劉邦の父・劉太公──幸福な庶民、不幸な太上皇帝
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劉邦の父・劉太公──幸福な庶民、不幸な太上皇帝

 歴史雑記086 (本記事は月額500円の定期購読マガジンに含まれています) はじめに 庶民から天下を取ったのは、中国史長きといえども漢の高祖・劉邦と、明の太祖・朱元璋のふたりだけであると言われる。  明代は専門ではないので、今回扱うのはもちろん劉邦のほうである。  といっても、劉邦その人でなく、彼の父「劉太公」とその家族について考えてみたいと思う。  『史記』だけでなく、近年の出土史料研究の成果も活かしつつ、劉太公が戸主であった頃の劉家について、どれだけのことがわかるのか

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浦島太郎の「大亀」って何さ?
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浦島太郎の「大亀」って何さ?

一旦、エンタメ的な話として、浦島太郎を考えてみたいと思います。 例えば、江戸時代にいた権兵衛さんが、何かの拍子に現代にタイムスリップして、電車に乗ってしまったとします。電車にだけ乗って、また江戸時代に戻ってきた権兵衛さんは、その体験をどのように語るでしょうか。 権兵衛:おいら、すっげぇ乗り物に乗ったんだよ? 弥助:うん?なんだ?どういう乗り物だい? 権兵衛:それがな、目が光ってて、蛇よりもずっとでっかくて、長くて、それこそ龍みてぇに胴体のなっげぇー乗り物よ。 弥助:

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幕末の小倉を知る~育徳館の歴史から~
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幕末の小倉を知る~育徳館の歴史から~

先日、福岡県みやこ町にある「育徳館中学・高校」PVの製作に関わりました。その際、生徒さんたちに話を伺ったのですが、皆さん地域に対する誇りを明確に持っていまして、ちょっと感激しました。改めて身が引き締まる思いでした。 これが歴史ある街の素晴らしさですよね。 幕末から明治初頭、小倉は戦争に負けた地だったPV制作にあたって育徳館の歴史を学んだのですが、これが本当に幕末から明治にかけての小倉と関係が深いのです。 小倉藩の藩校であった思永館は小倉城自焼とともに焼失。小倉藩は香春へ

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ペリクレスの葬礼演説を古典ギリシア語で読んでみた【第10回】

ペリクレスの葬礼演説を古典ギリシア語で読んでみた【第10回】

記念すべき第10回目です!ここまで2か月ほど掛かりましたが、まだまだ先は長い…。挫折しないようにσιγά σιγά(ゆっくり)続けて行きたいと思います。笑 ペリクレス葬礼演説解説の第1回目はこちら ペリクレス葬礼演説解説の第9回目はこちら 原文(Thuc. 2.36)と翻訳:10文目 τὰ δὲ πλείω αὐτῆς αὐτοὶ ἡμεῖς οἵδε οἱ νῦν ἔτι ὄντες μάλιστα ἐν τῇ καθεστηκυίᾳ ἡλικίᾳ ἐπηυξήσαμε

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【つの版】ウマと人類史:中世編05・唐天可汗
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【つの版】ウマと人類史:中世編05・唐天可汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  628年、東ローマは西突厥と手を組んでペルシアを屈服させましたが、同年には西突厥の統葉護可汗が殺されています。東西の突厥は唐の策略で分断され、従属部族の鉄勒が台頭するなど受難の時代となりました。 ◆唐◆ ◆唐◆ 鉄勒諸部 鉄勒とはやはりテュルクの音写ですが、阿史那氏の可汗を頂く部族連合としての「突厥」とは異なるテュルク系の諸部族を指します。唐代に編纂された史書『隋書』『北史』などによると「匈奴の苗裔」とされますから、要は勅勒

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【THE古墳】「最も掘りたい古墳」卑弥呼の箸墓に迫った2メートル

【THE古墳】「最も掘りたい古墳」卑弥呼の箸墓に迫った2メートル

「考古学者が一番掘りたい古墳」ともいわれるのが、奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、墳丘長約280メートル)。日本で最初に造られた巨大前方後円墳で、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説が戦前から唱えられているからだ。卑弥呼が中国から贈られた「金印」が見つかれば、邪馬台国畿内説を決定づけるとの期待は大きい。しかし、宮内庁が第7代・孝霊天皇の娘の墓として立ち入りを禁じ、発掘もできない。この謎のベールに包まれた古墳に、果敢に挑んだ発掘調査があった。

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【つの版】ウマと人類史:中世編04・拓跋天子
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【つの版】ウマと人類史:中世編04・拓跋天子

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦589年、隋の文帝楊堅は陳朝を滅ぼし、永嘉の乱以来270数年ぶりにチャイナの天下を再統一しました。突厥は建国から40年近くを経て東西に分裂しており、隋はその隙を突いて国力を高め、突厥を分断していきます。 ◆United We Stand◆ ◆Divided We Fall◆  ルビ機能が無料で使えるようになったそうですので、試してみましょう。 啓民可汗 陳が滅んだ後、楊堅は陳の宮中にあった屏風を突厥の大義公主に贈りまし

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【つの版】ウマと人類史:中世編03・東西突厥

【つの版】ウマと人類史:中世編03・東西突厥

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  突厥は柔然とエフタルを滅ぼし、ユーラシアの東西を統合する大帝国となりました。彼らはいわゆる「テュルク」ですが、支配下の住民が全てテュルク「民族」に変わったわけでも、顔立ちや血筋や言語が入れ替わったわけでもありません。騎馬遊牧民の人口は定住民より常に少なく、上がすげかわり共通語が増えただけで、下々はそのまま暮らしています。 ◆トゥルトゥル◆ ◆ダダダ◆ 被髪左衽 ひとまず、周書に書かれた突厥の習俗を読んでいきましょう。原文を引

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日本の神様辞典 No.8

日本の神様辞典 No.8

No.8 国狭槌尊読み:くに・さ・つち・のみこと 神祇:天津神(あまつかみ) 称号:神世七代(かみのよななよ) 別名:国狭立尊、国之狭土神? 神階:なし 神格:神稲を植える土 親:なし 子:なし 神社:熊野速玉大社 次代:豊雲野神、豊斟渟尊(とよくもののかみ、とよくむぬのみこと) 「記紀」の記述『日本書紀(にほんしょき)』の天地開闢の段に登場する神で、別名は国狭立尊(くにのさたちのみこと)。 『書記』においては、神代七代の二代目にあたる。 『古事記(こ

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【つの版】ウマと人類史:中世編02・突厥帝国
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【つの版】ウマと人類史:中世編02・突厥帝国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦552年、アルタイと天山の付近に突厥可汗国が独立し、西魏やエフタルと手を結んで柔然を攻撃しました。柔然の可汗は自決に追い込まれ、モンゴル高原は急速に突厥の手に落ちていきます。 ◆両面◆ ◆宿儺◆ 木汗可汗 突厥の初代可汗の土門(伊利可汗)は552年に逝去し、子の科羅が立って乙息記可汗と号しました(隋書では伊利可汗の弟で逸可汗)。彼も柔然と戦い、西魏に馬5万匹を献上しましたが、553年に逝去します。子の摂図はまだ幼かったた