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鞠智城~1300年前の古代山城

「城」といえば、戦国時代や江戸時代に築かれたイメージを持つ人が多いでしょう。

 しかし、日本にはそれよりも古い時代に築かれた城(軍事拠点)もあります。


古代山城とは?

 飛鳥時代の663年、日本(倭国)の軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れました。大陸からの侵攻を警戒した朝廷は、九州を中心に城を築き、防備を固めました。こうした城を古代山城といいます。

 熊本県山鹿市と菊池市にまたがる鞠智城(きくちじょう)もその一つです。知名度は近世の城に及びませんが、続日本100名城にも選ばれており、魅力的な史跡となっています。

 鞠智城を歩く前に、資料館である「温故創生館」に立ち寄って予習していきましょう。

鞠智城を象徴する建物

 歴史公園に足を踏み入れると、ひときわ目立つ建物が目に入ります。

 この八角形の建物は「鼓楼(ころう)」といいます。発掘された建物跡から復元されました。発掘調査によって72棟もの建物跡が検出されており、鼓楼の他に兵舎や米倉が再建されました。

米倉
兵舎

 鞠智城の山頂部は広大な平坦地で、軍事施設だけでなく行政機構もあったと考えられています。かつては種々の建物が立ち並んでいたのでしょう。

 山頂部だけで満足してしまいそうですが、鞠智城は55ヘクタール(東京ドーム12個分)もの広さを備えています。散策すると2~3時間はかかります。

 南の方に下ってみると、起伏の多い地形が実感できます。

城門のようすを伝える巨石

 かつての城門のひとつ、堀切門跡。門を支えた礎石が展示されています。

 礎石には門柱をはめ込む穴が二つあり、門の幅がわかります。このような遺物がある古代山城は鞠智城だけだそうです。

 堀切門に続く道は、敵兵の動きを制約するため、大きく曲がっています。これは後世の城にも見られる工夫です。

 鞠智城には、他に深迫門・池ノ尾門という城門がありましたが、「片割れ」の礎石しか見つかっていません。

長者山・灰塚・貯水池跡

 西の方に歩いていくと、長者山・灰塚とよばれる二つの小高い山が見えます。

左に登ると灰塚、右に登ると長者山

 とりわけ、灰塚からの眺めは格別です。かつては見張り台が置かれていたのでしょう。

 貯水池跡からは、百済産の仏像が発見されており、大陸との交流がしのばれます。

 大陸からの侵攻に備えた城として築かれた鞠智城は、奈良時代ごろには政庁、その後は食料備蓄場と性質を変え、10世紀後半には歴史書から姿を消します。しかし、鞠智城の壮大さは現在城跡を歩くだけで実感することができます。

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