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人間の人間たる〈自己超克〉 : 堤未果・ 中島岳志・ 大澤真幸・ 高橋源一郎 『支配の構造  国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか』

書評:堤未果・中島岳志・大澤真幸・高橋源一郎『支配の構造  国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか』(SB新書)

本書は、NHKーEテレで放送された『100分de名著スペシャル〜メディア論』の好評を受けて、新たにメディア関連の本4冊を採り上げて論じた、活字版の『100分de名著スペシャル〜メディア論2』といったところのものだ。

本書で採り上げられる4冊は、ハルバースタム『メディアの権力』(堤未果)、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』(中島岳志)、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(大澤真幸)、ブラッドベリ『華氏451度』(高橋源一郎)である。

私はテレビの『100分de名著スペシャル〜メディア論』を視ていないので、そちらがどういう内容だったかは知らないが、本書の「国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか」というサブタイトルから推すと、テレビの方も、いわゆる「マス・メディア」の問題を中心に論じたものだったと推察される。
しかし、私が本書で特に興味を持ったのは、テレビや新聞あるいはインターネットといった「マス・メディア」ではなく、イマドキは「マス」と呼べるのかどうかも疑わしい、書籍を扱った部分だった。

『 「単純化」が思考する力を奪うことの弊害は、技術の進化と大衆搾取とともに、今社会のあちこちで歪みを生み出しています。先日、香港の「雨傘革命」を率いた主催者の一人である女性が、インタビューでこんなことを言っていました。
 彼女はまだ20代なんですが、自分より若い10代の子たちを見ていると不安になる、と。なぜなら、その世代の子たちが「活字を全く読まない」からだと言うのです。単に紙媒体からデジタルに移行したという話ではなく、少しでも長いもの・複雑なものは受けつけない。ユーチューブの動画でさえ「長すぎる」といって見ようとしない。流行っているのはLINEスタンプのような絵文字や、インスタグラムのような写真掲載アプリ、1分間の動画アプリTikTokなどで、「可愛い」「美味しい」「イラつく」……など、皮膚感覚的にキャッチできる喜怒哀楽だけをやりとりしている。
 感情などを丁寧に言語化する習慣が、ほとんどないというのです。』(P205〜206、堤未果)

言うまでもなく、堤がここで言っているのは、「若者」にかぎられた話ではないし、「活字」であればいいとか「活字」じゃなければダメだ、などといったことでもない。

だが、活字に親しんでいない人の「単純化」された(正確には、複雑化されていない)頭からは、脊髄反射的に「活字だけが偉いのか」とか「何様のつもりだ。上から目線で、○○をバカにするな」といった反発しかかえってこないだろう。
物事を丁寧に観察検討して、その意味を読み解くといった「面倒なこと」は、それに喜びを感じる人にしか出来ないというのは、理の当然だからである。
そしてその結果が(いささか極端な言い方ではあるものの)、

『日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。』
(橘玲『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』より)

ということにもなるのであろう。

じっさい、小説を読むと言ってもラノベしか読まないとかエンタメしか読まないといった人は少なくないだろうし、政治・社会関連の書籍を読むと言っても、見出し的なアピールばかりが派手で客観的考察に欠ける短文ばかりの載った「オピニオン雑誌」の類いしか読まない人も多い。
彼らは、「新しい視点を得ること」つまり「自己を相対化して発展させること」を望むのではなく、ひたすら「今の自己が追認されること」つまり「変わらないで済ませること」を望んでいるのである。

『 では、本の本当の価値とは何か? 考える必要があると思います。小説(※ 『華氏451度』)の中でも、単に「情報をたくさん集める」ということと「本を読む」ということが対比されて書かれていますが、私は本を読む意味をこうとらえています。ただ「こういうことが書かれてあったな」と情報を増やすことではない。本を読んで良かったなと思うのは、その本を読んだことで、世界の見え方が少し変わった、と感じるときです。つまり、本を読むことで、世界について一つの情報が増えるのではなく、世界の見方そのものが揺らいでしまうことです。
 「揺らぐ」ことによって不安になる面もあります。しかし、その不安がなければ生きている意味も感じません。「本を読むと人は不安になる」というと、ネガティブにとらえる人もいるだろうけれど、実はそれが本の一番いいところじゃないでしょうか。
 もちろん、そんな力を持った本はたくさんあるわけではないけれど、それでも何十冊、何百冊と読むうちに必ず出会うことはできる。その瞬間のためにこそ、人は本を読んでいるはずなんです。』(P208、大澤真幸)

自身の「従来の世界の見方」が揺らぐことを喜べるのは、自身の知が「世界の現実」に食いついていき、それを咀嚼できる力がある、と信じられる人間だけだ。
自分はバカだとどこかで自己卑下している人間は、自己保身のために「今の自分の世界観」を追認してくれるものだけを掻き集め、その手垢にまみれた防御壁によって「今の自分」を守り、それに閉じこもってしまうのである。

むろん、今の世の中には、面白いものがたくさんあるし、私は(そして堤も大澤も)そうした「娯楽」を否定するわけではない。私自身「娯楽小説」も「娯楽映画」も「娯楽マンガ」も楽しんでいる。だが、それだけでは「バカになる」と言うよりも「知的未熟」に止まるしかない、ということであり、そうした「知的に未熟な人間」を、知的に勝った(かつ、他者に不誠実な)権力者がコントロールするのは容易なことだ、ということなのだ。

「知的に未熟な人間」の最大の問題点は、自身の「知的未熟さ」への無自覚である。知的に未熟であるからこそ、自身の知的未熟さに気づかず、独り善がりな自信(自己正当化)を振りかざして「学び」を拒絶しがちなのだ。

「娯楽」が悪いわけではない。しかし「知性」を磨かなければ、人間もまた「飼いならされた豚」にも劣る存在でしかないということに気づかなければならない。
人間以外の動物は、その種の範囲においてしか学習しないけれども、人間はどこまでも学習し、人間であることを超えていこうとするその知性において、人間なのである。
たとえそれが、時に不幸をもたらそうとも、人間が人間であるかぎり、知を求め、物事の本質を考え抜こうとするものなのだ。安易に自足できない知的欲望こそ、人間の人間たる所以なのである。

「太った豚より痩せたソクラテスたれ」

という言葉は、人間の「理想」というよりも、人間が人間であるための「条件」なのではないだろうか。

初出:2019年8月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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