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淡路島。 御井の清水と五斗長垣内の鉄器工房

欠史八代 第四話  第三代 安寧あんねい天皇 前編

 記事を書くのが難しい欠史八代シリーズ。第三代安寧天皇についても事績が残っていません。そこで何を書こうかと考え、『古事記』を読み返してみると、なんということでしょう! 何度も読んできたはずなのに、今まで完全に見逃していた記述がありました!

・・と言うのは冗談で、以前からその記述は知っていましたが、どう解釈すればいいのか答えが見つからず、自分の中で放置していたのです。


淡道あはぢ御井宮みゐのみや

 『古事記』によると、安寧天皇の第三皇子である師木津日子命しきつひこのみことには二人のみこ(子供)がいました。一人は名前が記されておらず、ただ伊賀・名張・三野の稲置いなき(稲の収納を職務とする地方官)の祖先とだけ記されています。もう一人のみこである和知都美命わちつみのみこと淡道あはぢ御井宮みゐのみやにいると記されているのです(この記述は日本書紀にはありません)。

天皇以外「宮」と記されるのは非常に稀なことです

 冒頭申しあげたように、和知都美命わちつみのみことがなぜ〝淡道あはぢ御井宮みゐのみや〟にいたと記されるのかわかりません。でも、何事も自分の目で確かめたい性分しょうぶんなので、今回その「御井宮」と思われる場所を訪れてみました。

 そもそも淡道あはぢが淡路島かどうかという議論もありますが、仁徳天皇紀に、朝夕に淡路島の清水を汲み天皇の飲料水を運んだとされる「御井おいの清水」が淡路市佐野小井にあり、その「御井おいの清水」の場所が「淡道あはぢ御井宮みゐのみや」ではないかという説があるので、その場所へ向かいました。


御井おいの清水

場所は淡路島のこの辺りです。淡路市佐野小井
大阪湾を望む景色の良いところ
淡路島に熊はいないということで安心してたけど、猪はどこにもいるよね。人影無く何ヶ所も捕獲檻が仕掛けられている道を歩くのはやっぱりちょっとビビる💦
淡路山道。山を越えて島の西岸まで行けるみたい。
ありました御井の清水。麓の国道から歩いて30分ほど。ダラダラと登りが続きます。汗もダラダラ🥵
案内板
何かカラの容器をもってくればよかったとここで気づく。頭の中がすっかり御井宮で、名水の場所だということ忘れてた💦
たどり着き  タオル濡らして  汗を拭く  御井おいの清水で  老いを知る夏 と詠んでみたけど、GPT-4に同じシチュエーションで詠んでみてとチャットしたら、秒で「夕日さし 御井の清水に 影映し 移ろう時を 肌に感じて」ときた(¯―¯٥) 
説明書

 御井おいの清水を訪れましたが、現地では御井宮みゐのみやに関してこれと言って得るものはありませんでした。


『古事記』の当該部分を確認してみましょう。


一の子、和知都美命わちつみのみことは、淡道あはぢ御井宮みゐのみやいましき。かれの王、ふたはしらむすめいましき。の名は蠅伊呂泥はえいろねまたの名は意富夜麻登久邇阿礼比売おおやまとくにあれひめのみこと(『日本書紀』は倭国香媛やまとのくにかひめ)。の名は蠅伊呂杼はえいろどなり。

『古事記』



 和知都美命わちつみのみことには二人の娘がいて、どちらも第七代孝霊天皇の妃となりました。姉の名は蠅伊呂泥はえいろねで、別名 意富夜麻登久邇阿礼比売命おおやまとくにあれひめのみこと。『日本書紀』では倭国香媛やまとのくにかひめとされています。彼女は、知る人ぞ知る箸墓古墳に葬られた夜麻登登母母曽昆売やまととももそびめ(日本書紀では 倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめ) (卑弥呼だという人もいます)。そして、桃太郎のモデルといわれる比古伊佐勢理昆古命ひこいさせりびこのみこと(日本書紀では彦五十狭芹彦命ひこいさせりひこのみことまたの名を吉備津彦命きびつひこのみこと)の母です。妹の蠅伊呂杼はえいろども吉備臣の祖である若日子建吉備津日子命わかひこたけきびつひこのみこと(日本書紀稚武彦命わかたけひこのみこと)の母です。


つまり、卑弥呼の弟が桃太郎・・
いえいえ、そういう話しではなくて、、整理すると、


安寧天皇−師木津日子命しきつひこのみこと和知都美命わちつみのみこと蠅伊呂泥はえいろね蠅伊呂杼はえいろど倭迹迹日百襲媛命やまとととひももそひめのみこと(紀)・吉備津彦命きびつひこのみこと稚武彦命わかたけひこのみこと (紀)


「巫女」や「吉備」というキーワードが浮かびます。


 そして、「ハエイロネ」や「ハエイロド」という変わった名前ですが、「イロ」は同母姉妹という意味。同じ母親から生まれた姉妹を意味します。「ネ」は姉(兄)、「ト(ド)」は妹(弟)を指します。つまり、「ハエイロネ」は同母の姉ハエを、「ハエイロド」は同母の妹ハエを意味します。「ハエ」という名前については、初代神武天皇の皇后である 姉の媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことや、第二代綏靖天皇の皇后である妹の 五十鈴依媛命いすずよりひめのみことには、 天日方奇日方命あめのひかたくしひかたのみことという兄弟がいました。この天日方奇日方命の子が波延はえ(葉江) またの名を鴨王かものきみといいます(諸説あり)。その波延はえの娘の阿久斗比売あくとひめ(日本書紀は渟名底仲媛命ぬなそこなかつひめのみこと)が安寧天皇の皇后です。ハエ姉妹は波延はえ玄孫やしゃごということになります。


五斗長垣内ごっさかいと遺跡


 さて、この欠史八代シリーズの最初に「倭国大乱と欠史八代」というタイトルで記事を書きました。その中で、倭国大乱の戦乱を避け吉備や出雲から人や技術が入ってきて大和は急速に発展を遂げたのではないかと書きました。


 その考えにおいて、淡路島には大変興味深い遺跡があります。淡路島の西岸に、五斗長垣内ごっさかいと遺跡」という、1〜2世紀のあいだに100余年間続いた鉄器工房跡です。

御井の清水と直線距離では近いですが、山越えで歩くと3時間ほどかかりそうです。もし、五斗長垣内でつくった鉄器を大和へ運ぶなら、それでも山越えで島の東岸まで運んで、そこから船で運んだほうがよさそうです。大和へ運んだかどうかはわかりませんが。
淡路市黒谷五斗長地区 標高200mにある高地性集落 
淡路島は最近西海岸にオサレな店が出来て賑わっていますが、人混みが嫌いな人は、ここは人も少なくのどかで気持ち良い所ですよ!
海岸までは約3㌔ 瀬戸内海、対岸の姫路や岡山方面を見渡せます
弥生時代の生活体験があったらやってみたいかも。エアコン効いた部屋の中で本を読んでるだけでは古代のことはわからんもんね。
そうなの?
施設の解説ビデオを見ていると、現地説明会でどなたかが鉄の産地を質問していましたが、学芸員の方はわからないと答えていました。でもね、
パンフレットには書いてあるじゃないですか。それと、これ鉄斧ですか?鉄鋌てつていじゃないですか?
 「朝鮮半島から輸入する鉄は、短冊形の鉄鋌てつていというもので取引・輸送していたようです。 持ち帰った鉄鋌を鍛冶工房で加工して武器や農工具を作っていたと考えられます」と「倭国大乱と欠史八代」や「ホケノ山古墳」の記事で書きました。




 この鉄器工房は倭国大乱の時期に姿を消します。一体誰がどこから鉄素材を運び、なぜこの地域で鉄器(矢じりなどの武器やノミなどの工具。※農具は無し)を作ったのでしょうか? そしてなぜ倭国大乱の頃にこつ然と姿を消したのでしょうか?

 『古事記』や『日本書紀』で、淡路島が屯倉みやけ(直轄地)と記されるのは第十四代 仲哀ちゅうあい天皇の御代です。しかし、それ以前に第三代 安寧あんねい天皇の孫である和知都美命わちつみのみことが住んでいた場所を「」と表現し、娘の蠅伊呂泥はえいろね蠅伊呂杼はえいろどが、淡路島から第七代 孝霊こうれい天皇へ嫁いだ事を記す事に意味はあるのでしょうか?(古事記)

 蠅伊呂泥はえいろねの別名として 意富夜麻登久邇阿礼比売命おおやまとくにあれひめのみこと(『日本書紀』では倭国香媛やまとのくにかひめ)の名があり、「大倭国おおやまとのくにの高貴な姫」(「アレ」は高貴なという意味)と読み替えることができますが、これは意味があるのでしょうか?

 また、ハエという名前についてですが、波延はえ鴨王かものきみ)との関連から、これは大己貴神おおなむちのかみの直系一族を表しているのでしょうか? さらに、ハエ姉妹の子が吉備津彦きびつひこ稚武彦わかたけひこであることから、出雲と吉備の関係を示唆しているのでしょうか?

 「五斗長垣内ごっさかいと遺跡」は淡路島の西岸に位置し、その海の先には播磨・吉備国が見えますが、この遺跡は吉備と関連するのでしょうか?


 弟磯城おとしき、別名を黒速くろはや、またの名を天日方奇日方命あめのひかたくしひかたのみこと(諸説あり)は、神武東征の功績によって磯城県主しきのあがたぬしに任じられ、その子波延はえの子孫は初期天皇に連続して皇后を輩出した大己貴神おおなむちのかみ(大国主)の直系子孫の一族です。

 ところが、第十代崇神天皇の御代には、この一族の行方は知れなくなっていました。そこで、大物主神を祀るために天下に布告し、見つけだしたのが茅渟県ちぬのあがたにいた大田田根子おおたたねこです。探し出す際には倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめによって占われ、その後、倭迹迹日百襲媛やまとととひももそひめ大物主神おおものぬしのかみ 大己貴神おおなむちのかみ和魂にぎみたま)の妻となりました(日本書紀)。茅渟県陶邑ちぬのあがたすえむらは現在の大阪府堺市であり、茅渟県と淡路島は大阪湾を船で往来が可能です。


もう少し頭の中を整理して、孝霊天皇か崇神天皇の記事でこの謎解き、いえ私の妄想を、書いてみたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。


おまけ

遺跡を眺めながらランチ。

施設内にある カフェ「まるご」の五斗長ごっさ(日替わり)ランチ 880円 リーズナブルで、優しい味。ごちそうさまでした。



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