見出し画像

第18話 初代皇后 媛蹈鞴五十鈴媛


神武東征の旅第18話 媛踏鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと

父  事代主神ことしろぬしのかみ
母  三島溝橛耳神みしまのみぞくいみみのかみの娘 玉櫛媛たまくしひめ
(『日本書紀』の漢字表記)

ヘッダー画像及びこの系図は、橿原神宮のHPから拝借しました

御名から、どのような方だったのか考えてみましょう。

ひめ 蹈鞴たたら 五十鈴いすずひめのみこと

最初につく「媛」は「媛女おとめ」美しい女性という意味。「蹈鞴たたら」は、古代に鉄や銅など金属を還元する際に炉の火力を強めるために使う「ふいご」のこと。「五十鈴」はたくさんの鈴。鈴は音色に霊性を感じ神を招く道具として古くから使われています。神とつながる巫女を表しているのだと思います。後につく「媛」「命」はいずれも一般的な尊称。

つまり、「〝たたら〟と関わりのある、神とつながる霊力のある美しい女性」ということでしょうか。

 「蹈鞴たたら」について説明します。〝たたら〟と言えば「たたら製鉄」を思い浮かべますが、私の想定する時代(1世紀)には、(鍛冶工房はあったと思いますが)、砂鉄を還元して鉄を取り出す「たたら製鉄」はまだ行われていません。

   母方の 三島溝橛耳神みしまみぞくいみみのかみの本拠は摂津国島下郡、現在の大阪府茨木市です。同市の東奈良遺跡は、奈良の「唐古・鍵遺跡」と並ぶ当時最大級の銅鐸の生産地でした。ここで生産された銅鐸が近畿各地や四国から発見されています。そうしたことから、媛の名の〝蹈鞴たたら〟は銅鐸に由来すると考えることができます。

 
「ふいご」と「送風管」の解説
上記パネルは、茨木市立文化財資料館に常設展示されています


 神武天皇が皇后とした媛は、美人で巫女としての霊力があっただけではなく、大物主神系の父と、銅鐸の一大生産地を統治する一族の母を持つ娘であったことが重要だと思います。私の妄想ですと、この結婚で大物主(出雲)系と饒速日系、両勢力とつながったと考えられます。


姫が神の御子である故事 

  『日本書紀』は、(ある説では)事代主神が八尋熊鰐やひろくまわにに姿を変えて三嶋の溝杭姫(玉櫛姫)の元に通って生まれた御子。

  『古事記』は、いわゆる「丹塗矢神婚譚」と言われるもので、大物主神が勢夜陀多良比売せやだたらひめ(玉櫛姫)を見惚れて、姫が便所にいったときに朱塗の矢になって姫の女陰を突いた。驚いた姫はその矢を持ち帰ったところ、にわかに立派な青年となった。その青年と結ばれて生まれたのが、富登多多良伊須気余理比売ほとたたらいすけよりひめ。しかし「富登ほと」とつくのを嫌って、後に比売多多良伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめとしたと記されます。

※『古事記』の漢字表記は比売多多良伊須気余理比売ひめたたらいすけよりひめ

 この故事については、世界各地にある類似の神婚譚を引き合いに出して、朝鮮半島から伝わったものだとか、北方民族に共通する神話だとか、いやいや南方にも、ギリシャ神話など世界中に類似の話しがありますよとかいろいろ語られています。

 私が思うには、「大物主神(事代主神)が姿を変えて」とはっきり記されていますから、 比較の対象としている異類婚姻譚(元が熊の女など人間以外の動物と結婚する)と違って、『日本書紀』では、鰐と結婚したのではなく、鰐に姿を変えた事代主神と結婚したわけですし、『古事記』のほうも、矢が女陰を突いて子供が生まれたのではなく、大物主神が矢に化けて女陰を突いて、その矢を持って帰ったら、今度は青年に変身して、、、要は大物主神と結婚して生まれた子が姫だと、神の子だと言っているのです。

  なので、始祖卵生神話(始祖が卵から生まれる)、或いは日光感精神話の女性の陰部(ほと)に日光がさして卵を生み、そこから子が生まれるという阿加流比売あかるひめの故事などとは似て非なるもので、そもそものたてつけが違うと思うのですが、皆さんならどのように考えますか?



媛蹈鞴五十鈴媛を祀る神社

溝杭神社みぞくいじんじゃ
大阪府茨木市五十鈴町9-21
主祭神 玉櫛媛命 媛蹈鞴五十鈴媛命

 東奈良遺跡とは3㌔程の距離にあります
境内 手水舎と拝殿
由緒書
元は上の宮に媛蹈鞴五十鈴媛、下の宮(現社地)に玉櫛媛が祀られていたといいます(明治42年に合祀)。
「神輿山伝承」碑

貴船きふね神社
京都市左京区鞍馬貴船町
奥宮にある末社 鈴市社のご祭神として祀られています。

奥宮
鈴市社
ご朱印


橿原神宮かしはらじんくう
ご祭神 神武天皇 媛蹈鞴五十鈴媛皇后
橿原神宮でも神武天皇と共に祀られています。

拝殿と畝傍山 橿原神宮は神武東征の旅最後でまた書きます



率川神社いさがわじんじゃ
式内「率川坐大神御子神社」大神神社境外摂社
ご祭神 媛蹈鞴五十鈴媛命 玉櫛姫命(母神) 狭井大神(父神)

推古天皇は即位後間もなく社殿を建て媛蹈鞴五十鈴媛を祭られたと社伝に記されます。

 『古事記』に、神武天皇崩御後、長男 当芸志美々命たぎしみみのみことが父天皇の皇后であった伊須気余理比売(蹈鞴五十鈴媛)を自らの妻とし、媛の二人の子(異母弟)を殺害しようとする記述があります。

 敏達天皇崩御後、皇后であった推古天皇は、殯宮もがりのみやに居られた時、穴穂部皇子が犯さんとして殯宮に押し入ろうとします。三輪逆みわのさかふが阻止して事なきを得ますが、同じ境遇・体験をした媛蹈鞴五十鈴媛にシンパシーを感じたのではないでしょうか(神社パンフレット参考)。

「ならまち」エリアにあります
拝殿
由緒書
ご朱印



神武天皇、姫の家にお泊まりする

伊須気余理比売命いすけよりひめのみことの家は、狭井河さいがわのほとりにあった。天皇は姫の家にお行きになり、一晩お泊りになった。(その河を佐韋河さいがわというわけは、その河の辺りに山百合やまゆりがたくさん生えている。それでその山百合の名をとって、佐韋河と名付けた。山百合のもとの名は佐韋という。)

 後になって、姫が宮廷に参内した時に天皇が歌って仰せられるには、

 葦原のしけしき小屋に
 菅畳 いや清敷きて
 我が二人寝し

 顕彰碑
その、しけしき(むさくるしい)小屋があった場所とされる狭井神社
三輪山と佐韋河(狭井川)と山百合(ささゆり)



媛蹈鞴五十鈴媛ゆかりのお祭りなど

大神神社 ささゆり園(5月下旬頃から)
橿原神宮 皇后献上佐韋祭(6月上旬)
率川神社 三枝祭さいくさのまつり(6月中旬)
※日程などは各神社HPなどで確認してください。


神武東征の旅 次回は「論功行賞」です。お楽しみに!



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?