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倭国大乱と欠史八代

欠史八代 第1話   倭国大乱と欠史八代
(ヘッダー画像は博多湾)


欠史八代について、私の考え方

 第二代から第九代天皇は「欠史八代」と言われています。本来、事績が記されていないという意味であって、実在しないということではないのですが、〝架空の天皇〟とされてしまってます。

 私は『記紀』編纂当時、『帝紀』(系譜を記すもの)は残っていたか、口伝で伝えられていたが、『旧辞』(事績を記すもの)は編纂途中18氏族に纂記を提出させるなど、遺失したものを復元しようと試みたもののうまくいかなかったか、或いは、初代神武天皇の即位年を引き伸ばした為に無理が生じて、2~9代天皇の事績をあえて記さずに調整したのではないかと想像しています。

 もし架空の系譜を創作するなら、綏靖天皇から開化天皇の480余年間を8代ではなく代数を増やしたほうが合理的ですし、〝人は嘘をつく時ほど饒舌になる〟と言いますから、創作しておいて事績を書かないなんてバカなことはしませんよ。『日本書紀』を一通り読めばそんなやっつけ仕事のような内容でないことはわかると思います。

 いずれにしても歴代天皇の系譜というのは口伝であっても古い時代から伝わっていて、編纂者が勝手に改変することができるものではなかったのだと思います。


欠史八代はいつの時代か?

 欠史八代の天皇の時代を、私は1世紀中頃から3世紀中頃の約200年間だと想像しています。 中国史書でその時代の倭国関連の出来事を見てみましょう。

金印レプリカ 逆さまでした😱

 『後漢書』に、光武帝から奴国の使者が金印を賜ったと記されるのが西暦57年107年に倭国王 帥升すいしょうが朝貢したという記述もあります。さらに、桓帝・霊帝の在位期間146~189年に倭国で大乱があったと記します(他書では霊帝の期間156〜189とも)。204年公孫氏が楽浪郡南半を分割し帯方郡を置きます。238年  が公孫氏を滅ぼし楽浪・帯方郡を接収します。265年 魏の元帝から禅譲を受けてが建国。313年には楽浪・帯方郡は高句麗によって滅ぼされます。


北部九州と朝鮮半島の遺跡からも出来事を知ることが出来ます。

 相互の遺跡から出土する土器などから、紀元前4世紀頃から北部九州と朝鮮半島南部の間に人の往来があったことがわかります。3世紀に入ると、朝鮮半島南岸の遺跡から出土する弥生土器が、北部九州の他に、山陰・瀬戸内・九州南部のものも出土するようになります。中継地として壱岐 春の辻遺跡は最盛期を迎えます。この頃の様子は『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝うがんせんぴとういでん
「辰韓条」に、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな従ってこれを取っている。諸の市買いではみな、中国が銭を用いるように鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している」と記されます。

 短冊形の鉄鋌ていてつというもので取引・輸送していたようです。 持ち帰った鉄鋌ていてつを鍛冶工房で加工して武器や農工具を作っていたと考えられます。 鉄鋌ていてつ画像 文化遺産オンラインより


  倭国大乱とは、九州・山陰・瀬戸内の国々が、朝鮮半島の鉄資源をめぐって争ったのではないかと想像しています。前述の通り「3世紀に入ると、朝鮮半島南岸の遺跡から出土する弥生土器が、北部九州の他に、山陰や瀬戸内、或いは九州南部のものも出土するようになります。これは倭国大乱の後、卑弥呼が共立された時期と符合し、「女王を共立したから」国が治まったというより、鉄資源の採取を共立国にも認めた事で治まったのだと私は考えます。

ここで留意すべきことは、この争い(倭国大乱)に、大和は関わっていなかったと考えられることです。


当時の大和が北部九州より勝っていたと考えられる点

 それは食料の一点のみだったと思います。明治21年の都道府県別人口ランキングで1位は新潟県だったそうです。人口の9割が農業を営んでいた時代、米の収穫量が多い新潟県に人口が集中したのだと。それは弥生時代も同じだったと思います。「大陸との交易で有利な北部九州は・・」と記されることが多いですが、米がよく穫れるところに人が多く集まるのは自明の理です。

西都原博物館展示パネル
石斧は木の伐採、石包丁は稲穂を摘み取る時に使います


 弥生時代、北部九州と畿内の遺跡から出土する石斧と石包丁の比較です。石斧で木を伐り水田を開拓しなければならなかった北部九州。湿地帯が多く労せず実りを得ることができた畿内。人口的にはむしろ畿内のほうが多かったのではないかと思えます。神武天皇が大和という地を目指したのも、耕作適地の少ない南九州からすると、とても魅力的な土地に見えたのではないでしょうか。

米の話しになると、いつ・どこから伝わったということばかり議論されますが、各地の遺跡から、紀元前4〜5世紀には寒冷地を除きすでに全国的に稲作は広まっていたと考えられます。画像は奈良盆地南部な秋津・中西遺跡 紀元前5世紀の水田跡 橿原考古学研究所附属博物館展示

 

 奈良盆地は縄文時代から畿内・東国・北陸などとの交易が行われていました。一方、古墳時代の始まりとされる纏向遺跡の時代ですら北部九州と人の往来を示す遺物はほとんど出土していません。

橿原考古学研究所付属博物館展示パネル
纏向遺物全景 右平地にポツンと長方形の森のように見えるのが箸墓古墳


奈良盆地の金属生産工房は時代と共に移動します。大福遺跡の頃は青銅器。脇本遺跡では鉄鏃てつぞく(やじり)など小型の鉄器加工が行われ、纏向になって初めて刀剣などの大型鉄器がつくられるようになります。纏向は3世紀になってからですので、2世紀の倭国大乱で盟主になれるほど古代大和に軍事的優位性があったとは思えません。


倭国大乱の結果

 倭国大乱というのは九州と山陰(出雲)や瀬戸内(吉備)などの国が朝鮮半島の鉄資源をめぐって争ったのではないかと書きました。実り多い土地ではあったものの畿内はまだこの時点では自前で朝鮮半島との交易を行っておらず、大陸との交易の玄関口である北部九州からも遠く離れ、その為に戦乱に巻き込まれなかったと考えています。

 戦乱を避け、実り豊かな畿内へ逃れてきた人々がいて、人と共に様々な技術も伝わった。つまり〝漁夫の利〟を得たのが大和だったのではないかと考えています。戦乱で疲弊した西国の国々を尻目に大和は急速に力をつけ、第10代崇神天皇(3世紀中頃)以降全国に支配を拡大していったのではないでしょうか。

 北部九州の国がこの時期に大和へ移ってきたという説(邪馬台国や崇神天皇の東遷説など)を見かけますが、繰り返しになりますが、纏向では九州の外来土器は出土していません。

 纏向で始まる前方後円墳の築造と各地の墳墓・祭祀の特徴などを考えあわせると、吉備や出雲から人や技術が流入し、また、朝鮮半島・中国華北の金属資源調達ルートも獲得できたのではないでしょうか。そう考えれば弥生後期に畿内銅鐸が大型化し、原材料の鉛の産地が華北産になる話しともつながるのではないかと思います(ホケノ山古墳と鏡作坐天照御魂神社の記事参照)。

 あっ、人の流入が活発になった為に弊害もおこりました。『日本書紀』は疫病で国民の多くが死んだと記します。1800年後、つい最近も似たような事がおこりましたね。

 

その後

 238年 魏が公孫氏を滅ぼし楽浪・帯方郡を接収します。倭国大乱のあと九州とその周辺国は女王を共立し一時的に安定しますが、卑弥呼の死(247年か?)後再び乱れ、台与を立てて治まったと記されます。女王国がその後どうなったかは史書に記載がありません。

一方『記紀』はその頃、第7代孝霊天皇で吉備の事績が記されたり(古事記)、7〜9代の系譜には重要な人物の名前が次々登場してきます。第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の時代になると、四道将軍の派遣や、朝鮮半島からの来訪者等の記述も見られるようになります。続いて第12代景行天皇の九州遠征、日本武尊の熊襲・東国征討を記します。

 さて、大陸・朝鮮半島との交易は長い間、博多湾ー壱岐ー対馬ー釜山を結ぶルートで行われていました。しかし、楽浪・帯方郡が滅びたとほぼ時を同じくして(魏や晋と通じていた女王国が後ろ盾を失い)4世紀に入ると一大交易拠点であった博多湾の西新町遺跡は急速に衰えます。代わって、4世紀から9世紀にかけて(世界遺産 海の正倉院と呼ばれ、8万点にも及ぶ国宝が発見されている沖ノ島) 宗像むなかた・沖ノ島ルートが出現します。それ以降、朝鮮半島側の遺跡からは畿内の遺物が出土するようになります。もうおわかりですよね。朝鮮半島での権益が、北部九州の盟主から大和へ移ったということです。

宗像大社

 『記紀』はその時期のことを、仲哀天皇・神功皇后が背く熊襲を平定、さらに新羅を征討したと記します。そして応神天皇以降、大陸・朝鮮半島との活発な人の往来を描くようになります。


 そうした時代の流れを想定しながら欠史八代シリーズをお伝えしていこうと思います。

 



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