見出し画像

堀江宗正 編 『現代日本の宗教事情』 ( いま宗教に向きあう 第1巻) : 日常化するスピリチュアリズムの危うさ

書評:堀江宗正編『現代日本の宗教事情』(いま宗教に向きあう 第1巻)(岩波書店)

本書は、大きく次の4つのテーマを扱っている。
(1)岐路に立つ伝統宗教、(2)新宗教の現在、(3)現代人のスピリチュアリティ、(4)在留外国人と宗教、である。
本書を読むような人なら(1)と(2)はお馴染みのテーマであろうし、(4)についてはテレビニュースなどでも時折報じられるから、おおよその雰囲気くらいは知っているはずだ。もちろん、どのテーマに関しても、現場の研究者による実証的な研究にもとづく論考であるから、裨益されるところが多いが、私がいちばん惹かれたのは、編者自身が本書の『第2の特色』として『いわゆる「世界の諸宗教」だけでなく、世間で「宗教」と見なされていない個人的な信念や漠然とした宗教的志向性や行為・慣習をも対象に含めている点です。』(P267)と断っている、主に(3)の部分であった。

私は「宗教」という「非理性的行動の謎」を、素人なりに研究するにあたって、キリスト教を選んだ。なぜかと言えば、キリスト教というのは「神は実在する」と明言するなど、単なる「精神論」や「観念論」でお茶を濁して言い逃れすることのできない「宗教らしい宗教」であり、それを正当化するために現代に到るまで営々と膨大な理論を構築してきた「(屁)理屈っぽい宗教」だからこそ「論理的な検討の対象にしやすい」と思ったからだ。
言い変えれば、仏教のように「神」や「仏」を語っても、それを実在であるとは言わず「比喩」としてしまうような宗教は、キリスト教などとは違い、その宗教性への明確な責任を持たず、「比喩を多用する宇宙哲学(解釈学的思想)」的な範疇に、時に都合よく自己を解消させてしまう側面がある。そのため「それは捉え方のちがいですね」的な逃げをうつことも容易に可能で、論理的に突き詰めた議論にはなりにくいところがあったからだ。

それでも、仏教であれ神道であれ新宗教であれ、それらにはいちおう「教祖」「本尊」「教義」のような固定的要素もあって、その点については誤摩化しにくいところもあるのだが、スピリチュアリズム(霊性主義)あるいはスピリチュアリティー(霊性)と呼ばれるものは、明確な定義の無い、言い変えれば、個人的な解釈の自由な「霊」や「魂」や「あの世」あるいは「浄化の力」といった「非理性的な世界観」を持ち出すため、よけいに理性的反省の対象となり難いのだ。
つまりスピリチュアリズムは、本質的には「原始宗教的な主観的感情の一形態」でありながらも、教祖や本尊、教義といったわかりやすいガジェットを持つ「(既成)宗教」ではない、という点から「宗教ではないので安心」といった「軽信」が持たれがちで、その点に私は危うさを感じるのである。

本書でも言及されているとおり、近年の日本で「スピリチュアリティー」という言葉を流行らせたのは、テレビ番組「国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉」の、江原啓之であろう(ちなみに、文芸批評の世界では「若松英輔」の影響力を挙げておきたい)。
江原は「スピリチュアル・カウンセラー」として、その霊視的洞察力で人の悩みの問題点を見抜き、適切な助言をあたえる、一種の霊能力者として活躍した。江原自身、今はこの「霊能力者」的な部分をあまり表には出さず、どちらかと言うと「人間通の達人」として活躍しているが、江原の売りは決して単なる「人間通」に収まるものでないことは、その言動から明らかである。
しかし、このような人が大衆メディアで活躍した結果、「霊」や「魂」や「あの世」や「つながる命」といった話が、一部の宗教家の語る「専門用語」ではなく、誰でも個人的な見解において気楽に語れる、馴染みやすいもの(叙情的な言葉)になった。

たしかに「魂の問題」は、人が生きて行く上で一度は考えなければならない問題ではあるとしても、それはなにも「宗教」的なものである必要はなく、理性的・意志的な「倫理」や「思想」や「哲学」といった(選択・引き受け)問題であっても良かったのだが、非理性的であるからこそお手軽かつ安直に、「魂の問題」が「宗教的なもの」として語られるようになってしまった。

無論、高齢者介護や終末医療あるいは大災害後などの現場においては、小難しい議論を伴わずに、誰にでも「慰めと安心を提供してくれる」スピリチュアリズム的言説は「便利な道具」ではあるだろうし、大手術には「麻酔」が必要なように、緊急・危機においては、そうしたものの使用・利用を、私とて否定するものではない。
けれども、多少の苦痛に耐えうるはずの健常者が、現実逃避としての「麻薬」に安易に手を出すことは、決して望ましいことではないはずであり、それと同じ理由で、非理性的で安直なスピリチュアリズムの日常化は、危ういものと思わずにはいられないのだ。

「霊」についても「宗教」についても、それを肯定するにしろ否定するにしろ、まずは徹底した検証が必要なはずで、その必要性をまったく感じないで信ずるのなら、それは「バクチ的な妄信」でしかない。
しかし、日本人は「適切に疑う」「徹底的に議論検証する」といったことが出来ない。それをやると「角が立つ」し、「疑り深い」「人を信じない」「理屈っぽい」「口うるさい」「狷介」「頑固」だと、人からうとまれる怖れがあるため、こぞって「物わかりのいい人」を演じ、その場かぎりの「耳障りの良い」意見を口にしたがる傾向がある。

だが、そうした安直な「いい人ぶり」の自己陶酔の結果が、あの「オウム真理教事件」だったのではないか。さらに言えば、いまだ収束のめどが立たない「オレオレ詐欺」被害なのではないか。
つまり「適切に疑い、議論検証する」ということを避けて「人それぞれだから、それもいいんじゃないか」といった無責任な寛容さや「しつこく人を疑いたくないから信じた」的な無責任さと、スピリチュアリズムを「宗教的なもの」の怖さから切り離して安易に信じ弄んでしまう態度には、どこかで通底する「(とにかく)信じることは素晴らしい」的な心性があるように思えてならない。
そして私は、「オウム真理教」や「オレオレ詐欺」に「信じることは素晴らしい」では済まされない「現実的被害」があったように、安直なスピリチュアリズムの日常化には、極めて危険な陥穽を見ないわけにはいかないのである。

「イエスの三日目の復活」や「マリアの処女懐胎」や「日本の天孫降臨」といった「物語」が、人を慰める強力な「物語=フィクション」であったとすれば、スピリチュアリズムにおいて語られる「霊」や「魂」や「あの世」や「つながる命」といった観念もまた、同様の「物語=フィクション」であるという現実を、我々は直視すべきであろう。それを避ければ、かならずどこかで「弊害」のあることに気づかなければならない。

初出:2019年2月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○










 ○ ○ ○






 ○ ○ ○















 ○ ○ ○




 ○ ○ ○




この記事が参加している募集

読書感想文