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〈学びノート〉大安場史跡公園 企画展「正直古墳群の全て」②記念講演会「古墳時代の海の民、山の民」レポート

〈はじめに〉
講演拝聴時のメモをもとにまとめましたが、聞き間違いや勘違いなどがあるかもしれません。内容に間違いがございましたら、コメントでご指摘いただけると幸いですm(_ _)m

8月3日(日)、福島県郡山市の大安場史跡公園でおこなわれた企画展「正直(しょうじき)古墳群の全て」記念講演会「古墳時代の海の民、山の民」を拝聴しました。講師は千葉大学大学院人文科学研究所の山田俊介先生でした。

企画展入り口

前回は今回の企画展のテーマである正直(しょうじき)古墳群、そして、東北最大級の前方後方墳である大安場古墳群の概要を“ざっくり”ご紹介しました。
今回は記念講演会「古墳時代の海の民、山の民」の内容を“ざっくり”お伝えし、私がワクワク・ドキドキした部分について書いてみたいと思います。

……今回もやっぱり勉強不足を感じてしまいました。
先生のお話はある程度理解できたのですが、まだ「使える知識」に落とし込めていないといいますか、古代史にそれほど興味のない方が読んでも「えー、そうなんだ! おもしろい!」と思っていただけるような文章を書けないといいますか……そうか、私はそういう文章を書きたいんだ!と今気づきました(遅っ)

前回記事はコチラ↓

「海の民、山の民」と古代王権

今回の講演は、ヤマト王権と深いつながりを持っていた「海の民、山の民」と正直古墳27号墳からも出土している「鹿角製刀剣装具」の関係性、そして、「海の民、山の民」が古代の郡山にもたらしたと考えられる文物などがテーマでした。

そのほか、古墳とは違う独自の墓制、「鹿角製刀剣装具」を製作していたと考えられる葛城氏の本拠地、新しい文物を郡山に運んできたもたらした長野と仙台を結ぶ東国のルート、郡山から出土した古墳時代の須恵器(すえき)の貴重性など、興味を惹かれる内容が盛りだくさん! とにかく「海の民、山の民」のお話がおもしろかったです。

正直古墳27号墳から出土した「鹿角製刀剣装具」の写真は、大安場史跡公園の公式サイトでご覧になれます(正直古墳群の出土品でご確認ください)↓

「海の民、山の民」とは、一体どんな人びとだったのでしょうか?

「私たちが学校の授業などで学んできた日本の歴史は、農耕を基盤とした定住社会で暮らす『平地の農耕民』が中心です。しかし、古代の日本には、農耕せず、定住もせず、海と山のモノを獲り、移動しながら暮らす『海の民、山の民』が存在しました」と山田先生。

そうした人びとは、古代においては「供御人(くごにん)」とされ、神に捧げる贄(にえ)を天皇に奉り、中世においては「神人(じにん・じんにん)」として、有力神社に神饌を奉るなど、「平地の農耕民」の周辺部にありながら、天皇や有力神社と結びつく特権的な存在であったと考えられているそうです。

山田先生が引用されていた、日本中世史の研究者である網野善彦氏による非農民研究が興味深い。

「農業以外の生業に主として携わり、山野河海、市・津・泊、道などの場を生活の舞台としている人びと、海民、山民をはじめ、商工民、芸能民など」

網野善彦1984『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店

ヤマトの大王(おおきみ)は、なぜ、「海の民、山の民」を必要としたのでしょうか?

そこには、古代王権における大王の「2つの顔」がありました。

一つは豪族の頂点に立つ「皇帝」としての顔。
もう一つは、「神の祭祀」としての顔。大王は「人」でありながらも、「神に準ずる存在」であり、贄を捧げられ、異界(人間の世界を超えた神仏)とアクセスする存在。未開社会における神聖王的な存在だったとのこと。

そして、異界とつながるために必要な贄を大王に奉るのが、「海の民、山の民」でした。また、「贄のためだけではなく、移動し続ける人びとが持つ情報の拡散力に興味を持ったのではないか」と山田先生はおっしゃいます。

「海の民、山の民」の移動により、さまざまなモノや情報が全国各地に届けられました。古墳時代の阿尺国(あさかのくに=古代の郡山)も、彼らのモノや情報がとどまった地域の一つと考えられるそう。

こうした大前提のもと、正直27号墳からも2振出土した「鹿角製刀剣装具」と古代王権、「海の民、山の民」との関連へお話は続きました。

過渡期に製作された正直27号墳の鹿角製刀剣装具

正直古墳27号墳からも2振出土した「鹿角製刀剣装具」とは、その名前の通り、鹿の角を素材とする飾りのこと。

大安場史跡公園のサイト以外でヴィジュアルを探しましたが、なかなかピンとくるものが見つからず。

下記は、直弧文がある刀剣装具。B系列かC系列と思われます↓

「鹿角製刀剣装具」は、A系列、B系列、C系列の3つに大別されるとのこと。

A系列
●角取り(鹿の角のどこを使うか)は共有しているが、細部の形態にバラつきが認められることから、特定の工房で集中的に生産されたものではないと考えられる。また、無文である(直弧文などがない)
●ほとんどが海辺の遺跡から出土する。
(福井県浜禰遺跡、大阪府蔀屋北遺跡、小島東遺跡、和歌山県西庄遺跡など海浜部の製塩遺跡から出土)

A系列は、山海を舞台に狩猟採集をおこなった「海の民、山の民」が自分たちで製作したと考えられるそうです。

B系列・C系列
●角取りの方法に違いはあるが、系列内の斉一性(一様に同じ状態を保ち揃っている性質)が高い。
●複雑な直弧文を正確に刻んでいることから、特定の工房で製作された可能性が高い。
●古墳とは違う、変わった墓制から出土する。
①朝鮮半島系要素の濃厚な古墳(福岡県セスドノ古墳、岡山県天狗山古墳、大阪府峯ヶ塚古墳、長野県溝口の塚古墳など)
②地下式横穴墓(南九州の遺跡……名称メモ忘れ)
③洞穴墓(磯間岩陰遺跡、大寺山洞穴)

こうしたことから、B・C系列の鹿角製刀剣装具は、大王を頂点とするヤマト政権が、「山の民・海の民(そして、渡来系の人々も?)」との関係を構築するために生産し、配布されたと考えられるとのことでした。

B系列の生産地は、奈良県南郷角田遺跡と想定されているそう。南郷角田遺跡は、大王家と深いつながりを持つ古代豪族、葛城氏の本拠地です。

調べてみたところ、遺跡にはガラス製品を作ったときのカスや銀滴、銅滓、鍛造したときのカケラなどさまざまな生産活動の痕跡が発見され、水を使った祭祀の跡も残っているとか。古墳時代のこの地域が、鉄や銅、ガラスなど当時の先進地域であったこと、また葛城氏が大きな力を持っていたことがうかがえます。

正直古墳27号墳から出土した刀剣装具は、「A系列からB・C系列への移行期に製作されたものと考えられる」と山田先生。

正直27号墳の築造年代は、古墳時代中期。この時代は、応神大王の治世。「神が治める世界」から「人が治める世界」への移行が完了する頃。応神天皇はその時代の大王なのだそうです。

また、後から調べたところによりますと、応神天皇の御代、おおぜいの渡来人が来日し、それまでのヤマトにはなかったモノや文化が伝わってきたようです。

古墳時代中期の郡山にもたらされた文化

5世紀前半、古代の阿尺国にもたらされたのは「鹿角製刀剣装具」だけではありません。応神天皇の御代に朝鮮半島から渡来した人びとが日本に伝えた新しいモノ、技術、文化などももたらされました。

そして、実は郡山から出土したそうしたモノの数は「全国的にみても突出している」のだそう。先生から「他にこれだけのモノが見られる地域は、群馬や千葉ぐらいです」とうかがって、ビックリ😲

われらが阿尺国が、あの“ハニワ王国”群馬と肩を並べる先進地域だったとは…!

この時代、どんなモノが郡山にもたらされたのか、先生のお話によりますと…

◆特別なときに用いられる須恵器
まず南山田1号墳(田村町)から出土した把手付きの須恵器(すえき)。

「平然と展示室に並んでいますが、実は大変希少なモノです」と力を込める山田先生。

大安場史跡公園の公式サイトに写真あり↓

また、北山田遺跡(田村町上行合)から出土した「二重はそう」(小型壺の周囲を透かしが覆う土器)の須恵器も大変貴重なものだとか。

郡山市公式ホームページによると、こうした須恵器の多くは、朝鮮半島から渡来した工人が大阪に開いた官営工房といえる窯場で焼き、北は北海道までの広い範囲に運ばれたのだとか。

「阿武隈川中・上流域、特に南山田遺跡では栃木県宇都宮周辺や宮城県仙台平野と並んで、樽形はそうや二重はそう、器台など、特別なときに用いる稀少な器種が目立つ。
日常使用するもの以外の稀少な器種を手に入れることのできた集落には、須恵器の流通に関わった集団あるいは有力な豪族が住んでいた可能性が考えられる。
このように、古墳時代中期の阿武隈川流域では、古墳と朝鮮半島由来の文物の分布から、南北方向の交流が格段に高まったとみられる」

郡山市公式ホームページ

◆新しい食文化と調理器具
また、南山田1号墳からは蒸し料理に使う「こしき」も出土しています。
先生のお話では「これはこの地域に蒸し料理という『新しい食文化』が流入したこと」を示すそう。

コチラも下記に写真(復元)あり↓

また、住居の一角にカマドが登場し、清水内遺跡(大槻町)では鍛冶工房が見られるようになることから、鉄の加工が集落内でおこなわれるようになったと考えられるそうです。

◆朝鮮からもたらされた最新の機織り技術
同じく清水内遺跡からは「算盤玉形紡錘車(そろばんだまがたぼうすいしゃ)」が出土。これは糸を紡ぐときに使う弾み車と考えられ、この時代に朝鮮半島から機織りの新しい技術がもたらされたと推察されます。

古代の郡山には、「神が治める世」から「人が治める世」となり、おおぜいの渡来人が来日した5世紀、朝鮮半島に由来するモノが急速に普及し、その影響が郡山にももたらされていたことがうかがえます。

新しい人やモノを受け入れる「郡山の寛容性」

山田先生によると「古墳時代中期前半の石製模造品は、長野→群馬→栃木→郡山→仙台と山の際を通るルートで、郡山を経由していく」そうです。

下記PDFに山田先生が講演で使用されていた「東北の5世紀代の朝鮮系資料の分布」が掲載されています(奈良時代に造られた古代の官道「東山道」は、このルートをもとにしたのかも…と妄想)

https://yamagatamaibun.or.jp/h25/P66-71.pdf
(亀田修一 2003「陸奥の渡来人(予察)」『古墳時代東国における渡来系文化の受容と展開』より)

その西端に位置するのが、全国で最も古い馬具が出土している長野県上田市の鳥羽山洞窟。そして、ルートの最北端である宮城県角田市吉ノ内からも同様の馬具が出土しているそうです。

つまり、この馬具も「山のルート」を通り、郡山を経由して長野県から宮城県へともたらされた。
そして、それをもたらした(運んだ)のが、定住せず、広域を移動する「海の民・山の民」。彼らは移動によって、地域にさまざまなモノや文化をもたらす存在だったと考えられます。

ということは、「海の民、山の民」は古墳時代の郡山を訪れていたということ。古代の郡山を治めた首長たちは、定住せず、農耕せず、贄を求めて移動する民にどう接したのでしょうか。

山田先生は「どれだけ互いの関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した」と、社会学者のマルセル・モースの『贈与論』を引用し、「古墳時代においても、広域を移動する人びと(海の民、山の民)を受け入れる寛容性のある地域が文化的な発展を遂げたのではないでしょうか。郡山から出土する須恵器やこしきは、古代の郡山の人びとの寛容性を示しているといえるでしょう」と結ばれました。

「郡山の寛容性」

これは現在の郡山にも当てはまりそうです。

政治的には保守的な土地柄と評価されることもありますが、明治時代の安積疏水開削・安積原野の開拓事業により他地域から流入した人が多いためか、現在も企業の支社や支店が多数あり、転勤族が多いためか、県内の他市町村より「新しい人やモノ」を受け入れる素地があるといいますか。

城下町など本当に保守的な市町村からは、「郡山の人は商売人」「流行りモノ好き」と、やや揶揄されがちな郡山ですが、新しいモノを受け入れる「寛容性」が現在の発展につながっているような気がします。

マルセル・モースの「贈与論」の解説↓

https://www.fhrc.ila.titech.ac.jp/kanri/wp-content/uploads/2022/01/Commonsvol1_Nakajima.pdf

文章ばかりになってしまったので、大安場1号墳から見た郡山の風景を掲載

今回は、正直古墳群や郡山市に関連する講演内容にしぼって、まとめてみましたが、個人的には前述した「その他のお話」もメチャクチャおもしろかったです!

なので、少し長くなりますが、メモ的にその部分をまとめてみたりして。

最後に。海の民、山の民はどこへ行ったのか?

定住せず農耕せず、贄を求めて移動する“聖なる存在”

山田先生によると「海の民は山の技術も持っていた」そう。
「現代的な感覚だと、海と山を分けてしまいますが、古代の『海の民、山の民』には、そうした意識はなかったと考えられます」とのこと。

民俗学者の柳田國男の著書には「南九州では、海の人が冬になると山に入って暮らす」という記述が見られるそう。
紀州のドンカスは、「川童は冬は山奥に入ってカシャンボ(紀伊南部に伝わる妖怪)になる」とされ、吉野では「川太郎(川童)は冬になると山に入って、山太郎になる」と伝わるとか。

川童やカシャンボが「海の民、山の民」をさすかどうかは不明ですが、「定住民からすると不思議な存在に写ったことでしょう。縄文的、季節的移動をする人びとは、結構存在していたのではないかと考えられます」と山田先生はおっしゃいます。

「縄文的」と聞いて、なんとなくですが、「海の民、山の民」は、弥生人ではなく、縄文人のスピリットを受け継いだ人びとであるような気がしてきました。

そして、この記事を書くにあたり、wikipediaをもとに、「供御人」の変遷を辿ってみました。

以下、メモ的に内容をまとめてみます。

●「海の民、山の民」は、古代においては、天皇や朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀物以外の副食物)を贄として貢いでいた。
●律令制のもとでも租庸調などの税とは別に、贄の納付が定められていた。
●律令制が解体し、荘園領主による制約を受けるようになっていく。
●11世紀以降は、有力な寺社などに生産物を貢納し、隷属する「神人」となっていく。
●後三条天皇の時代、山野河海の※御厨が直轄化され、御厨の住民が「供御人」と呼ばれるようになる。
※みくりや=神饌を調理するための屋舎の意味だが、神饌を調達するための領地も意味する

●中世においては、朝廷に属し、天皇や皇族などに山海の特産物や手工芸品を貢納した集団を指す。
●貢納物の原料採取・作業・交易をする場を求めて移動・遍歴する必要があったため、関銭などの交通税を免除され、自由に諸国を往来できる権利を得ていた。
●また、“聖なる存在“として国役の免除、給免田の付与なども獲得していた。
●南北朝時代以降は、特権の源泉であった天皇家の権威喪失とともに聖性を失う(その後、被差別民の起源の一つになったという見解もあるそう)
●戦国時代に入ると、戦国大名らが「楽市・楽座」などの経済政策をおこなうようになり、「供御人」は急速に減少する。

定住・農耕する民とは異なる文化をもち、大王…のちには天皇家に仕え、贄を求めて神に供える贄を求めて移動する「供御人」は、特権を持つ“聖なる存在”とみられていたようです。

しかし、「供御人」は、天皇家が権威を失うとともに自らも聖性を失います。戦国から江戸にかけての商業の発達により、減少する……というのが、興味深い。

それにしても、講演を拝聴して、心の中に生まれたこの気持ちをどう表現したらいいのか…。

海と山の贄を大王という存在を介して神に捧げ、定住せず各地を移動する民、文物と文化を全国に運んだ民(彼らにその意識があったのかどうかは不明ですが)

私たちが学んでいる『平地の農耕民』の歴史では、大きくは取り上げられない人びとがいた……今はただただ、学びたい気持ちでいっぱいです。

さらに1つ、おそらく「海の民、山の民」が眠ると考えられる古墳とは異なる墓制について、個人的なメモを掲載。

洞穴墓や舟葬。ヤマトの古墳とは異なる墓制

B系列・C系列の鹿角製刀剣装具が出土した遺跡は、古墳とは異なる変わった墓制を持っています。

先生が例として挙げていた遺跡から、個人的に心惹かれる遺跡を2つご紹介。

一つ目が波に削られた洞窟につくられた集団墓、和歌山県の磯間岩陰遺跡。先生によると、5世紀の終わりから6世紀の終わりまで、断続的にお墓がつくられていたそう。

※以下、Wikipediaより抜粋。

●海岸に突き出た洞窟を利用した「岩陰内集団墓」。規模は前面幅約23m、奥行き約5m
●発掘調査により、古墳時代中期の終わりから後期にかけての石室墓であると判明
●第一号石室の被葬者は、漁ろう集団の首長とその一族と考えられる
●磯間岩陰遺跡の位置する田辺市域は、石室古墳のさかんな畿内・紀伊の文化と、古墳の希薄な(墳丘を作らず砂浜に埋葬する)熊野の文化との境界になる

「全国こども考古学教室」(子ども向けとはいえ、なかなか専門的)↓

もう一つが、磯間岩陰遺跡と同じ刀剣装具が出土した千葉県館山市の大寺山洞穴

個人的に興味深かったのが、1号洞に見られる丸木舟を積み上げて墓とする「舟葬(しゅうそう)」。山田先生は「遺体を乗せた丸木舟を洞穴の脇に置き、その上にまた舟を乗せている。古墳をつくる人びとと遺体に対する考え方が違う」と解説されていました。

最後は本当に個人的なメモになってしまいました。
磯間岩陰遺跡も大寺山洞穴も気になる…。どちらも「海の民、山の民」が眠る場所なのでしょうか。機会があれば、訪ねてみたいと思います。

ああ、訪ねてみたい場所がいっぱい…!
でも、いつか必ず、絶対に…!


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