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#日本史がすき

日本史がすきだと感じたエピソード、学習の記録、勉強法など、日本史にまつわる投稿を募集します!

急上昇の記事一覧

【連載】かくれ念仏/No.19~大口の一向一揆~

●大口の一向一揆 九州は全国平均に比較して、一揆のような農民の騒擾は少ないという。 鹿児島純心女子短期大学教授で尚古集成館館長、鹿児島県立図書館館長などを勤めた芳即正先生の研究によると、〝薩藩における抵抗運動〟は「愁訴嘆願、不確かなものまで含めて19件、薩摩国5件、大隅国11件 (ほとんど奄美諸島)、日向国3件」でいずれも江戸期のものだという。しかし、この数は、最低これだけは確証があるというだけで、歴史の波間に消えてしまった一揆がまだあるだろうことは容易に考えられる。 か

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五百羅漢像

 遠野市綾織町新里に残る五百羅漢像は、大慈寺19世義山和尚が、遠野地方の度重なる凶作で餓死した人達を供養するため、18世紀末の天明年間(1781年~89年)に、読経しながら大小500の花崗岩の自然石に羅漢像を刻んだものと伝えられています。 ✿南部領と飢饉の歴史 江戸時代の遠野の郷は、盛岡南部氏の所領の一部でした。盛岡南部氏の所領のことは盛岡藩とよんだりします。  そして、当時の遠野の郷は、盛岡藩の支藩として、盛岡藩家老首座の地位にあった遠野南部氏が統治していました。  なお

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【日本史8】平安史備忘録2(平城京から長岡京)

平安時代の学習を深めていきます。 本日の学習は、 ①奈良時代の日本は先進的な中国王朝の唐から政治制度や文化を取り入れていた。都の平城京(奈良県大和郡山市)は唐の都である長安(陝西省西安市)をモデルに建造されている。 ②781年(天応元年)に光仁天皇(49代目)が譲位して即位したのが桓武天皇(50代目)である。桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から山背国の乙訓郡長岡村の長岡京へ遷都した。 ③平城京は立地問題で水不足であったので水上と陸上の便に優れた長岡の地を選んだ。

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両親とすらまともに喋れないアラサー男が、家系図を辿って家族のルーツを調べてみた

北山:俺の「ファミリーヒストリー入門」の記事に感銘を受けて、ルーツ調査に挑戦する人を紹介するよ。 四ツ谷:どうも。 北山:お前か。家族とか興味ないと思ってたよ。弟とさえ数年口をきいてなかったんでしょ? 四ツ谷:そうなんだよ。うちの家族って、本当に親戚関係に関心がないみたいで。祖父の葬式にも、ぜんぜん親戚が来なかったんだ。問題児だったんじゃないかってくらい。叔父がいたってことも、叔父が死んで初めて知った。本当に謎のベールに包まれている。 北山:なかなかだな。昔は「血縁」

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【私が好きな古代のことば】 ◎かしきや:炊屋 ◎まろうど:客人 ◎いらつめ:郎女 ◎いらつこ:郎子 ◎みこ:王/王子/皇子 ◎ひめみこ:王女/皇女 ◎おおえ(おいね):大兄 ◎おおきみ:王/皇/君/大王/大君 ◎やまと:倭/和/大倭/大和/日本 など。^_^

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未完成の美しさ、未完成の哲学

はじめに | 完璧vs未完成  完璧なものと未完成のものだったら、どちらが良いだろうか?  以前、池辰彦さんの記事を拝読して以来、「未完成の美」「未完成の哲学」というテーマで記事を書いてみたいとずっと考えていた。  だいぶ前ですが(-_-;)。  もう2年以上経ってるし~😅 (;゜0゜) ( ̄▽ ̄;)!!  もちろん、それだけを考えていたわけではないが、頭の片隅に「未完成」という言葉が常にあった。  まだ「未完成の記事」だが、とりあえず、少しまとめて投稿しておこうと

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本能寺の変1582 重要 ◎第47話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第47話 8光秀の苦悩 6守るべき者 1/3 ←はじめに ←目次 ←  →重要 ◎目次 重要 ◎目次小  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →その一因  →見えてきたもの 目次  *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済   47 ◎ 48 ◎ 49 ◎  *以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。  *加筆修正  【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀は、坂本にいた。  天正十年、三月三日。

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30年日本史00840【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 菊池千本槍

 竹ノ下の戦いは新田軍が一時的に優勢に見えましたが、後半になると足利軍が盛り返して来ました。その原因の一つには、佐々木道誉の裏切りがありました。  佐々木道誉は手越河原の戦いに敗北し、新田軍に帰順したはずです。ところが記録によると、竹ノ下の戦いの記録ではなぜか足利軍の方に名前が載っているのです。これは、一旦新田方に寝返った道誉が、今度は足利方に寝返ったということでしょう。  佐々木道誉がどのような思いで二度の裏切りをしたのか分かりませんが、大河ドラマ「太平記」では、陣内孝則演

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第15話 長髄彦の巻

神武東征の旅 第15話 長髄彦の巻  国中(奈良盆地)へ入ろうとする皇軍を待ち構える兄磯城軍。磯城邑にあふれんばかりです。まずは兄磯城に帰順をすすめるために、頭八咫烏、次に(帰順した)弟磯城。そして初登場?兄倉下と弟倉下(誰? 高倉下? 兄弟いたの?)を行かせますが、兄磯城は承伏しません。そこで軍師 椎根津彦は謀をたて、忍阪の道に女軍(陽動作戦で敵を引き付ける部隊)をやって、敵の精兵を深く誘い込みます。その間に炭をおこして道を塞いでいる墨坂の火を宇陀川の水で消して、主力精

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本能寺の変1852 その一因 一、武田効果 第116話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、武田効果 第116話 はじめに ←目次 ←  →重要 ◎目次 重要 ◎目次小  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →その一因  →見えてきたもの 目次  *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 *加筆修正  【シリーズ】信長の甲斐侵攻 その一因 一、武田効果 第116話 【参照】その一因 一、武田効果 【参照】信長の甲斐侵攻 5潮目の変化     ◎第116話 ◎小116   ◎

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【歴史小説】流れぬ彗星(3)「移香斎」

この小説について  この小説は、畠山次郎、という一人の若者の運命を描いています。  彼は時の最高権力者、武家管領の嫡男です。  しかし、目の前でその父親が割腹自殺する、という場面から、この小説は始まっています。  彼はその後、師匠の剣豪や、愛する女性、そして終生の宿敵である怪僧・赤沢宗益と巡り合い、絶望的な戦いを続けてゆきます。  敗れても、何度敗れても立ち上がり続けます。  全ては、野心家の魔人・細川政元により不当に貶められた主君・足利義材を救うため。  そして自分自身

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人生の決め手は言葉遣い次第 悪意のある悪辣な言葉を自分のエネルギーに変える 

幸福な人ほど日々素敵で素晴らしい言葉を使用しています。そして、不幸な人ほど他人だけでなく自分や身内に対して汚い言葉を使用し続けています。 言葉は本来自分や誰かを楽しくしたり喜ばせたり、あるいは幸せにしたりするために使用するものです。それがいつからか誰かを不快にするために使われるようになりました。 今回は、人生はその人が口にする言葉で決まってしまうことについて書きます。いつも通り思いつくがままに書いて行きます。 なお、今日はいつもよりうまくまとまりませんでした(笑)。

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江藤新平と大隈重信         ー大隈重信記念館訪問ー(2024年4月)

先日「没後150年特別展 江藤新平」を観た後ですが、同じく佐賀藩出身で明治新政府で活躍した大隈重信の記念館が佐賀市内にあるので、訪問してみました。 2人は藩校、弘道館で共に学んだ友人で、国学者である枝吉神陽の下「義祭同盟」に名を連ねた同士でもありました。維新後ともに明治新政府に出仕しますが、征韓論では袂を分かち大隈は大久保利通側につきました。 しかしながら、征韓論に敗れた江藤が佐賀の不穏な様子を鎮めるため帰郷するのを危険視し止めようとするも、止めることができず、大隈はそのこと

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【書くことの意味とは】 大河ドラマ 「光る君へ」 第15回

「源氏物語」を着想した(と言われる)石山寺の登場でした。 これまでも何度も登場した「蜻蛉日記」をここで絡め、「書くこと」と「妾」で良いのか問題を浮き彫りにする脚本、すごく無いですか。「命を燃やして人を想うことは素晴らしいけれど、妾は辛い」とまで尊敬する作家に直に言ってもらえたら、数年前の自分の決断は、ほろ苦くても正しかったのだ、と思えるようになるのではないかしら。 小説に救われたことが多々ある身としても、コトバオタクとしても、響くシーンでした。 こう言ってくれる人が1人

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本能寺の変1852 その一因 一、武田効果 第115話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、武田効果 第115話 はじめに ←目次 ←  →重要 ◎目次 重要 ◎目次小  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →その一因  →見えてきたもの 目次  *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 *加筆修正  【シリーズ】信長の甲斐侵攻 その一因 一、武田効果 第115話 【参照】その一因 一、武田効果 【参照】信長の甲斐侵攻 5潮目の変化     ◎第115話 ◎小115   ◎

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30年日本史00839【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義治の豪胆

 足利尊氏・直義兄弟が鎌倉を出陣したのは、建武2(1335)年12月8日のことです。  西から鎌倉へ入る主要な街道が2ヶ所あるため、足利軍は二手に分かれ、兄・尊氏は竹ノ下(静岡県小山町)で、弟・直義は箱根(神奈川県箱根町)で、それぞれ敵を迎え討つことに決めました。  一方、新田軍もまた二手に分かれます。尊良親王と脇屋義助は竹ノ下へ、義貞は箱根へ、それぞれ進軍しました。  12月11日。まず竹ノ下で足利尊氏軍と尊良親王・脇屋義助軍が激突しました。これまでの連戦連勝で、新田軍はす

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「没後150年特別展 江藤新平」を観覧して

明治初期の混乱期に肥前佐賀藩から彗星の如くあらわれ、わずか数年間で日本の司法制度の基礎を確立した江藤新平。 現在、佐賀城本丸歴史館で開催されている展示を、満を持して観に行くことができました。 (佐賀市内は自宅から車で1時間半くらいなので、ちょっとしたドライブ感覚で行けるのです。) 私の江藤新平に対する思い入れは、以前、長南政義先生の講演を聴きに行った時の記事にありますので、よろしければ御覧下さい。 今回の特別展は、最新研究をふまえて江藤新平の生涯をたどり、その再評価をし‘

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本能寺の変1852 その一因 一、武田効果 240418 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、武田効果 240418 はじめに ←目次 ←  →重要 ◎目次 重要 ◎目次小  →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次  →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次  →その一因  →見えてきたもの 目次  *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 *加筆修正 240411 240418  【シリーズ】信長の甲斐侵攻  その一因 一、武田効果 第5話      甲斐攻め 先陣信忠 破竹の勢い 高遠城 十日後 武田消滅      信長の

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30年日本史00841【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義貞敗走

 新田義貞は僅か500騎で東海道を西へ西へと逃げていきます。その最中、伊豆国府のあたりで通りすがりの僧から 「ここから先は足利勢80万騎が道に溢れ返っていて、とても通れますまい」 と言われてしまいます。  ところが、義貞の側近・栗生顕友(くりゅうあきとも)と篠塚重広(しのづかしげひろ:1309~1342)は、 「味方500騎に敵80万騎とはちょうどよい」 などと無茶苦茶なことを言って、そのまま敵中を全速力で通り抜けようとしました。無茶な人たちです。  足利勢の中に一条次郎(い

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【古墳】 古墳は概ね3世紀中葉以降に築造され、大化2(646)年の薄葬令でその築造が制限されるまでの期間に造られた墳墓で、その時代を概ね「古墳時代」とし、それ以降をいわゆる「歴史時代」とする。 聖徳太子が生きた飛鳥時代は、考古学上では古墳時代(終末期古墳の時代)とされる。

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