともされているが、事実関係としては「稲作を司る神官」家系の根拠・権威付けとして「天孫降臨の神の末裔というフィクション(神話)」が捏造されたと見るのが自然だろう。

言い変えれば、実際問題としては、膨大に存在する神々の中から「稲」の神様が「最も偉い」としてしまったのが「国家神道の教義」だと言い換えてもいい。もちろん、その「選択」は、極めて経済的・政治的なものであり、その意味でハッキリと「人間の都合」によるものであって、神の位格に基づくものではない。人間の都合で、人間の捏造した「神話」によって、かってに「稲作の神官(神話の神の末裔としての人間)」を「すべての神々(自然神)」の上に据えてしまったのである。

したがって「国家神道」は「政治的下克上の神道内派閥」とでも呼ぶべきものであり、そんな「栄光よ、もう一度」と画策する「神社本庁の伊勢神宮神道」は、おのずと政治的なものにならざるを得ない。そして、神道内部においても、政治的軋轢を生まないではいないのである。

しかし、神道の感情とは、本来はそういうものではなかったはずである。
神道は、自然と人間の関係を調停する、素朴な感情的システムであったのに、そこに「政治権力闘争」という「人間らしい嫌らしい欲望(穢れ)」を持ち込んだものが「国家神道」であり「神社本庁の伊勢神宮神道」なのではないか。だからこそそこには、人間を浄化する「自然の神」が存在しない。

私は「宗教」に対しては、極めて厳しい立場に立つ者だが、もしも神道が「自然と人間の関係を調停する、素朴な感情的システム」であり続けるのならば、これをあえて「宗教」と呼ぶ必要はないと思うし、その素朴な感情をむしろ歓迎したいとも思う。
だが、政治政策としてのかつての国家神道に倣って「神道は宗教ではない」と主張する神社本庁の「宗教でなければ、政治的制約を受けない(特権が得られる)」などという「卑しい人間的魂胆」など、とうてい是認できるものではないのである。

人間的な欲望としての「権勢欲」にまみれた「人間至上主義的神道」が、郷土を汚す「原発政策」等と結びつくのも、また理の当然なのだろう。「人間の欲望を体現した宗教」は「自然(の神)」とは敵対しがちなのだ。

そうした意味では、キリスト教と同様「政治と宗教」は無縁ではあり得ない。
だが、人間の都合だけで立てられた神道は、もはや「神の道」でも何でもなく、純粋な「政治的フィクション」に過ぎないのである。

初出:2018年11月20日「Amazonレビュー」

 ○ ○ ○





















この記事が参加している募集

読書感想文