ウォルター・リップマン 『世論』 : リップマンの〈人間的抵抗〉
書評:ウォルター・リップマン『世論』(岩波文庫)
本書を読んで、単純に「面白かった!」という感想を抱いた人は、肝心なところを読み落としていると思って、まず間違いない。
と言うのも、本書は「君たちは基本的に馬鹿であり、馬鹿であることから逃れられない」という「人間の暗い宿命」を描いているのだから、まともに読めば、能天気に「面白かった!」などという感想を持てるわけがないからだ。
本書には「現実を直視して、理性的たらん」とする、リップマンの基本的な態度がハッキリと表れている。彼はその真摯な態度において、「人間の知の限界」と「民主主義の幻想的前提」を直視しており、その説得力には唸らざるを得ない。じっさい、彼の言うとおりだからであろう。
しかし、このような「暗い現実」を知らされて、それでも喜んでいられる人というのは、「自分はその例外だ」と思いこめる浅はかな人か、「どうせすべてが知り得ず、真の正義が知り得ないのならば、そういう人間の限界を利用して、功利的に生きれば良いだけ」と開きなおれるタイプの、いずれかだけなのではないだろうか。
もちろん、リップマン自身は、上の二者のような立場にはない。つまり、前者ではあり得ないからこそ彼は「ペシミスティック(悲観的)」だと評される「暗さ」を持っているのであり、しかしそこに安住してはいけないという意志を持つからこそ、本書の最終章では人間の「理性に訴える」という抵抗を試みて見せた。リップマンは、岩波文庫版解説者・掛川トミ子の曰く『感動的でさえある』かたちで、自身の『ヒューマニズムの精神』を語って、自らが本書に示した洞察に、自らフォロー入れないでは済ませられなかったのである。
だが、無論、彼のヒューマニズムに発するこのフォローは、いかにも弱い。さんざ、人間の暗い宿命を描いてきた後に、取ってつけたように「人間の理性に訴える」と言われても、本気で言っているのかという疑念は拭えないし、そこに本書の限界と問題点があるのだと言えよう。
言語学者で社会運動家のノーム・チョムスキーは、リップマンに対して、かなり厳しい態度を採っている。
それは、リップマンがジャーナリストとして、マッカーシズムやベトナム戦争に対して鋭い批判を投げかけ、ある意味ではチョムスキーと同様の「権力への抵抗者」であったことを百も承知していながら、それでもリップマンには看過しがたい「罪(功罪のうち罪の部分)」があったと、チョムスキーが厳しい評価を与えていたからではないだろうか。
そして、その「リップマンの罪」とは、「民衆は民主主義を支えられない存在であり、専門家・エリートに頼らざるを得ない」として、結果的にではあれ「専門家・エリートの特権」にお墨付きを与えてしまった、彼の「ペシミズム(悲観主義)」であり、その「悲観的な人間観・世界観」なのではないだろうか。
そこでチョムスキーが、リップマンの「ペシミズム」に対置したものとは、たぶん、アントニオ・グラムシの「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」なのではないかと私は見ている。
away氏は、そのブログ「風の歌が聞こえますか」で、グラムシを論じて、次のように語っている。
つまり、私たちは、リップマンの『世論』を読んで「だから大衆はダメなんだよね」とか「民主主義って、もともと幻想に立脚したものであって、建前どおりに行かないのは当然なんだよ」などと訳知り顔をし「知的エリート」にでもなった気分でいられる「天然の楽天家」の少なくない現実を目の当たりにしてでも、しかし「知識人的ペシミズム」に止まるわけにはいかない。そこに安住するわけにはいかないのだ。
リップマン自身が、そのペシミズムを押し殺してでも「権力への戦い」に赴いたように、「真の知識人」たらんとするのであれば、私たちもまた「意志のオプティミズム」に立たなくてはいけない。
また、それこそが、リップマンの抱えた「矛盾」を、リップマンとともに越えて行こうとすることなのではないだろうか。
初出:2019年10月19日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○