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ニギハヤヒの伝承地を訪ねる⑧ 石上神宮

 前回、物部氏の総氏神と言われる石上神宮いそのかみじんぐうに祖神 饒速日命にぎはやひのみことが祀られていないと書きました。今回はなぜ饒速日命が祀られていないのかを考えてみようと思います。


 ご祭神ですが、石上神宮にしか祀られていない神様 布都御魂大神ふつみたまのおおかみ布留御魂大神ふるみたまのおおかみ。「つ」と「る」一字違うだけでややこしいですけど、意味を知るとを納得できると思います。

第10代 崇神天皇の御代、伊香色雄命いかがしこおのみこと布都大神ふつのおおかみ大倭国山辺郡石上邑やまとのくにやまのべのこおりのいそのかみむらに遷してお建になった。天津神の祖先が饒速日尊にぎはやひのみことに授けられた天璽あまつしるし十種瑞宝とくさのみづのたからを共に納めて石上大神いそのかみのおおかみと申し上げた。これをもって、国家の氏神として崇め祀り鎮めとした。

先代旧事本紀 天孫本紀


布都御魂大神ふつみたまのおおかみ

 〝記紀〟神話の国譲りの段で 武甕雷神たけみかずちのかみ(古事記は建御雷神)と経津主神ふつぬしのかみ葦原中国あしはらのなかつくに(日本の国土)を平定する時に用い、また、神武天皇東征の折には再び天から降り、熊野で皇軍の危機を救った剣です。神武天皇即位後は饒速日命の御子 可美真手命うましまでのみこと(古事記は宇摩志麻遅命うましまじのみこと)により宮中で祀られていましたが、崇神天皇すじんてんのうの御代に、石上いそのかみに移されました。

  韴霊剣そうれいけんとも言います。「韴」は〝ふつ〟とも読みます。ものを断つ。絶える。という意味です。

 石上神宮は、伊香色雄命いかがしこおのみことが宮中に祀られていた布都大神ふつのおおかみを石上に遷したことに始まりますが、物部氏の氏神を祀る社として建てたのではなく、本来は布都御魂を祀る祭祀の場、朝廷の武器庫という性質のものでした。

  そのことは『日本書紀』第11代垂仁天皇すいにんてんのうの巻に記されています。垂仁天皇の御代に物部十千根大連もののべのとおちねのおおむらじが治めることになり、それ以来次第に物部氏(後に石上氏)の氏神を祀る社という色合いが濃くなっていきますが、創建の由来から国土平定に功績のあった韴霊剣そうれいけん 布都御魂大神がまず主祭神として祀られるわけですね。

経津主神ふつぬしのかみは香取神宮に祀られ、春日神の一柱でもありますが、元々は物部氏の神であったもので、布都御魂と同神とする説もあります。

※石上神宮には百済から送られた「七支刀しちしとう」という剣が伝わります。朝廷の武器庫であったのでこちらに納められていたものです。たまに混同している文章をみかけますが、布都御魂とは別の剣です。


布留御魂大神ふるみたまのおおかみ

 
こちらは上記『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』から考えると、天璽あまつしるし十種瑞宝とくさのみづのたからのことになりますが、別の文献の記述から考察を加えると、

 石上神宮は、代々の天皇が武器を納める武器庫であったことはすでに述べました。『日本書紀』(720年奏上)に「神宮」と記すのは伊勢と石上の2社しかありません。往古、国家にとって大変重要な社であったと思われます。

 『日本後紀』には、桓武天皇かんむてんのうの御代に(804年)、(平安京へ遷都して)石上神宮の兵仗へいじょう(武器)を都の近く山城国葛野郡に移す時、人員延べ157,000人余りを要した。移動後に新しい倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、今度は桓武天皇が病気になるなど怪奇が次々と起こった。

 石上神宮に使者を派遣し女巫じょふに命じて鎮魂させたところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の高僧を集めて読経し、神宝を元に戻したと記されます。

 注目すべきは、このとき女巫が鎮魂した石上の神は布都御魂ではなく、布留御魂と記されることです。

 女巫じょふ憑依ひょういして一晩中怒り狂った布留御魂大神とは天璽あまつしるし十種瑞宝とくさのみづのたからのことだったのでしょうか?


私は饒速日命の御魂だったと考えています。

 
 石上神宮は、饒速日命は布留の高庭(現在社地)に遷し鎮められたとします(↓神社HP参照)。


 つまり、布留御魂大神ふるのみたまのおおかみ」とは、 天璽あまつしるし十種瑞宝とくさのみづのたからと、それを授かって天降った 饒速日命の御魂を一体化した神だと思います。

 軍事と祭祀二つの顔を持つ物部氏。「布都御魂」が「武」をあらわすものならば、「布留御魂」は石上氏(物部氏)のヒストリー、アイデンティティ、スピリチュアルパワーなどを一身にあらわす祖神だと言えます。


「布留」とは「振る」という意味で、詳しくは下記引用をご覧ください。

※石上神宮などの文章を引用していますが、「布留御魂大神が天璽十種瑞宝と饒速日命を一体化した神」であるというのは、あくまで私の考えであって、石上神宮の見解ではありませんのでご注意ください。

天璽あまつしるし十種瑞宝とくさのみづのたから

饒速日命にぎはやひのみことが、高天原より天降られる時、天津神から「天璽十種瑞宝あまつしるしとくさのみづのたから」を授けられました。この時「もし痛むところあれば、この十種瑞宝とくさのみづのたからを、一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)と言って振りなさい。ゆらゆらと振りなさい。そうすればまかりし人も生きかえらん」とお教えになりました。この天璽十種瑞宝は「十種神宝とくさのかんだから」とも称えられる、十種類の神宝です。「瀛津鏡おきつかがみ辺津鏡へつかがみ八握剣やつかのつるぎ生玉いくたま足玉たるたま死返玉まかるがへしのたま道返玉ちがへしのたま蛇比礼へみのひれ蜂比礼はちのひれ品物比礼くさぐさのもののひれ」の十種で、「亡くなられた人をも蘇らす」霊力を秘めています。

石上神宮HPより


拝殿
放し飼いされている神使しんしの鶏 伊勢の神宮も鶏ですね


写真を撮る手も振るえる布瑠部の御鈴守☺


 『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』記載の、石上(物部)氏の同系氏族は約100氏族におよびます。それら氏族が誰を祖神としているかというと、半数は伊香色雄命いかがしこおのみことです。続いて饒速日命、宇摩志麻遅命、物部十千根と続きます。直系の 石上朝臣いそのかみあそんは饒速日命です。

 傾向からすると、物部氏は様々な生産技術集団 伴造とものみやつこを統轄していましたので、本来血縁が薄い(無い)伴造氏族でも物部を称するようになっていったと考えられます。そうした氏族が伊香色雄命を祖としているケースが多いようにも見てとれます(伊香色雄命いかがしこおのみことの直系氏族を除く)。

 なぜ伊香色雄命なのか?  崇神天皇の御代に氏族がそれぞれの祖神を祀るようになって、その時に初めて石上大神を祀った人物だからだと思います。

氏族が祖神を祀るきっかけとなった出来事は↓


 せっかくですので次回は伊香色雄命《いかがしこおのみこと》をもう少し掘り下げてみたいと思います。

その次は、『新撰姓氏録』で祖神とする氏族が少ないにもかかわらず、全国にある物部神社を冠する神社の多くが主祭神として祀る宇摩志麻遅命に迫ってみたいと思います。




 



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