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綏靖天皇は、朝に夕に人を7人食らいなさったのか?

欠史八代 第2話  第二代 綏靖すいぜい天皇 前編

  タイトルの件は、南北朝時代に成立した安居院唱導教団あぐいしょうどうきょうだん神道集しんとうしゅう熊野権現くまのごんげんの事」に記される内容です。文献のタイトルから古来の神道に関する内容かと思われがちですが、実際には神仏習合の本地垂迹ほんじすいじゃく思想、仏家ぶっかによる神道説話しんとうせつわです。儒家じゅか神道や国学の勃興により、江戸時代には荒唐無稽とも言われましたが、以下当該部分の訳文を引用します。

 これはどの帝の時のことであったろうか。綏靖天皇という帝は、朝夕に七人ずつ人を食べたので、臣下の嘆きはこれにつきた。「だれとだれが生き残れるか」、悲しいことだがそれはだれにもわからない。この帝は長生きをしたので、多くの人民がその間に滅びてしまいはせぬかと心配して、ある臣下が、この暴君を滅ぼそうと提案した。そこで帝をもてなした上で、しばらくして奏上した。

 「ただ今は神代とは申せ、国内には意外に争乱が多く発生し、人民の嘆きは絶えそうもありません。祖父 鵜茅葺不合尊うがやふきあえずのみことは、836,042年間世を治められました。人皇の代となって以来、世も末になったのは悲しいことです。神武天皇は百二十年天下を治められました。当帝もあと百年や二、三百年はご在世のことと思いますが、近い将来、某月の某日にあたって火の雨が降るでしょう」と報告し、諸国に使いを出して、「今度の火の雨に命が惜しいと思う者は、岩屋を造って、そこにこもって助かるがよい」と告げて回った。人々はあわてふためいて、各自岩屋を構えた。今も諸国に塚がたくさん残っているのはこの時の岩屋や塚である。

 都でもその日を期して宮中に岩屋を造り、「国王もその当日はずっと入っておられますように」と、公卿三人、殿上人二人、女房二人を付き添わせて、頑丈な柱を立て、下から人が上がれないことを確認した上、帝を中へお入れした。その後捜したが見えなかったので、代理者が天下の政治を行い、世の中も静かになった。

神道集 貴志正造訳 平凡社


 中世には地方の村々を訪れ熊野比丘尼くまのびくに御師おしと呼ばれる人々が布教活動を行っていました。熊野権現の事を説く内容で、猟師が八咫烏に導かれて行くと、熊野三所の神が姿を現し云々という話しの後にこの食人伝説が語られます。

 神武東征譚。熊野で神武天皇の窮地を救ったのが熊野の神。東征に従ってきた長男 手研耳命たぎしみみのみことを殺して即位したのが綏靖天皇。綏靖天皇を卑しめるのはそうしたことに関係するのでしょうか?

 或いは、『神道集』より少し前に発刊された北畠親房きたばたけちかふさの『神皇正統紀じんのうしょうとうき』。綏靖天皇の段に、「末代トナリテ、人不正ニナリシユヘニ、其道ヲオサメテ儒教ヲタテラルルナリ」と記されているのに対して儒教を卑しめる狙いがあったのでしょうか?

 まぁ、本当のところはよくわかりませんが、史実とは言い難い物語なので、綏靖天皇が人を食っていたという話しを目にしたら、「あぁ、『神道集』のあれね」と思いだしてください。いつの時代にも「人を食ったような人」ならいますけどね。



綏靖すいぜい天皇を400字で語る


 神武天皇が亡くなると跡目争いがおきます。日向から東征に従ってきた長男の手研耳命たぎしみみのみことが異母弟の神八井耳命かむやいみみのみこと神淳名川耳尊かんぬなかわみみのみことを殺そうとしますが、逆に弟たちに殺されます。末子の神淳名川耳尊かんぬなかわみみのみこと綏靖天皇すいぜいてんのうとして即位し、兄の神八井耳命かむやいみみのみことは自ら身を退いたので「弥志理都比古みしりつひこ」と呼ばれ、今は多神社おおじんじゃに祀られています。『古事記』の太安万侶おおのやすまろの祖先です。

 綏靖天皇すいぜいてんのうは、母の妹である五十鈴依媛いすずよりひめを皇后に迎え、宮を葛城かつらぎ高丘宮たかおかのみやに構えました。

 押さえておきたいポイントは、初代神武天皇に続き、大和の開拓神 大己貴神おおなむちのかみの子 事代主神の娘を娶り血縁を強めたことです。もし手研耳命の思惑通りになっていたら、奈良盆地での争いは続き、結果、大和以外の国が日本を統一していたかもしれませんね。



皇后

①五十鈴依媛命(日本書紀 本文) ②川派媛(日本書紀一書1 磯城縣主娘) ③糸織媛(日本書紀一書2 春日縣主妹) ④河俣昆売(古事記 師木縣主祖) ⑤五十鈴依姫(先代旧事本紀)

 皇后はお一人ですが文献によって名前が違います。①と⑤は同じ。②と④は同じ(第4代懿徳天皇まで古事記と日本書紀一書1が同じパターン)。③は中臣氏系か?


『先代旧事本紀』は大臣を記します

 宇摩志麻治命うましまじのみことの子 彦湯支命ひこゆきのみこと足尼すくね、後に申食国政大夫おすくにのまつりごともうすまえつきみ(のちの大連・大臣に相当)に任じたと『先代旧事本紀』は記します。


 ちなみに初代 神武天皇の申食国政大夫おすくにのまつりごともうすまえつきみは、物部連らの祖 宇摩志麻治命うましまじのみこと と、大神君おおみわのきみの祖 天日方奇日方命あまひかたくしひかたのみことと記されます。

 天日方奇日方命あまのひかたくしひかたのみことは、大己貴神─事代主神─天日方奇日方命あまのひかたくしひかたのみこと鴨王かものきみとも)。に神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴媛ひめたたらいすずひめの、綏靖天皇の皇后 五十鈴依媛いすずよりひめ。のちに崇神天皇の巻で登場する大田田根子の祖先です(諸説あり)。
 
 こうして見ると大和政権のスタートは、大己貴神の一族と物部氏の後ろ盾で成りたっていたと言えますね。


葛城高丘宮

初期天皇の宮は奈良盆地の南部に限られています。

ほぼ橿原市、御所市に分布
拡大するとこんな感じ(3代安寧天皇は諸説あり上画像は大和高田市説でマーク。7代孝霊天皇は奈良盆地中央の田原本町、9代開化天皇は北部奈良市なので画像には含まれていません)
綏靖天皇葛城高丘宮碑 「葛城高丘宮」は『和名類聚抄』に大和国葛上郡高宮郷と記さています。
碑は葛城一言主神社から葛城古道15分程歩いたところにあります。
高丘宮碑付近から東を眺める。見晴らしの良い山裾の高台にあります。



 初期大和政権は大己貴神の一族と物部氏が後ろ盾と書きましたが、綏靖天皇 後編では、その事を出雲国造が新任のとき朝廷に奏上する祝詞『出雲国造神賀詞』に記される内容、初期天皇を考える上で重要な鴨氏族の伝承地から深堀りしてみたいと思います。


余談

 文献には見えませんが、綏靖天皇を祀る神社、或いは綏靖天皇の御代に創建したと伝える神社が奈良以外にあります。ざっとみた感じ、主に九州と山梨県に分布しているようです。『古事記』に神八井耳命かむやいみみのみことを祖とする氏族が記されますが、その中に、九州は火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三宅連など。山梨は科野国造しなののくにのみやつこ氏があります。おそらくはそうした氏族の伝承が神社伝承の元となっているのではないかと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 






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