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畑中章宏 『廃仏毀釈  寺院・仏像破壊の真実』 : 〈皇室における廃仏毀釈〉と 私たちの今

書評:畑中章宏『廃仏毀釈  寺院・仏像破壊の真実』(ちくま新書)

「明治新政府の推し進めた神仏分離・廃仏毀釈という宗教政策を、庶民は必ずしも支持したわけでもないし、協力したわけでもない。ましてや、それを否応なく行うにあたっても、暴力的に加担したわけではない」一一これが、本書において著者の語りたかったことである。つまり、「廃仏毀釈」というものの持っている通俗的なイメージから、「庶民」の現実を救いだしたかったのである。

廃仏毀釈運動

そして、その背景には、庶民の信仰対象として長らく存在した「神仏習合」的な信仰のあり方を、教義論的あるいは政治的な都合から否定する、時の権力者や宗教者たちへの、強い嫌悪があったのであろう。著者は、露骨な政治権力批判、宗教権力批判こそしていないものの、その立場は明らかに、「庶民の生活の一部」としての神仏習合的な信仰を、おおらかに肯定しようとするものである。

庶民にとっては、仏教も神道も神仏習合もなかった。ただ、身近に存在する、ありがたい神仏にすがって、日々の平穏な生活を守りたいという、そんな素朴な感情があっただけであり、著者は、「宗教」ではなく、そんな「庶民感情」に共感し、それを手前勝手に利用し改変することで庶民を翻弄した、政治権力者や宗教権力者たちの権力闘争的なあり方を、嫌悪したのだ。

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(首なし五百羅漢像)

こうした著者の立場に、私は心から共感を覚える。しかしまた、一人の無神論者としては、結局のところ、権力との関係が切れることのない「宗教」というものに対する、庶民の無防備さとしての無知に、現実の宿命的な暗さを感じもする。結局のところ、庶民の素朴な「宗教感情」というものは、その素朴さのゆえに、いつでも権力者たちの「支配の道具」にされざるを得ないのだ。

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本書の大半は、廃仏毀釈の現実を伝えるものとして、有名社寺を襲った廃仏毀釈の惨禍を紹介するものであり、その上で、そうした歴史が、今もなお隠蔽されている事実を指摘する。

『「千年の都」と称される京都の神社も、そのほとんどが神仏習合の状態で幕末に至った。いま京都を訪れる人びとは、おそらく神社と寺院を明確に意識し、参拝していないだろうが、近世までは神社に神仏が混じった状態であったり、神社に隣接して神宮寺があったりという宗教空間が少なくなかった。そうした風景、状態が神仏分離で失われ、数多くの寺院が廃止されたのである。』(P104)

『 鶴岡八幡宮は典型的な神仏習合の寺院であり、江島神社もかっては弁財天を祀る寺院だった。鶴岡八幡宮寺で筥崎博尹が還俗し、総神主を名乗りはじめたような事態にたいし、八幡宮寺の門前に建つ法戒寺の僧・澄海が痛烈に批判している。「昨日三鈷を握った手で、今日幣帛を執っているではないか」、「数百年来の神事はみな仏教関係のものによっておこなわれたものである」。還俗し神職になったものたちの行動は、「先祖を侮辱し、恩義を忘却」したものであり、「実に宗門の大罪人である」というのだ。
 古都鎌倉の宗教的・文化的景観は近代になって形成されたものであり、その転換期には澄海の嘆きや怒りがあったことを覚えておいてほしい。しかし澄海のような悲嘆と批判は列島の各地で、沸き起こっていたはずなのである。
 維新における神仏分離と廃仏毀釈は、仏教が忍従とともに苦境を乗り越えたこともあり、近代社会の中で根底的に問い直されることはほとんどなかった。その状況は太平洋戦争後も変わることなく、分離の状態は自明のように思わせてしまっているのだ。』(P115~116)

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(すっかり神社の「鶴岡八幡宮」)

『 いずれにしても、現在でも、神社の社頭に掲げられる由緒書などに、神仏習合と神仏分離、そして廃仏毀釈について明記しているところは多くない。神社への参拝者たちの多くが、神代に遡る起源や、仏教色の影ひとつ表されてれない歴史を信じ込んでしまうのはしかたのないことだろう。』(P208)

それでも、今の日本人の多くは「神道と仏教がごちゃ混ぜになっている、いい加減な状態であるよりは、神道は神道、仏教は仏教で、本来の信仰形式に戻ったんだから、それでいいじゃないか」くらいのことしか考えないだろう。

しかし、こうした「歴史的経緯」を軽視する考え方が、人々をして、いかに「恣意的な政治的幻想」の中での「惰眠」を貪らせているかは、「皇室においても神仏分離が断行されたという現実」が広く知らされないまま、「皇室=神道」という「政治的幻想」が自明視されている事実に明らかであろう。

『 京都の一部として、明治維新で東京に移ることになった宮中・御所の変化についてもここでみておきたい。新政府により統治者とされた天皇・皇族も、神道国教化策を実行、実践するために、それまでの仏教崇拝を手離さざるをえなくなったからである。
 天皇をはじめとする皇族の霊は、平安時代以来、宮中の御黒戸に祀られていた。御黒戸は、民間の仏壇にあたり、位牌がおかれ、仏式で祀られていたのである。天皇や皇族の死に際しては、天皇家の菩提寺にあたる泉涌寺で、僧侶を中心に仏式の葬儀がおこなわれてきたが、明治元年(一八六八)一二月二五日の孝明天皇三年祭から、皇霊の祭儀が神式に改められた。この日、内裏の正殿である紫宸殿に神座を設けて、祓除・招神などの神道の儀式をおこない、天皇をはじめ諸官員が拝礼した。そのあと、孝明天皇陵を訪ねて、やはり神式の拝礼がおこなわれたという。
 また熱心な仏教信仰を続けていた山階宮晃親王は、明治三一年、その死に際して仏式の葬儀をするように遺言し、仏葬式の可否は枢密院に諮られたが、皇族の仏葬を許すことは「典礼の紊乱」、神道儀礼に混乱を招く恐れがあるという理由から仏葬式は認められなかった。
 幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り混じった祭儀がおこなわれていたが、年中行事も激変した。年始の金光明会、後七日御修法、正月八日の大元帥法、一八日の観音供、二月と八月の季御読経、三月と七月の仁王会、四月八日の灌仏会、五月の最勝講、七月の盂蘭盆供、一二月の仏名会など、皇室の仏事は明治四年をもってすべて廃止される。その一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、それに加え、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など新たな祭祀が生まれた。やがて宮中三殿が成立すると、神道に純化した皇室祭祀が整備され、確立されていったのである。』(P109~110)

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(即位の礼などを終えた報告を孝明天皇陵へ行うため、
京都・泉涌寺を訪れた天皇・皇后両陛下=1990年)

見てのとおり、天孫降臨の神の末裔、「万世一系」の血筋であるはずの皇室の「現実」とは、当然のことながら、このように「歴史的」かつ「人間的」なものなのであった。

それが、明治新政府の政策的強制によって、あっけなく改ざんされ、「皇室=神道」という「フィクション」が新たに形成され、以来、私たち国民をずっと欺き続けているのである。

だから、本書の著者の「認識が甘い」とか「新しい話はない」とかいった感想は、ほとんど、こうした明治政府による「フィクション」の寝床の上での、のんきな「寝言」にすぎない。
歴史を学ぶとは「(自分自身の)今を問う」ことだという点では、著者はまったく正しいのである。

初出:2021年6月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年7月10日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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