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古墳を訪ねる① 最古級の前方後円墳 ホケノ山古墳

 橿原考古学研究所付属博物館へ行ってきました。ホケノ山古墳の特別展やってます。

フライヤー
裏面
纒向まきむく古墳群
全長:後円部経:前方部長が3:2:1で、高い後円部に低い前方部が取り付く「纒向まきむく型前方後円墳」
桜井市資料より
後円部と周濠状の溝 
前方部から
 墳頂部から西を望む。画像左 箸墓はしはか古墳
箸墓古墳の向こうには大和三山の一つ耳成山みみなしやまも見えます。
東は三輪山 地元伝承で、ホケノ山は豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことの墓とする説があるようです
橿考研博物館展示資料 纒向遺跡

出土品

  (展示品の画像掲載はやめておきます。フライヤー裏面を参照下さい)

土器 
壺形土器と小型丸底土器。東海地方の特徴を有する。

武器
刀・剣・槍・銅鏃どうぞく鉄鏃てつぞく素環頭大刀そかんとうたち(中国製か)

農工具
|
鉋《やりがんな》、のみ、「へ」の字形鉄製品、さん形鉄製品(中国製か)


画文帯同向式神獣鏡がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう
(完形)、画文帯四乳求心式しにゅうきゅうしき神獣鏡 (破砕)、内行花文鏡ないこうかもんきょう(破砕) の3面


 弥生時代の要素、のちの古墳に引き継がれる要素が入り交じっているのが特徴です。そして中国鏡や武器。この中国鏡や武器が纏向遺跡から出土することについて考えていきましょう。


銅鐸どうたくについて

 
銅鐸は紀元前2世紀から2世紀にかけて作られました。青銅製の鋳物です。大和の主要な弥生遺跡からいずれも出土します。青銅は銅とすずの合金で、それに少量のなまりが含まれます。鉛は比重の異なる4つの同位体からなっていて、これにより原産地を推定することができます。

 それによると、弥生中期のものは朝鮮半島の鉛を使っていて、後期になると中国華北産の鉛が用いられるようになります。国内でも鉛は採掘されますが、それは奈良時代以降なので、弥生〜古墳時代は輸入に頼っていたと考えられます。

 北部九州でも銅鐸や青銅製の武器は鋳造されますが、北部九州では終始石の鋳型を使用して製造されていたのに対し、近畿では後期に入ると土の鋳型が用いられるようになります。朝鮮半島産から中国華北産の鉛へ。そして石の鋳型から土の鋳型へ。これらのことによって、畿内では後期に巨大な銅鐸が作られるようになりました。

 ここで押さえておきたいのは、中国華北産の鉛が使われているという事は、弥生後期には中国との交易があったことを示します。しかも青銅製品の作り方が変わったということは、あるいは北部九州を介さず中国との独自の交易ルートを持っていたかも知れないことです。

鉄について

 
大和政権の成立に深く関わると考えられるのがです。名前はよく知られている「たたら製鉄」。ふいごを使って砂鉄や鉄鉱石を還元して鉄を生産する方法ですが、始まった時期は5〜6世紀と考えられています。では、それまではというと、鉄もやはり輸入に頼っていたようです。鉄鉱石を船で運ぶわけではありません。鉄鋌てつていという短冊形の板にして運んでいたようです。

 鉄鋌ていてつを鍛冶工房で加工して武器や農工具を作っていたわけですね。奈良盆地ではすでに脇本遺跡で鉄鏃てつぞく(やじり)など小型のものが作られていましたが、纏向では刀剣などの大型のものも作られるようになったようです。

鉄鋌てつてい画像 文化遺産オンラインより

 そうした様子は『魏志』「烏丸うがん鮮卑せんぴ東夷伝とういでん」の「倭人条(通称 魏志倭人伝)」ではなく・・「辰韓条」に、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな従ってこれを取っている。諸の市買いではみな、中国が銭を用いるように鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している」と記されます。

 この当時の朝鮮半島との主な交易ルートは、博多湾ー壱岐ー対馬ー釜山を結ぶルートでした。この事は対馬や朝鮮半島南部から出土する倭土器等で知ることができます。

 ちなみに楽浪・帯方郡が滅びたと時を同じくして一大交易拠点であった博多湾の西新町遺跡は急速に衰えます。そして代わって登場したのが、宗像むなかた・沖ノ島ルートです。以来、朝鮮半島側の遺跡からは畿内の遺物が出土するようになります。つまり北部九州の盟主に代わって大和政権が交易の利権を手にしたということです。

話しを戻します。


纏向まきむくと地方の交流

出土する外来土器によって、どこの地域と人的交流があったのかがわかります。纏向遺跡から出土する土器は、全体の約15%が外来土器です。半数が尾張・美濃・東海。次いで北陸・山陰・近江で20%。吉備・瀬戸内が15%程。河内・紀伊等大和周辺からが10%。関東が5% 。九州や朝鮮半島由来のものはかけらが数点です。つまり纏向遺跡では北部九州との直接的な交流はなかったといっても過言ではありません。

 『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝うがんせんぴとういでん」の倭人条(魏志倭人伝)には、

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

とあって、「伊都国は女王国に統属し、(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である」と記されます。女王国の国際的な玄関口・副都とも言える場所ですから、纏向がその女王国なら、当然伊都国と活発な人の往来があってしかるべきだと思いませんか? なぜ纏向から北部九州や朝鮮半島の土器は出ないのでしょう?

 ちなみに『旧唐書くとうじょ』(945)に「日本國者、倭國之別種也」と書かれています。私には、日本国は(昔の中国史書に書かれている邪馬台国)とは別の倭人の国と読めるんですけど。邪馬台国が纏向で大和政権のルーツならこのような事は書きませんよね。

まとめ

 私は邪馬台国は纏向では無い、箸墓古墳も卑弥呼の墓ではないと考えています。学者さんの書いた書籍もいくつか読みましたが、だいたい都合の悪いところは避けてますよね。日本の国のルーツを邪馬台国にしたい人がたくさんいるようてす。なんででしょうね?

 そもそも纏向まきむくという地名も、箸墓古墳という名前も『日本書紀』に記されているものです。名前だけ使っておいて、あとの記述は全てスルーってどうよと思うわけです。

 古墳時代の幕開けは纏向から始まりました。始まりがホケノ山か箸墓かという定義はどうでも良くて、(学者さんのやらない)古墳と『記紀』の記述を照らし合わせて、いろいろ妄想していきたいと思います。


 

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