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吉成真由美 編 『嘘と孤独とテクノロジー 知の巨人に聞く』 : 〈知性〉とは、結論に飛びつかないこと。

書評:吉成真由美編『嘘と孤独とテクノロジー 知の巨人に聞く』(インターナショナル新書)

本書は、エドワード・O・ウィルソン、ティモシー・スナイダー、ダニエル・C・デネット、スティーブン・ピンカー、ノーム・チョムスキーという、生物学、歴史学、哲学、認知心理学、言語学における世界的泰斗に、現代社会が直面する問題(特に「嘘と孤独とテクノロジー」という言葉にまとめられる問題)について、それぞれの考えを語ってもらった、贅沢なインタビュー集である。

私の場合は、9.11(米国同時多発テロ)以来、つまり20年来のチョムスキーファンであり、最近では「無神論」の同志として、デネットのファンでもある。

本書のメインタイトル「嘘と孤独とテクノロジー」というのは、インターネットの世界的普及によってもたらされた、社会的「負の側面」を指したものであり、平たく言えば「インターネットが、期待された情報の豊かさではなく、むしろフェイクニュースやデマの拡散に見られる情報選択の貧困化をもたらしており、また期待された人と人との繋がりの強化ではなく、分断をもたらすテクノロジーとしての問題を露呈している」という、危機的な現状認識を意味している。

5人にたいする5つのインタビューは、最初にそれぞれの考え方を象徴するキーワードについての質疑応答があり、その思想の紹介とした後、本書のテーマである「嘘と孤独とテクノロジー」の問題について、その考えを問う、という構成になっている。

もちろん、それぞれに「嘘と孤独とテクノロジー」問題へのアプローチに違いはあれ、共通しているのは、

(1) 問題を直視する(知ろうとする、妄信しない)
(2) 考えつづける(安易に、答に飛びつかない)
(3) 希望を捨てない(困難な問題についても、人間と未来を信じて格闘しつづける)

ということを語っている点であろう。
言い変えれば、「超一流」たりえない私たちの多くが犯す誤りとは、「問題が多く、不透明な現状」に発する「未来への不安」から、ある種の「答に飛びつき」それを「妄信」して、その問題と「格闘しつづける(考えつづける)努力」を放棄してしまいがちだ、ということである。

例えば、「真相は、誰にも分からない」「結局、権力には逆らえない」といった、諦める態度がその典型的なものだ。
こうした態度は、目の前の現実問題と格闘する前に(チャレンジする前に)、「どうせダメだ」という「結論」を妄信し、思考停止すること(逃げ)によって、自分が「正解」の側に与する「賢明な人間」であるという「逃避的自己像(虚像)」にしがみいて、自身を慰めようとする、「非理性的」で怯懦な態度だと言えるだろう。

私が、本書から、そうした「逃避(逃げ)」に対する「知的な抵抗の具体例」を読みとったのは、チョムスキーの「普遍文法」に対するデネットの「普遍文法は存在しない」という批判、の事例においてである。

チョムスキーの「普遍文法仮説」に対しては、それが強力に支持されると同時に、必然的に多くの反論も寄せられており、デネットの批判もその一つだと言えるだろう。
そこで、問題となるのは「世界最高峰の知性たちによって激論の対象となっている、最大級の難問」にたいして、私たちはしばしば「それはチョムスキーが正しいよ」とか「チョムスキーが間違っているに決まってるよ」などと「安易な結論」を口にしてしまっているのではないか、という点である。

言うまでもなく、私たち多くは「言語学の専門家」でもなければ「脳科学の専門家」でもない。ましてや「世界的な頭脳の持ち主」などでもない。なのにどうして、そうした関連本を数冊読んだくらいで、どちらが正しいなどと言ってしまえるのだろうか。
それは無論、私たちが、両派の意見に「無知」だからだ。

私たちは、その問題の難しさについて、ろくに知ろうともせず、「自分の好み」に従って「結論」を選択し、その「好みの結論」を補強する情報だけを掻き集めて「やっぱり、私の意見の方が正しい(あいつらは馬鹿か妄信者だ)」などと思い込んでしまいがちでなのある。
しかし、こうした態度こそが「非・知的」で「妄信的」なものであることは、すでに説明を要すまい。

私たちが本当に「知的」であろうとするのなら、あらゆる「問題」について、まず「知ろう」と努力し、それを「公正に検討(思考)」し、その段階での「過渡的な仮説」に従って行動しながらも、さらに他者の意見に耳を傾けて「過渡的な仮説」を修正補強していく、という態度を堅持しなければならない。つまり「真実の追究を諦めない」という態度を堅持する、ということである。

むろん、これは容易なことではない。しかし、「知的」であろうとすることは、そもそも容易なことではないのだから、私たちが「真に知的であろう」とするのであれば、こうした「永続的自己革新」を引き受けなくてはならないのであり、それが、彼ら5人の示した、

(1) 問題を直視する(知ろうとする、妄信しない)
(2) 考えつづける(安易に、答に飛びつこうとしない)
(3) 希望を捨てない(困難な問題についても、人間と未来を信じて格闘しつづける)

という、一見「当たり前」に見えることの持つ「重い意味」なのである。

そして、こうした姿勢を堅持するために必要な態度として、私はここで、ティモシー・スナイダーとスティーブン・ピンカーの言葉を引用しておこう。

『 これは世界を基本的にどうとらえるかということと関係してきます。
 私自身は「完全(パーフェクト)な独裁主義」などありえないと考えます。なぜならパーフェクトな独裁者など存在しないからです。いちばんいい時でも、われわれは誰一人としてパーフェクトではありえない。独裁主義がありえない理由は、世界全体を把握するアイディアというようなものは、決して作りえないからです。そのような完全さはありえない。
 われわれに必要なのは、「良い不完全」というものです。あなたも私も、誰もがしばしば間違いは犯すのであって、あなたの倫理観と私のそれとは異なっていて、一致してはいないということを、オープンに言うことができるシステムです。どのようなシステムが、ひどい犠牲を払わずに「不完全」であることを許容できるのか。自分とは倫理観の異なる人たちを踏みつぶすことなく、自分の倫理観を表現できるのか。実はこれらこそ「民主主義」や「多元主義」が可能にしている事柄なのです。』(P110〜111)

『 まず言っておきたいのは、誰も完全無欠ではない、全能ではない、天使ではないということです。問題なのは、人間の本質的な性格からして、しばしば完全無欠だと勘違いするという点です(笑)。誰一人として真実が何か、最善策は何かを的確に判断できるような天才はいません。ですから他の人々からの挑戦や議論や批判が必要になってくる。新しいアイディアとは、一般的に言って、たった一つの脳から出てくるわけではないんですね。何千ものアイディアが協力し合い切磋琢磨することで、できあがってくるものです。
 フリースピーチを否定するということは、逆に言うと「一人の人が素晴らしく才能があって、その人が真実を知っていることが確かだから、その人が他の人々をすべて押さえて万事について決定できる」ということになってしまうわけですが、それが真実でないということは明白ですね。』(P222)

そう。二人が揃って言っているのは、「完全無欠な人間はいない」「間違わない人間はいない」「人間は神ではなく、神はいない」ということなのだ。

だから、私の好きなチョムスキーもデネットも「完全無欠ではない」し「間違わないということもない」。彼らもしばしば間違うし、両方が対立した意見を持っている場合にも「どちらかが完全に正しい」とか「どちらかが完全に間違っている」とかいうことでもない蓋然性が、極めて高い。
言い変えれば、どちらにも「相応の正しさ」があり、どちらにも「一定の誤り」がある、ということなのだ。だから、こうした問題は複雑微妙で、慎重な継続検討が必要となるのである。

しかし、こうした慎重な態度というのは、むろん「結論先送りの判断拒否」ということではない。「判断したくない」のではなく「判断したいけれども、完璧な判断はできない」ということでしかないのである。
だから「判断が難しい」という現実を「判断から逃げる」ことの口実にしてはならない。私たちは、常に責任を持った「過渡的判断」を下しながら、真実探求の前進を続けていかなければならない。それが「知的」であるということの意味なのである。

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さて、そうした大前提の上で、チョムスキーの「普遍文法」に対するデネットの批判を、私自身が、現段階でどのように評価をしているかを書いておくと、私は、デネットがチョムスキーの「普遍文法」を誤解している(深く理解していない)と見る。

デネットの「言語」についての考え方の基本線は、進化とは「連続的な変化のなかで起こること」であり、突如(不連続的に)、人間にのみ発現した特殊能力と考えるのは無理がある、というものだ。
「言語」というものは、多くの動物が持つ発声能力の延長線上に位置するものであり、その点で、人間にのみ特別な「普遍文法」というものを見るのは間違いだ、といった趣旨の批判である。

(1)『チョムスキーの言う遺伝子上の大変化だという説は、完全に間違っていると思います。もっとゆっくりとした過程を経て誕生してきたと考えるべきでしょう。ざっくり言うと、まずわれわれの祖先が、なんらかの理由で声を発するというところから始まって、それが次第に言語に発展していった。言語のような形になってからも、しばらくの間人類は、喋っている音が何を意味するのか見当もつかなかったし、言語が何であるかなんてまったくわからなかった。今日の人類よりはるかに習得に時間がかかったでしょう。そしてこれを習得することができた人類は、進化上有利になり、選択されて子孫を残すようになった。つまり言語獲得という文化的なイノベーションの結果、言語操作に関与する遺伝子が脳内に受け継がれていくようになったのでしょう。』(P169〜170)

まず、ここで私が引っかかるのは、チョムスキーとて、人類特有の「高度な特性」としての「普遍文法」が「短期間で完成した」とは主張していないだろう、という点にある。つまり、チョムスキーの言う「大変化」とは、他の言語を持たない動物との「分岐点となる最初の種(突然変異的遺伝小要素)」がうまれたことを指していたのではなかったか、ということだ。
その「小さな種」が長い時間を経て発芽し成長して、人間固有の「言語」というものになった。言い変えれば、その「小さな種」の誕生を持たなかった他の動物は、どんなに時間をかけても、そのままでは「言語」は持てないということである。

(2)『 人間の赤ちゃんは、話し声に異常なほど興味を示します。子宮内にいる時からすでに話し声に惹きつけられていて、生まれる前からお母さんの声を何ヶ月も聞いているのです。もしチンパンジーが(※ 人間の脳幹細胞を、胎児の段階で移植されるなどして)、人間の赤ちゃんと同じくらい人間の話し方に強い興味を示すような認識力をもつと(※ すれば)、成長したら話をすることができるようになるかもしれない。それくらいシンプルな話なのかもしれない。人間の言語に関与している遺伝子上の特徴というのは、ひょっとするとこの「話し声に対する好奇心」だけなのかもしれないのです。それ以外については、社会環境が提供してくれるからです。
 (中略)
 ディープラーニング(中略)研究が進んだおかげで、神経細胞ネットワークの力というものについて、かなりのことがわかってきました。人間の脳は、膨大なデータからパターンを抽出するということに非常に長けています。しかも理解しなくともできる。またもや「理解していないけれど能力がある」という状態ですね。パターンを理解する必要はなくて、パターンを見つけられさえすればいいのです。
 チョムスキー派が、言語パターンというものはこのような方法(子どもたちが、感覚器官を通じて入手する話し声のデータから、パターンを次々と見つけていくことで、言語を獲得する)では見つけられないのだ、ということを証明しない限り、「生得的な器官としての言語能力というものが備わって生まれてくる」とは言えないことになります。グーグル翻訳がある程度の部分的な成功を収めていることは、チョムスキーへの反証になりますね。グーグル翻訳は、こういったパターンを見つけることで成り立っているから。しかも意味がまったくわかっていない。わかる必要がないからです。ならば、人間の幼児も同じことをしている可能性が十分ありますね。』(P172〜174)

こうデネットは言うが、仮に、人間の脳幹細胞を胎児の段階で移植されるなどして、人間の話し方に強い興味を示すような認識力を持つようになったチンパンジーが「言語」を習得できたとしても、それはデネットの言うような『人間の話し方に強い興味を示すような認識力をもつ』という程度の『シンプルな話』、とは言えないのではないか。つまり、人間の幼児並みに『話し方に強い興味を示すような認識力をもつ』というのは、それこそが「生成文法」の基本的構成要素であり「小さな種」の構成要素ではないかと考えられるからである。

つぎにデネットは、コンピュータのディープラーニングによるグーグル翻訳が、「理解していないけれど能力がある」というかたちで言語を学習するのと同じことを、人間の幼児もやっているのではないか。とすれば、「言語」能力とは、人間固有のものではあり得ないのではないか、と主張している。
しかし、これについて私は、人間の幼児の言語学習は、コンピュータのディープラーニングのような「パターン認識の単純な積み重ね」ではなく「パターン認識に始まって、そこから得たものを新たな対象の理解へと繰り込む、再帰的で自己言及的な認識能力」であり、この「違い」は決定的なものなのではないかと思う。
つまり、コンピュータ(機械)は「自分で自分の思考パターンを作ることはできない」ということであり、それはコンピュータ(機械)には、自己展開していく「小さな種」が無い、または人間が植えつけないかぎり生まれない、ということであり、この差は決定的であると考えるからである。

また、インタビュアーの吉成真由美が、デネットのこうした「言語」観をうけて、

『一一 言語に特別な生得的獲得回路をもたなくとも、言語獲得は(1)人間の言語に対する強い好奇心と、(2)言語に限定されない素晴らしいパターン認識能力、の二つによってなされるという可能性はないですか。』(P225)

と質問したのに対し、スティーブン・ピンカーが、次のように答えているのも興味深い。

『 可能だと思いますが、その場合、「パターン認識」のパターンとは何を意味しているのかを定義しなければならない。パターンはそこらじゅうにありますから。
 言語獲得に関与する特別なパターンとは「複雑な思考を特定の連続音(信号)に変換する」というものです。他のパターンに敏感でも、このパターンに敏感ではないという場合もあるでしょう。たとえば動物もパターンに対して敏感に反応します。でもほとんどの動物は言語を獲得できません。もしパターン認識能力だけでいいなら、チンパンジーももっていますから彼らの言語を話すはずですが、それはできない。確かに生得的な言語獲得能力はパターン認識能力ではありますが、中でも「思考を信号に変換する」、そしてその逆もする、という特殊なものになるわけです。』(P225〜226)

これは、同じ「パターン認識」と言っても、人間の幼児のそれと、チンパンジーやコンピュータ(機械)のそれとでは、そこに「含まれている要素」において、決定的な違いがあるということではないだろうか。

したがって、チョムスキーが「普遍文法」という言葉で表すものは、単なる「パターン認識の一種」ではなく「飛躍を経たパターン認識」であり、その意味で「大変化」を経た「別物」と言えるのではないか。
たしかに、チンパンジーと人間とは、ほとんど同じであり、進化的に連続的な部分も多いけれども、決定的な分岐点があったからこそ、そこに「量子ジャンプ」的な「大変化」があったればこそ、チンパンジーと人間は「別物」になったのではないのか。
だとすれば、その重要な「分岐点=言語的量子ジャンプ=大変化」を無視して、滑らかな「連続的変化」だけを想定して、「普遍文法」という「突然変異的に生み出された要素を含むもの」の存在を否定することには、やはり無理があるのではないだろうか。むしろ「普遍文法」のようなものを考えた方が、人間の「言語」の特異性を、合理的に説明できるのではないか。
「普遍文法」とは、そのような「仮説」なのではないかと、私は現時点で、そのように「感じている」のである(「感じている」というのは、充分に論理的な整理ができていないと、自分でも感じているからである)。

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ともあれ、「正解」の出る見込みは、当面のところないようだ。世界最高峰の頭脳たちによってすらそうである以上、前記のような私の「見解」など、たぶん採るに足らないものなのであろう。
しかし、大切なことは、「正解を言い当てる」ことではなく、「正解探求に参与する」ということなのではないだろうか。ある天才を、自身の「神」と崇めて、その信者でしかない自分をも「神の眷属」であると言って威張るような「妄信者」は、決して「知的」ではないし、それどころか「知的な探求の妨げ」にしかならない存在であろう。

スティーブン・ピンカーは、インタビュアーの『17世紀と18世紀の啓蒙主義時代には、複数の思想家がいましたが、ご自身はとくにどの思想家の考え方に最も近いとお考えですか。また、それはなぜでしょうか。』(P216〜217)という質問に、次のように答えている

『 私が「啓蒙」という言葉を使う場合、17、18世紀の「啓蒙主義」の思想家たちがいかに素晴らしい主張をしたかを喧伝する、つまり宗教の聖人たちのかわりに思想の聖人たちに光を当てる、ということではないんですね。人ではなく、アイディアが重要だからです。バルーフ・スピノザ(1632−1677)が自分のヒーローだから、すべてスピノザの言うとおりにしよう、とはならない。デイヴィッド・ヒューム(1711−1776)もイマヌエル・カントもしかり。
 それぞれの主張から良い部分を抽出していくということです。しかもそれは時代に沿って変化していく。まさにこれこそが「啓蒙主義」のレッスンです。つまり優れた人物ではなく優れたアイディアこそが重要なんだと。』(P217)

つまり、私たちは、自分の神様を担いで回るのではなく、いろんな人の優れたアイディアを自分なりに活用し、自分の頭で自分の考えを練り上げ、それをまたフリースピーチの場に還元していくということこそが大切なのではないか。
そして、その重要さを知り、それを実践する態度こそが「真に知的」なものであり、それが本書の5人の共通点なのではないだろうか。

初出:2020年4月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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