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忌部氏と天太玉命(フトダマ)の謎!神社伝承と文献で紐解く古代史

忌部氏の、忌部
みなさんは読めますか?
私は歴史に興味を持つまで読めませんでした。
それでは、こちらはどうでしょうか?
斎部
正解は「いんべ」
どちらも同じ読みで、「いんべ」です。
「いむべ」から「いんべ」へと変化したようです。
忌という単語から何か恐ろしい祟る氏族を思い浮かべてしまいます。
しかしもう一つの斎部の「斎」の文字と同じ意味をもつようです。
「忌」「斎」は、祭りを執り行うなど、神聖な仕事に従う者が、飲食や行動を慎み、心身を清めることを意味します。


忌部氏とは

今回は、古代の有力氏族「忌部氏」(いんべうじ)についてご紹介します。
古代の宮廷祭祀において、中臣氏とともに重要な役割を果たした氏族がありました。
中央に位置する忌部氏の本拠地は、現在の奈良県橿原市忌部町付近にあり、太玉命を祀る太玉命神社(今の天太玉命神社)がありました。

天太玉命神社

奈良県橿原市忌部町にある名神大社で旧社格は村社です。
フトダマは、忌部氏の祖神とされます。
鎮座地一帯は忌部氏の本拠地(本貫)と推測されています。
この神社には、太玉命のほかに、大宮売命(おおみやのめ)、豊石窓命(とよいわまと)、櫛石窓命(くしいわまと)の4柱の神々が祀られており、3神は古語拾遺や先代旧事本紀ではフトダマの御子と位置づけられています。

天太玉命神社
天太玉命神社

古代朝廷における祭祀を担う

祝詞によると、これらの神々は天皇の長寿と宮廷を守護する神々とされており、忌部氏は神主としてこれらの神々に供える幣帛を取り仕切っていました。
忌部氏は、おそらく5世紀後半から6世紀前半にかけてその地位を確立し、大嘗宮の神璽を捧げ持つ役割を担い、大殿祭(おおとのほかい)や御門祭(みかどのほかい)を主催しました。
また、諸国の忌部には、供神のための幣帛や祭具の製造を任せていたようです。
各地にある代表的な忌部をご紹介します。

紀伊忌部

紀伊忌部は、彦狭知命(ひこさしり)を祭神とし、名草郡御木・麁香(あらか)郷を拠点に、笠の製造や瑞殿の材木の切り出しなどを行っていました
紀伊忌部の本拠としたのが鳴神社です。
ただし、古語拾遺によると、紀伊忌部は天太玉命を祖とする忌部首の一族ではなく紀国造の一族であり、彦狭知命がその祖神であるとしています。

讃岐忌部

讃岐忌部は、手置帆負命(たおきほおい)を祭神とし、神矛などの製作を担当していました。
手置帆負命の「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味とされます
讃岐忌部の本拠としたのが香川県三豊市の忌部神社です。
讃岐忌部と阿波忌部が協同で麻を植え讃岐平野を開拓しただけでなく、建築や矛竿、笠などをつくるといった、神様に関わる手仕事が讃岐忌部の役目だったと考えられます。

出雲忌部

出雲忌部は、櫛明玉命(くしあかるたま)を祭神として、玉類の製造を担当していました。
出雲忌部の本拠としたのが松江市の忌部神社です。
忌部神社には、忌部神戸で作られていた勾玉や管玉およびそれらの生産に使われた砥石などが奉納さています。

阿波忌部の歴史

古語拾遺には、天太玉命の孫である天富命が、穀物を育てるのに適した土地を求め、日鷲命の孫を連れて阿波国まで行き、そこで定住したことが記されています。
この阿波忌部氏は、大嘗祭の際に木綿や麻布などを献上するようになり、その後も常に阿波忌部氏が織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を奉納していました。
また、吉野川市の忌部神社の背後にある「黒岩」と呼ばれる山腹には、6世紀後半に造られたと見られる5基の円墳が集まる忌部山古墳群があります。
この古墳群は6世紀頃に突然現れたもので、当時この地に移住してきた氏族集団が存在したのではないかと考えられています。

大麻比古神社

大麻比古神社は鳴門市大麻町にある阿波国一宮で旧社格は国幣中社です
阿波国、淡路国の総鎮守で阿波国の一宮とされる大社です。
ここに祀られる祭神は、大麻比古神です。
古事記国生み神話によると、古代、粟国は大宜都比売命とされました。
現在の徳島県の北部は粟の生産地だったために粟国とされたのです。
フトダマの孫にあたる天富命が、肥沃な土地を求め当地の開拓をおこない、穀・麻種を植えました。

大麻比古神社
大麻比古神社

お酉様として知られる天日鷲命

天日鷲命は、一般にお酉様として人気があり、酉の市としても知られています。
その名の由来は、鷲神社の伝承にあります。
アマテラスが天岩戸に入ったとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まりました。
多くの神々が、「世の中を明るくする瑞祥をあらわした鳥だ」と喜びました。
この神の名として鷲の字を入れて、鷲大明神、天日鷲命とされるようになりました。
忌部氏はこのほかにも、伊勢、備前、越前などにも広がっていたとされています。

麻による産業の拡がり

阿波忌部は、各地に麻を通じて産業を伝播していきました。
特に大麻は祭事に最重要視されて神麻とよばれました。
伊勢神宮の御札に「神宮大麻」と記されていることからもわかるように、大麻は神の依り代として用いられてきたのです。
天富命に率いられた阿波忌部は、麻を関東に伝えました。
それがわかるのが安房神社です。

安房神社

安房神社は、忌部氏の祖神・フトダマを祀る安房国一宮です。
千葉県館山市大神宮にある式内社で名神大社、旧官幣大社です。
阿波地方(徳島県)から移住した忌部氏による創建と伝わります。
社地には抜歯習俗を示す人骨多数を包含した洞窟遺跡が所在しています。
神郡(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持つ神社です。
さらに、阿波忌部は、讃岐平野や三豊平野を開拓していきます。
讃岐忌部と阿波忌部が協同で麻を植え讃岐平野を開拓しただけでなく、建築や矛竿、笠などをつくり、殖産興業の道を切り拓いていきました。

安房神社

フトダマの本拠地はどこか

忌部氏の祖とされるフトダマの本拠地はどこなのでしょうか?
奈良県橿原市忌部町付近とする説では、阿波忌部が中央忌部に従ったという主張に基づいています。
しかし、天太玉命神社付近で発掘された蘇我遺跡は、5から6世紀後半の遺跡で、阿波忌部よりあとの時代と推測されるのです。
さらに、奈良県橿原市付近には、忌部と関係する神社、古墳などはほとんどなく、中央忌部としての興隆が感じられません。
また、大嘗祭で供えられる麁服の調進は、中央忌部ではなく阿波忌部が担っていました。
これらから、中央から阿波に流れたとは考えにくいようです。
たしかに、中央から阿波への流れはないのですが、それだけで阿波忌部がフトダマの本拠地であるとはいえないでしょう。

天日鷲命は経津主

中臣氏の氏神を祀る旧社格が官幣大社の枚岡神社です。
「元春日」と呼ばれ、中世以降に河内国一宮として崇敬されるようになります。
ここに春日三神が祀られています。
アメノコヤネ、タケミカヅチとともに、フツヌシが祀られています。
春日大社をはじめ、全国に数多くのこれら春日三神が祀られる神社が存在しています。
香取神宮の第一摂社の側高神社(そばたか)があります。
この祭神の中に天日鷲命が見らることから、春日三神の一人フツヌシと同一人物である可能性が高いといえます。
また、フツヌシは、斎主神または伊波比主神と別名があることから、祭祀に関わったことがうかがえます そして、香取神宮のフツヌシと安房の天日鷲命が一つに重なってみえてきました。
日本書紀神産みの段では、磐筒男神と磐筒女神がフツヌシをうんだとしています。
千葉県にある老尾神社の伝承では、阿佐比古命つまりフトダマと磐筒男命・磐筒女命が共に祀られていて、親子関係にあると推測できます。
まとめると、天日鷲命は、父親のフトダマ率いる軍隊を引き継ぎ、日向の女王・アマテラスに従って活躍しました。
そして、出雲の相続争い(出雲国譲り)のときに、コトシロヌシを擁して出雲に進行し、タケミカヅチと共同でタケミナカタを破りました。
その後、忌部氏はある勢力によって追いやられていきます。

天日鷲命はフツヌシ

経津主は九州勢力

フツヌシは、タケミナカタをタケミカヅチと共同で破ったということから、日向のアマテラス女王に近い人物であることは推測できます。
そして、九州の太玉神社を探したところ、大隅半島の先、鹿児島県の鹿屋市に一社ありました。
フトダマを祀る神社は九州ではここだけですので、本貫である可能性が高いです。
神武天皇に祭祀の担当として随伴した五伴緒(天児屋命・太玉命・天鈿女命・石凝姥命・玉祖命)の一人でもあります。
神武天皇のとき、東国を平定、後に香取神宮に祀られました。
神武天皇より阿波国を賜り、麻の栽培、紡績を奨励し、崇拝されました。

アマテラスは九州の女王

忌部氏の衰退

大化の改新以前には、忌部氏は蘇我氏と結びつき、祭官としての権力を振るっていましたが、大化の改新以後、中臣氏に抑えられ、その地位は次第に低下していきました。
これを嘆いて、斎部広成が『古語拾遺』を著したとされています。
なぜ忌部氏に代わって中臣氏が勢力を強めたのか?
中臣氏といえば、藤原氏です。
中臣鎌足、藤原不比等が実権を握るに従い、祭祀を司る氏族であった忌部氏が消え去るのは目に見えて明らかです。
奈良時代になると、伊勢神宮の奉幣使を中臣氏が独占するようになり、忌部氏は弱体化していきます。
日本後紀によると、806年中臣と忌部の双方が訴訟騒ぎを起こします。
中臣氏の主張は、忌部氏は幣帛を作るのが本分で、祝詞を奏上することはできない。
従って、忌部氏を幣帛使とすることはできない、というものです。
一方の忌部氏の主張は、幣帛や祈祷は忌部の仕事である。
従って、忌部氏を幣帛使とし、中臣氏は祓使とするように、というものです。
そこで、朝廷は『日本書紀』に基づき、祈祷は中臣氏と忌部氏の双方がともに関与する。
『神祇令』に基づき定期の祭礼は中臣氏と忌部氏がそれぞれの役割を担い、臨時の祭礼では幣帛使に中臣氏と忌部氏の両氏を用いることにしました。
これが斎部広成の古語拾遺執筆へとつながるのでした。
このとき斎部広成は81歳ともいわれています。
まさに命を賭した訴えでした。


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