見出し画像

奥野修治『天皇の憂鬱』 : 近視眼的で非歴史的な「天皇」像

書評:奥野修治『天皇の憂鬱』(新潮新書)

ノンフィクションライターの「天皇」書だということで、学者のそれにはない新しい視点を期待したが、残念ながら、いかにも「ありがちな天皇観」を、一歩も出るものではなかった。
NHKの特集番組で得た知識を、再確認したい人などにはうってつけだが、より深く知りたい理解したいという人には物足りない内容であり、また一般の感情に迎合的である点では「通俗的」ですらある。つまり、大西巨人流に言えば「俗情との結託」であり、その域を出ていないのだ。

例えば、次のような部分を読んで、どう考えるだろうか。

(1)『 (※ 平成の明仁)天皇は、「次の御世のことは前の世代の人間が言うべきではない。次の世代は次の世代の人間が考えればいい」というお考えだというから、新しい天皇が、象徴天皇としてどう行動するか、新天皇自らが考えればいい、ということだろう。』(P51)

(2)『 (※ 平成の美智子皇后や、明仁天皇も一部使った「譲位」という言葉が)「退位」ではなく「譲る」という言葉だったのは、被災地の訪問など、これまで続けてこられた事跡を引き継いでほしいというお気持ちもあったのだろう。』(P71)

どちらも「もっともな考え」であるというのは、誰でも理解できることだろう。しかし、これが決定的に「矛盾した考え」であることに気づいた人が、どれだけいるだろうか?
まあ、このように切り出して並べれば、気づいて当然なのだが、20ページの間をおいて、この矛盾に気づく人がどれだけいて、さらにその問題性に気づく人がどれだけいるのか、という話なのだ。

著者自身は『新しい時代に被災者をどうお見舞いするかは、新しい天皇が決めることである。』(P52)と書いていて、「被災者見舞い」に関しては、明仁天皇の(1)の考えを支持しているように見えるが、そのホンネは(1)のようなリベラルな考え方に対する疑問視にある。
と言うのも、著者は本書の冒頭をこう書き起こしているからだ。

『「日本に天皇は必要か?」一一今では考えられないが、半世紀前には真面目に議論されたこともあった。』(P3)

著者自身は、『今』の考えが「(議論の余地なく)当たり前(正しい)」であり、『半世紀前』の議論は「愚かな誤認」に拠るものでしかなかった、と考えている。
しかし、「歴史」を知る者は、そんな幼稚な「自己中心的」歴史観は持ち得ない。例えば、

『 浩宮を出産したときだ。美智子妃が宮内庁病院を退院するとき、浩宮を抱き、新聞記者の求めに応じて車の窓ガラスをおろした。たかだかこれだけのことで守旧派から非難の的になったのだ。「妃殿下が親王を抱くとははしたない」「窓ガラスを開けてお風邪でも引いたらどうするのか」と。』(P227)

このように「伝統ある(天皇制の)皇室文化」と言ったところで、わずかの間に大きく変貌してしまうのが現実なのだし、そもそも、今の「近代天皇制」は、明治政府によって作られ、敗戦によって大きく改定されたものなのだから、いずれにしろ、現実には、さほどの歴史的伝統を持っているわけではないのである。
つまり「神代からつづく天皇」制というのは、「フィクション」に過ぎないというのが歴史的事実であり、そんなフィクションを信じる者は「新しい民族宗教の信者」にすぎないとも言えよう。

しかしまた、本書が、その「新しい民族宗教の信者」向けの水準でしか書かれていない、というのは、前述した著者の『「日本に天皇は必要か?」一一今では考えられないが、半世紀前には真面目に議論されたこともあった。』(P3)という言葉に明らかなのである。

話を戻そう。前記(1)と(2)は、明らかに矛盾している。
平成の明仁天皇は「次の御代のことは前の世代の人間が言うべきではない。次の世代は次の世代の人間が考えればいい」と言いながら、それでも「被災地訪問」のような「平成流」の継承を、次の徳仁天皇に期待しているのは明らかだ。

これは「人間の気持ち」としては、よくわかる話で、前任者が自身の「画期的な良い行ない」については、後任者に引き継いでもらいたいと考えるのは当然のことだろう。
しかし、ではなぜ明仁天皇は「私のやり方を、すべて引き継いで下さい」とは言わずに「次の御代のことは前の世代の人間が言うべきではない。次の世代は次の世代の人間が考えればいい」と言うのであろうか。

それは、明仁天皇も、頭では「自己の正義の絶対化への疑義」を持っており「善意の押しつけの問題」を理解しており、「院政の問題」や「老害の問題」をも重々承知しているからである。
つまり、いくら自分が「良い」と思うことでも、次代の責任者にそれを押し付けることは、本来「越権行為」であり、人情としてはそれをやりたくても、あえてそれを「自制する」ことこそが、真の「賢明」であると知っているから「次の御代のことは前の世代の人間が言うべきではない。次の世代は次の世代の人間が考えればいい」と言ったのである。

だから、(2)に示され「譲位」という考え方は、正しくない。
「譲位」とは、上の者が下の者に「位」を譲るというニュアンスがあり、それは本来トップになるはずの「次の天皇」に対する態度としては、極めて不適切なのだ。
それは、「社長」や「代表取締役」を退いたはずの人間が、「名誉会長」や「名誉顧問」といった肩書きで、いつまでも組織に残り、現役の最高責任者に影響力を行使しようとする、「院政」的な態度に他ならないからなのだ。

だが、本書は、こうした「考察」の水準には遠く及ばない。

と言うのも、本書でも多く採り上げられているように「天皇が跪いて、声をかけてくれたので、それまでの苦しみが一気に晴れた」といった類いの「信仰告白」を、著者自身、無条件に追認しているからである。

宗教学者の阿満利麿が『人はなぜ宗教を必要とするのか』にも書いているとおり、カリスマ的宗教者に「治癒力」や「法力」的なものがあるのは、じつは彼自身に特別な力があるからではなく、彼の非凡な「属性(例えば、肩書きや外見)」に、非凡な「力」を見るという「共同体幻想」があってこそ、なのである。
つまり「普通のおじさんが跪いて、声をかけてくれた」としても、それに「特別な効果」はないが、「天皇が跪いて、声をかけてくれたので、それまでの苦しみが一気に晴れた」となるのは、天皇に「特別な力」があるのではなく、天皇を見る側に「特別な幻想(信仰)」があるから、そこで「偽薬(プラシーボ)効果」が起こるのだ。

『「(略)やさしくお言葉をかけてくださって、両陛下は私たち(※ 沖縄人)のことを本当に思ってくださっているんだなぁと……。こういう感動は、皇太子時代にはないんです。やはり天皇になられてからですね」』(P128〜129)

平成の明仁天皇の「沖縄に対する思い」は、皇太子時代のそれと大きく変わるものではなかったはずだが、しかし、「天皇という制度的権威」に「期待する(無自覚に信仰する)」者には、「天皇と皇太子では大違い」なのである。

ともあれ、「天皇という制度的権威(幻想)」を、明仁天皇は自明のものとしており、それを次代の徳仁天皇に引き継ぎたいと思う自分を、十分に律しきれていない、というのは事実だろう。

しかし、次代(つまり今)を担うのは、(天皇家の)次代の最高責任者である現天皇・徳仁である。
責任を担う者には、それなりの権力が与えられるのは当然のことなのだ(言い変えれば、今の政治家のように、相応の責任を取らないような者は、権力的な地位に止まらせてはいけない、ということだ)。

「天皇制」は「歴史的フィクション」である。
だから、著者の考えるような「疑義なく存続すべきもの」でもなんでもない。それを望む「国民・主権者」が大勢いるからこそ、天皇自身の意志さえ抑え込んで、天皇制は「存続させられるもの」に過ぎない。

しかし、その役割を否定したり拒否したりすることは出来なくても、重い責任を負わされた当事者としての天皇には、「天皇」像を変えていく権利はあるし、それは可能だ。
実際、明治・大正・昭和・平成という直近の4世代を見ただけでも「天皇」像は、そのたびに大きく変化してきたというのが歴史的事実なのだから、「天皇」や「天皇制」の事実や真相を知りたいと思う者は、「近視眼的な現状追認」の域を出ない本書の枠に止まるべきではないだろう。

「妄信者」は知ることを怖れるが、「探求者」や「求道者」は知ることを怖れないのである。

初出:2019年5月7日「Amazonレビュー」

 ○ ○ ○












この記事が参加している募集

読書感想文