オススメの社寺④ わが国最古の神社 大神神社
今回は、わが国最古の神社 大神神社です。
第10代崇神天皇の御代、疫病が流行し人民の半数以上が死んで世の中が乱れました。その時に天皇の夢に現れた神が「私の子(子孫) 大田田根子に私を祀らせれば、たちどころに平穏になる」と仰せられ、茅渟県の陶邑(大阪府堺市)で大田田根子(三輪君の始祖)を見つけだし、大物主神を祭る祭主とした」と日本書紀は記します。
※ 『古事記』は「意富多々泥古」 『大神神社』では「大直禰子」 いずれも読み方は〝おおたたねこ〟
崇神天皇7年11月の事です。
続けて「八十万の神々を祭り、天社・国社および神地・神戸を定めた。こうして疫病は収まり、国内は静まって、五穀は良く稔り百姓は賑わった」と記します。
縄文時代から、神籬・磐座・神南備といった神の依り代で祭祀が行われていますが、大物主神と大田田根子の逸話は、そうした自然神に加えて、氏族それぞれの祖神を特定の場所で祭りはじめた(神社の)起源を表すものだとも言えます。
それはいつの時代だったのでしょう。神武天皇橿原宮即位紀元前660年から追った年代では紀元前91年の事になりますが、私は年代に関しては、纏向遺跡、箸墓古墳などある程度正確な年代がわかっているので、それらに『日本書紀』の崇神天皇、倭迹迹日百襲姫の記述を重ね合わせると、だいたい西暦250年頃の話しだと考えています。
卑弥呼と年代があうため、先日放送されたNHKのスペシャル番組では箸墓古墳が卑弥呼の墓、纏向遺跡が邪馬台国だとミスリードしていましたが、この事には、私は後日真っ向から反論したいと思います(笑)。
大神神社の紹介と言うより歴史の話しになってしまいました(^_^;)
中世には神仏習合の色濃く、「三輪明神」が継承され、真言密教の理論で日本の神と仏の関係を位置づけた両部神道の一派 三輪神道が形成されました。天照大神・三輪大明神・大日如来は一体であると唱え、能楽『三輪』では、「思へば伊勢と三輪の神、思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事」とも謡われます。
(信仰の真理と歴史の真理は、時に相容れないことがあります。各自の解釈でお願いします)。
大神神社の特徴は神様を祀る本殿が無く、三輪山そのものが御神体である事です。明治時代はじめには神仏分離によって現在の大神神社となりました。最初に人々が大物主神を祭った時から、神仏混淆の時代を経て、そして今に至るまで、ご神体の『三輪山』は往古の姿をとどめています。
奈良で歴史の事を考えて山々を眺める時、昔の人と同じ景色をいま自分も見てるんだなーと感じることがあります。
三輪山は笠置山地に属し鮮新世(約500〜250万年前)に形成された山です。心の中で山と対話すると「なに?2000年前の事が知りたいだと?ついこの間の事じゃないか」と言われたような気になります。人間の歴史なんてね、そんなもんです(笑)。
摂社 狭井神社
正式には狭井坐大神荒魂神社 本社の荒魂を祀ります。垂仁天皇の御代に創祀された延喜式内社。
摂社 活日神社
祭神は杜氏の神様 高橋活日命 崇神天皇の御代、大物主命(おおものぬしのみこと)の神託により一夜のうちに上質の神酒を造り上げたと日本書紀は記します。
摂社 若宮社(若宮さん)
明治以前は大神神社の神宮寺 大御輪寺。大直禰子命はこちらに祀られています。
摂社 神御前神社
茅原集落に三輪山を背景に鎮座しています。ご祭神は大物主神の后となられた倭迹迹日百襲姫命。
摂社末社はまだありますが今回はこの辺で。桧原神社や率川神社は別の記事で書きたいと思います。
ついでに箸墓古墳
奥に見えるのが三輪山です。池(箸中大池)の水が抜かれているときの写真。上空に見えますのは三輪山へ帰っていく大物主神(白蛇は大物主の化身)です(笑)
また、大和には大神神社が蛇の頭で、長尾神社が蛇の尾っぽという伝承があります。箸墓古墳のあと長尾神社に向かった時に見た雲が↓
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