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物部氏の伝承地を訪ねる⑩ 石見一宮 物部神社

 シリーズで投稿しています「ニギハヤヒの伝承地を訪ねる」ですが、最近は饒速日命だけでなく、話しが物部氏全般に及んでいるので、タイトルを「物部氏の伝承地を訪ねる」に変更しました。引き続きよろしくお願いします。

  今回は島根県大田市の物部もののべ神社を訪れました。石上いそのかみ神宮彌彦やひこ神社と共に、宮中以外でも鎮魂祭みたましずめのまつりを行う神社です。鎮魂祭は、宮中で新嘗祭にいなめさいの前日に天皇の鎮魂を行う儀式で、神武天皇御即位のとき宇摩志麻遅命うましまじのみこと韴霊剣ふつのみたまのつるぎ十種神宝とくさのかんだからを奉斎して天皇のために鎮魂を祈ったのが起源とされます。

【参考】
物部神社  物部と猿女の鎮魂法
石上神宮  物部の鎮魂法
彌彦神社  中臣の鎮魂法

社名標と大鳥居
大鳥居・境内
手前から、狛犬、狛鶴、(右)手水舎、(奥左)社務所、(中央)拝殿と本殿
ご祭神 宇摩志麻遅命が鶴に乗って鶴降山に降りられたという神社伝承から
 狛犬ならぬ狛鶴が置かれています
禊石みそぎいし。こちらにも狛鶴
狛鶴、神使も鶴。神紋も真っ赤な太陽を背負った「ひおい(日負)鶴」
拝殿 主祭神 宇摩志麻遅命 右相殿 饒速日命 布都霊神 左相殿 天御中主大神 天照皇大神 客神 別天津神 鎮魂八神
本殿 春日造としては日本一の規模だそうです
 願叶 勝石(折居田の腰掛岩)
御神陵
宇摩志麻遅命の陵とされる円墳


なぜ鶴なの?  

|布御魂《ふのみたま》
|布御魂 《ふのみたま》或いは「振」  「」と「」 

じゃないかな?と想像してみました😅


物部神社 社伝

御祭神 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命(みかしきやひめみのみこと)を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣 韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。

次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)

物部神社HPより


先代旧事本紀せんだいくじほんぎ

天孫(神武天皇)は、宇摩志麻治命うましまじのみことに仰せになった。
「長髄彦は剛直で、誤った方向へ進んだまま、正しい道へ戻ることはなかった。兵の勢いは勇猛で、敵として戦えば勝つ事は難しかった。それなのに伯父の反逆にのらず、軍を率いて帰順してくれたので、わが軍は勝利する事ができた。私はその忠節をうれしく思う」

天孫(神武天皇)は宇摩志麻治命を特別に寵愛なされ、霊験あらたかな神剣を授けて大きな勲功に応えた。
この神剣は、「韴霊ふつのみたま」、またの名は布都主ふつぬし神魂かむたまの刀、または佐士布都さしふつ、または建布都たけふつ、または豊布都とよふつの神というのがこれである。

また、宇摩志麻治命は、天神の先祖が饒速日尊にお授けになった天璽あまつしるし瑞宝みずのたから十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれてさらに寵愛された。

さらに宇摩志麻治命は、天物部あめのもののべ(饒速日命と共に天下った二十五部の物部)を率いて荒ぶる逆賊を斬り従え、さらに軍を率いて国内を平定して復命した。

『先代旧事本紀』天孫本紀 現代語訳 抜粋
 


 「天物部あめのもののべを率いて荒ぶる逆賊を斬り従え、さらに軍を率いて国内を平定した」という『先代旧事本紀』の記述をベースに社伝・由緒がつくられたのでしょうか?


鍵を握るのは物部竹子連もののべのたけこのむらじ


 「物部」を社名に冠する神社の分布が、当社の他に、新潟県に五社、岐阜県三社、山梨県二社、富山・愛知・三重・埼玉・京都・大分・佐賀にあります。中でも宇摩志麻遅命を主祭神とする社が、新潟・富山・岐阜・愛知・三重・京都に分布するので、「天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、さらに播磨・丹波を経て石見国に入り・・」という石見一宮物部神社の社伝と大きな齟齬はなく、社伝は単なる述作ではなさそうです。

 なぜ物部神社がこの地にあるかについては、社伝によれば、宇摩志麻遅命の子孫がこの地に定着し、景行天皇の御代には、物部竹子連が石見国造に定められた云々とありますが、


  異なる説もあります。

 『先代旧事本紀』に記す系譜は、

大綜麻杵命おおへそきのみこと欝色謎命うつしこめのみことと兄弟)―伊香色雄命いかがしこおのみこと物部十千根大連もののべのとおちねのおおむらじ物部胆咋宿禰もののべのいくいのすくね物部竹古(子)連もののべのたけこのむらじ

 『日本書紀』には、出雲の神宝の故事が崇神天皇と垂仁天皇の巻に記されます。垂仁天皇の巻では、物部十千根が「出雲の神宝を検校して、委細を奏上した。そこで十千根大連とおちねのおおむらじに神宝を(石上神宮で)つかさどらしめた」と記されます(崇神天皇の巻では伊香色雄の孫 物部武諸隅もののべのたけもろすみになっていますが系譜がはっきりしません)。

 神宝をもって行かれたということは、出雲が大和に服属したことを意味するものと考えられます(『古事記』はこの件記載なし。かわりに景行天皇の段で倭建命やまとたけるのみこと出雲建いずもたける 征討が記されます)。

 この一件のあと、出雲勢力を監視・牽制するために、出雲国の西、石見国に大和から物部竹子連が派遣されたのではないかという説です。


別の視点からも考えてみましょう。


纏向遺跡から出土する外来土器


 『記紀』に、垂仁すいにん天皇(纏向珠城宮まきむくたまきのみや)と景行けいこう天皇(纏向日代宮まきむくひしろのみや)の宮があったと記される奈良県桜井市の纏向遺跡まきむくいせきから出土する外来土器の分布を見てみます。外来土器は、どの地方から、どれくらいの人の往来があったのかを知る手がかりになります。

 出土する外来土器は全体のおおよそ15%で、その内半数が尾張・美濃・東海のものです。次いで北陸・山陰・近江で20%吉備・瀬戸内が15%程河内・紀伊等大和周辺からが10%。関東が5% これで100%になりますが、九州もごくわずか(かけらが数点)あります。

 纒向遺跡で出土する遺物は、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇の時代における大和の勢力範囲を知る一つの手がかりだと私は思っています。北陸〜山陰地方もすでにこの時代には大和政権に服属していたかも知れません。

 『記紀』は、宇摩志麻遅命と天香語山命ではなく、崇神天皇の御代に、四道将軍として派遣された大彦命おおひこのみことが北陸道を平定したと記します。大彦命は第八代孝元こうげん天皇の第一皇子ですが、母は物部氏の 欝色謎命うつしこめのみことです。


四道将軍

『日本書紀』が記す第10代 崇神天皇の御代に各地に派遣された皇族の将軍。東海道へ武淳川別命たけぬなかわわけのみこと(大彦命の子)、山陽道へ吉備津彦命きびつひこのみこと(別名 彦五十狭芹彦命ひこいさせりのみこと  第7代孝霊天皇の皇子)、丹波国へ丹波道主命たにはのみちぬしのみこと (第9代開化天皇の孫  父は彦坐王ひこいますのみこ)、そして北陸道へ大彦命おおひこのみことが派遣されたと記されます。

wikiより拝借

纏向遺跡から出土する外来土器はまさに四道将軍の足跡を示すと言っても過言ではありません。

東海道と北陸道 (日本武尊尊の時に信州も)
 福島県の会津(相津)の地名は、諸国平定を終えた東海道の武淳川別命と、その父で北陸道を平定した大彦命が合流したことに由来すると伝わります。景行天皇の御代、日本武尊尊が再び東征に向かい、東海・関東一円から帰路には信州をまわって平定します。

近江と美濃から丹波へ
 この地図では空白になっていますが、丹波道主命の父、彦坐王は滋賀北部(福井県の一部も)・岐阜にすでに地盤を築いていたものと思います。多くの伝承地が残ります。彦坐王、丹波道主命の系統は、後に神功皇后へとつながっていきます。

摂津・河内・紀伊はすでに

 空白部分で言うと、大阪・和歌山に関しては、古い時代から交流があります(各地の弥生遺跡から出土する遺物、銅鐸などで知ることができます)

九州は
景行天皇・日本武尊命、そして仲哀天皇・神功皇后の時代に平定されます。そして神功皇后の時代には朝鮮半島にも進出します。

東北と四国
東北は蝦夷と呼ばれ平定はまだ先になります。あと、四国も記述が少ないんですね。また別の機会にふれます。


話しを戻します。

大彦命


『先代旧事本紀』に記す系譜は、

饒速日命にぎはやひのみこと宇摩志麻治命うましまじのみこと彦湯支命ひこゆきのみこと出石心大臣命いずしこころのおおみのみこと大矢口宿禰命おおやくちのすくねのみこと欝色謎命うつしこめのみこと(孝元天皇の皇后)大彦命おおひこのみこと

 ※大彦命は孝元天皇の皇子で、阿部(安倍)氏ら皇別に分類される氏族の祖となります。母方では物部氏に繋がることを説明するために、物部氏の系譜に母 欝色謎命と共に記しました。


 物部神社社伝の宇摩志麻遅命が平定したとする地域と、宇摩志麻遅命を祀る物部神社を冠する神社の分布は、『日本書紀』の記述で考えると、四道将軍の大彦命と丹波道主命たにはのみちぬしのみこと(父彦坐王ひこいますのみこの支配地を含む)、そして出雲の神宝の段にみえる物部十千根大連もののべのとおちねのおおむらじの記述などが該当するように思います。

 物部神社の社伝から話しが飛躍してしまいましたが、大和政権が国土平定していく過程が垣間見えるようで興味深い時代です。この頃には全国各地に前方後円墳が築かれていきますので、そうしたこともあわせて「いっしょに記紀を旅しよう」シリーズでお伝えできればなと思っています(現在まだ神武天皇の話しですので、もう少し先になりますが)。




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