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第20話 日本の始まり

神武東征の旅 第20話 日本の始まり

磐余いわれ

 初代神日本磐余彦火火出見天皇かむやまといわれびこほほでみのすめらみこと(神武天皇)の和風諡号にもある「磐余いわれ」は、現在の奈良県桜井市西部と橿原市南東部にかけての地名で、古代大和政権の根幹地です。神功じんぐう皇后の磐余若桜宮わかざくらのみや、履中天皇の磐余稚桜宮わかざくらのみや、清寧天皇の磐余甕栗宮みかくりのみや、継体天皇の磐余玉穂宮たまほのみやなどがあったと記される場所です。

NAFICから磐余、桜井市西部を望む
『日本書紀』や『万葉集』にも登場する「磐余池」推定地 東池尻・池之内遺跡
磐余邑顕彰碑 



八紘為宇

天香久山から西方の畝傍山を望む

日本書紀(上)全現代語訳(宇治谷孟 講談社学術文庫)から引用します。

(神武天皇の言葉)「東征についてから六年になった。天神の勢威のお蔭で凶徒は殺された。しかし周辺の地はまだ治まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内州うちつくに(大和盆地)の地は騒ぐものもいない。皇都みやこをひらきひろめて御殿を造ろうと思う。いまの世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開のならわしが変わらずにある。そもそも大人ひじり(聖人)がのりを立てて道理が正しく行われ、人民の利益となるならば、どんなことでもひじりの行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで尊い位につき、人民を安んずべきである。上は天神の国をお授け下さった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。」とありまして、

つづいて「その後国中を一つにして都を開き、天の下(八紘)をおおいて家とすることは、また良いことではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中もなかである。ここに都を造るべし」。

八紘あめのしたおおいていえなさん 

建国の理念「八紘為宇」です。

 先の戦争で「八紘為宇はっこういう」を元にしてつくられた造語「八紘一宇はっこういちう」が戦争スローガンに使われたものですから、戦後は一緒くたにタブー視されています。でも先入観無しに考えてみて下さい。明治や昭和の時代じゃないですよ。少なくても『日本書紀』完成の720年以前に考えられたもの。神武天皇が(或いは『日本書紀』編纂者が)、建国の際に理念として記した「八紘為宇」という言葉は何ら忌むべき言葉ではありません。むしろ人民のことも考えた良い理念だと思います。



日本の国はいつ出来た?

突然ですが、あなたは「日本の国はいつ出来たの?」と質問されたらどう答えますか?

① 神武天皇が橿原宮で即位した紀元前660年2月11日。今から2684年前と答える。

② 『大宝律令』で日本国という国号が正式に定められた701年。今から1323年前と答える。

③ 戦後「建国記念日」制定をめぐり国会で議論がありました。当時の日本社会党が主張した「日本国憲法が施行された1947年5月3日」。今から77年前。或いは、公明党が(創価学会会長池田大作が)提案した「サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日」今から72年前。或いは、民社党が主張した「聖徳太子が十七条憲法を制定した604年4月3日」今から1420年前と答える。

④ その他

皆さんはどうでしょう。


 私は④です。まず大東亜戦争の敗戦で主権を失ったから戦前の日本と、戦後の日本を区別するという考えには反対です(けれど、そういう考えの人が思うような国になっていってるなぁと思うことがあります)。では①かと言うとそうでもありません。これまでの記事でも何度か書いていますが、紀元前660年には同意しかねるからです。

 戦後の歴史学界では「神武天皇は歴史では無く神話」とされます。なぜ歴史ではなく神話なのか? それは実在が確認できないからです。戦後の歴史学界は「歴史」と「神話」を区別して考え、実在が確認できないものは「神話」と定義します。で、そのことで科学的だと主張します。そして本来は「確認できない」という意味であった神話の定義も、いつしか神武天皇は「実在しない」「架空」「つくりばなし」という表現に変ってきました(第2代以降、欠史八代も同じです)。

 私は「実在が確認できていない」には同意ですけど、「実在しない」「架空」と断定するなら、その根拠を教えてほしいものです。ただし、在位年数や寿命が異常に長いなどという理由を元に「・・であろう」というような結論ではダメです。もっと科学的に証明してください。

 即位年の紀元前660年の『日本書紀』の記述。これは私も辛酉かのととりの年に天命があらたまるという中国の辛酉革命しんゆうかくめい思想と付合させたものだと思います。

 しかし、それから欠史八代をあわせて9代の天皇で560余年が記されます。異常な長さからこれを根拠に架空だとする説がありますが、もし私が『日本書紀』の編纂者だったら、そんな誰彼に突っ込まれるようなことは書きません。「対中華の手前、建国を辛酉年に引き延ばしはしたが、2〜9代の天皇の事績をあえて書いていないだろう。それくらいわからないのか?」と言われている気がします。初期天皇の年数は春秋年を使っていると思いますが、それぞれの事績の完璧な年代は多分編纂者もわからなかったと思います。だからあえて2〜8代天皇の事績は書かずに引き伸ばし分を調整しようとしたのだと思います。もし創作ならもっとうまく書きますよ。まぁ、科学的な学者さんにはこういう話しは通じないでしょうけどね。

神話を無視しては語れないほど日本の歴史は古いのです。

 私は、もし人に「日本の国はいつ出来たの?」と尋ねられたら、「一応初代神武天皇が即位したのは紀元前660年とされているんだけど、第10〜12代崇神すじん垂仁すいにん景行けいこう天皇の宮があった纏向まきむく遺跡(奈良県桜井市)からいろんな事がわかってきて、逆算して考えると、神武じんむ天皇は紀元前後くらいの出来事だったと思うんだ。その後2〜9代の天皇が奈良国中や周辺地域を平定していって、第10代崇神天皇から積極的に国土統一に向けて歩み始めた。日本固有の前方後円墳という墓が全国に築かれていくので、それらと照らし合わせて考えると、だいたい4世紀には大和政権が国土を統一(※)したんじゃないかと考える。古すぎて正確な建国年はわからないけど、神話の時代から二千年。少なくても千数百年、今に至るまでずっと日本という国は続いているんだよと答えます。

※北海道、東北北中部、九州南部以南を除く。


はつくにしらす天皇

二人の天皇が和風諡号で「ハツクニシラス天皇」と記されています。

初代   神武天皇が始馭天下之天皇 
第10代  崇神天皇が御肇国天皇

どちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読むそうです・・・・。「しらす」とは統治するという意味で、初めて国を統治した天皇という意味。初めて国を統治した天皇が二人いるのはおかしい。第2〜9代天皇の事績が書かれていないのも、本当は崇神天皇=神武天皇で、東征も崇神天皇の話しだ。『日本書紀』の隠された暗号だと。陰謀論好きなのはわかりますが、そんなわけはありません。

 また、『日本書紀』や『古事記』に記されることを一切無視して、わずか二千文字程度の通称魏志倭人伝から、纏向まきむくが邪馬台国で、箸墓はしはか古墳が卑弥呼ひみこの墓で、大和王権のルーツと主張する人がいます。崇神天皇東遷説も纏向邪馬台国説も、纏向遺跡から出土する九州の遺物をご存知ないのでしょうか?どうしてそのような主張ができるのか私には不思議でしょうがないです(将来違った遺物が出土すれば別ですが)。

興味ある方は下記記事の後半、纏向遺跡の記述をご覧ください。


ついでだから、

天明混一図 中国明代の地図 1389?年
混一疆理歴代国都之図こんいつきょうりれきだいこくとのず1402年 李氏朝鮮

14〜15世紀でもこれですからね。『魏志倭人伝』の「水行◯日、陸行◯日」を、今の日本地図に当てはめて「邪馬台国はここだ!」なんて言っても意味の無いことがわかりますでしょ? 


 

畝傍山北東陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎ(神武天皇陵)

ある学者さんの記事を引用させていただきます。

「王政復古の大号令」(1867)に記された「神武創業(初代天皇に基づくの意)」を現実化するためには神武天皇の墓が必要だとして、天皇陵探しの末、畝傍山の麓に神武天皇陵が築かれた。

間違いではありません。ですが、知らない人がこれを読むと、「王政復古の大号令」で初めて築かれたように錯覚しかねません。

 神武天皇陵は、『記紀』に記され、天武・持統朝には陵墓祭祀も成立していたと考えられます。また、平安時代になると「荷前のさき」と呼ばれる諸陵墓への奉献が行われるようになります(近陵遠陵区分)。そして、延喜式の 『諸陵式』には、 神武天皇陵は、畝傍山東北陵 兆域東西一町南北二町 守戸しゅこ 五烟ごえん 遠陵 と記されます。

延喜式の度量衡では一町は約107mなので、兆域ちょういき(墓地、墓域)107m×214m。守戸しゅことは、天皇陵の守護、清掃管理に従事した御陵番。それが5軒あったということです。

 神武天皇陵に限らずですが、武家の台頭で天皇を中心とした律令制の国家体制が崩れ、動乱の中で祭祀も断絶。いつしか守戸も離散し中世には墓の荒廃が進み所在知れずになったものも多いです。

江戸時代に入って、「元禄の修陵」「安政の修陵」「文久の修陵」が行われました。幕末「文久の修陵」では世相を反映して始祖陵の神武天皇陵には15062両もの大金が投じられ修陵されたと記録されます。

Before

 文久山稜図には荒蕪図(Before)と成功図(After)があって、劇的に改造された姿が描かれます。では、後世に改造され、原初の場所や姿ではないかもしれない今の御陵をどのように考えるのか?

 御霊みたまは墓の中にとどまっているわけではありません。鎌倉幕府第三代執権 北条泰時が制定した『御成敗式目ごせいばいしきもく』には、「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」という有名な文言があります。御陵がどこであれ、どんな姿であれ、それが問題なのではなく、人々が敬うかどうかなのです。

 皇室は、主要な儀式の際は必ず神武天皇山陵へ勅使を発遣し、幣物を供え、また自ら参拝されます。

御陵印


 奈良・平安時代に確立された天皇を中心とする律令制がくずれ、一部の御陵なども失われましたが、時々の為政者達は(結果的に)みな最後の一線だけは超えませんでした。最後の一線とは天皇を廃して自らが王位につくことです。将来もし皇統が断絶するようなことがあれば、それは日本という国の終わりを意味し、今のままだといずれそんな日が来るのではないかと危惧しています。


 さて、「神武東征の旅」を20回にわたってお伝えしてきましたが、一応今回でお終いとさせていただきます。お付き合いありがとうございました。次回からは引き続き「欠史八代」ゆかりの地を訪ねていきますのでまたよろしくお願いします!

 

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