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大和、新たな展開へ。

欠史八代 第七話 第五代 孝昭こうしょう天皇
ヘッダー画像は、向かって右から孝昭天皇陵、大和葛城山、金剛山。

 初代から第四代、神武じんむ綏靖すいぜい安寧あんねい懿徳いとく天皇の御陵は畝傍山うねびやまに築かれました。そして前々回の記事で、系譜をサザエさんに例えて、大和の 大地主神おおとこぬしのかみである大己貴神おおなむちのかみの血統を全て受け継いだことを書きました。

畝傍山にある神武綏靖安寧懿徳天皇の御陵


そしてこの第五代孝昭天皇から、新しいフェーズに入ったことを、『記紀』の記述から読み取ることが出来ると考えています。


宮の伝承地


 まず宮の伝承地と御陵を確認しておきましょう。『日本書紀』は孝昭天皇の宮を掖上池心宮わきのかみのいけごころのみや(『古事記』では葛城掖上宮)と記しており、奈良県立御所ごせ実業高校の敷地内に碑が立っています。

正門
入ってすぐ右
 に碑があります。


御陵と孝照宮こうしょうぐう

 掖上博多山上陵わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ は、奈良県御所市大字三室字博多山にあり、『延喜式』諸陵寮では、大和国葛上くずかみ郡、兆域東西6町(642m)・南北6町(642m)、守戸5えん(5軒)とされています。他の陵同様、中世には所在がわからなくなりましたが、元禄の探陵の際に、博多山の丘上に古くから孝昭天皇を祀る祠があるとして当所を陵に当て、その後、文久の修陵の際に祠を東側に移し修陵したとされます(『山陵考』谷森善臣)。


前面道路との距離が無く、横から入ります。
写真も正面からだとおさまらないので横から撮りました。
御陵と駐車場と孝照宮
孝照宮
拝殿
拝殿から
本殿
御陵印


新しいフェーズとは

下の画像で、孝昭天皇陵と鴨都波遺跡が隣接していることが確認出来ると思います。

鴨都波遺跡では、出土品から、瀬戸内や伊勢、北摂等の地域と人の往来があったことがわかります。
『葛城の弥生時代』より

 第五代孝昭こうしょう天皇陵は、鴨都波かもつば遺跡に隣接し、第六代孝安こうあん天皇の宮は秋津・中西遺跡、第七代孝霊こうれい天皇の宮は唐古からこかぎ遺跡、いずれも大和を代表する弥生遺跡と至近距離にあります。これは単なる偶然ではなく、大和国中くんなかのムラを統一していくプロセスを示唆しているもではないかと私は考えています。

 まず、開拓神 大己貴神おおなむちのかみの直系子孫である磯城縣主しきあがたぬし一族と血縁を深めて大和で地盤を築きました。そして、5代孝昭天皇6代孝安天皇の御代に、鴨都波、秋津・中西といった奈良盆地南部の有力なムラを掌握し、第七代孝霊天皇の御代に、奈良盆地の中央部にあり、大和最大の弥生遺跡である唐古・鍵を制圧したと考えます。

いまの時代の話しで例えると、「この度、これまでも業務提携をするなど弊社と友好関係にありました鴨都波株式会社の株式を100%取得し、完全子会社と致しました。尚、従業員は全員従来通り雇用致します。」といった感じでしょうか?


紀元前5世紀頃の水田跡 秋津・中西遺跡
奈良盆地最大の弥生遺跡 唐古・鍵遺跡
土器に描かれた絵を元に復元された建物



 このシリーズでは、欠史八代天皇の実在性を前提として書いていますが、実際には欠史八代が創作であると主張する意見も多いです。私の考える「弥生遺跡の近くに宮があり、大和を統一するプロセス」という話も、それは単なるこじつけに過ぎないと考える方がいると思います。それで少し補足を加えておきたいと思います。

 孝昭天皇は、皇紀では『古事記』や『日本書紀』が奏上された時期から約1200年前の人物ということになります。私が想定している2世紀の始め頃だとしても600年前のことになります。考古学的知見に乏しい時代に、『記紀』編纂者はどのようにして弥生時代のことを記すことが出来たのでしょう?

 弥生時代の遺跡は、何世代にもわたる集落の再利用や発展によって、新しい時代の遺跡が古いものの上に重ねられて見つかることがあります。一方、唐古・鍵遺跡のように、新たにつくられた都市、纏向遺跡へ引っ越すかのように放棄されたムラもあります。今でこそ唐古・鍵遺跡公園として整備され、様々な出土品から当時のことを想像することができますが、『記紀』編纂者はどのようにしてこの1200年(或いは600年)前にあった弥生のムラや天皇の宮・陵を知ることができたのでしょう。数百年も経てば、ダーウィンのミミズの話しにあるように、おそらく土に埋もれて、水田などとして利用されていたかと思われますが。

記紀編纂者が古代の宮を弥生時代の主要な遺跡の近くにあったと意図して書くことは、今の時代の私達が考えるほど簡単なことではなかったと思います。

 そうしたことをふまえて考えると、やはり、当時何らかの記録や口伝が存在していて、それらが編纂者たちの基礎情報となっていた可能性があると思うわけです。つまり、欠史八代も、完全な創作というわけではなく、即位年や在位年数などに作為があったとしても、系譜そのものは存在したとか、一定程度は史実に基づいているなどと考えるのが自然なのではないでしょうか。


 

皇后と御子

 大己貴神おおなむちのかみ直系の磯城縣主しきあがたぬし一族の血統を受け継いだ孝昭こうしょう天皇は、今度は尾張氏の娘を皇后として迎えます。世襲足媛よそたらしひめ(古事記:余曽多本毘売命)です。

尾張連の祖 瀛津世襲おきつよその妹と『古事記』は記します。『先代旧事本紀』「天孫本紀」に記される系譜で補うと、天香語山命あめのかごやまのみこと天村雲命あめのむらくもみこと天押男命あめのおしおのみこと瀛津世襲命おきつよそのみこととなります。

 孝昭天皇の御子は二人。弟は日本足彦国押人尊やまとたらしひこくにおしひとのみこと(古事記は大倭帯日子国押人命)で 第六代 孝安こうあん天皇。

兄は天足彦国押人命あめたらしひこくにおしひとのみこと(古事記は天押帯日子命) で、和珥氏わにうじらの祖先(『古事記』は、春日臣、粟田臣、小野臣、柿本臣ら16氏族の祖)と記します。小野は遣隋使の小野妹子おののいもこ、柿本は歌人 柿本人麻呂かきのもとのひとまろなどの有名人を輩出していますし、和珥氏は多くの皇后を輩出した有力な古代豪族です。また、長くなるので今回は割愛しますが、16氏族とは、大和、山城、近江、丹波、伊勢、尾張、上総などを本拠とした氏族らです。

時代背景

 前述の通り、私は孝昭天皇の時代を2世紀の始め頃と考えています。『後漢書』に、光武帝から奴国の使者が金印を賜ったと記されるのが西暦57年107年には倭国王 帥升すいしょうが朝貢したと記述される、そうした時代です。

 この『後漢書』の記述ですが、厳密に言えば、「倭国王 帥升が朝貢した」と記されています。当時日本はまだ統一されていません。「等」という文字から、複数の倭国のクニの王が中国と通交していたことが推察されます。

その後、「桓帝・霊帝の在位期間(146~189年)に倭国で大乱」があったと記されます。大和政権は次第に力をつけていきますが、孝昭天皇の頃は、まだ大和の統一を目指していた時期です。

その後、第七代孝霊天皇の時代が倭国大乱に当てはまることになりますが、大和は倭国大乱に主体的に関わっていなかったと以前の記事で書きました。


最後までお読みいただきありがとうございます。次回は第六代孝安天皇です。


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