池上彰、佐藤優『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』 : 〈ナイーブな読者〉は騙される ・ 真説 佐藤優論
書評:池上彰、佐藤優『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』(講談社現代新書)
池上彰や佐藤優の本は、基本的には「入門書」である。もちろん「入門書」が悪いというのではないが、「入門書」を読んで「わかったつもり」になる人の少なくないのが、大いに問題なのだ。
そして、本書では特にそうだが、池上彰と佐藤優は、読者の多くが、本書を「日本の左翼に関する入門書」として読むことを前提として、「党派的プロパガンダ」を行なっているところが、巧妙かつ極めて悪質でなのある。つまり、本書著者は、決して「中立公正」などではないのだ。
しかしまたそれは、佐藤が「ロシア担当の外交官」だった人であり、「インテリジェンス(諜報活動)」の経験と知識を売りにして出てきた作家であることを考えれば、何も怪しむには足りないことだと言えよう。
例えば、日本共産党の「敵の出方」論を、本書で初めて知ったというような「ナイーブな読者」ならば、佐藤と、その忠実な伴走者である池上による、巧みな「掛け合い」を聞かされれば、それを「日本の左翼」についての「基本理解」として刷り込まれるのも、やむを得ないところだし、著者の二人の狙いも、まさにそこにある。
彼らは「ひよこが、生まれて初めて見たものを親だと思う」という「刷り込み」理論に依拠して、「日本の左翼」について、ある程度知識のある者からすれば、かなり「党派的」で一方的な「個人的評価」を、臆面もなく語って見せるのだ。
これは、たいへん話題になりベストセラーにもなった、百田尚樹の『日本国紀』にも、類比的だと言えるだろう。
要は、著者は、その「主観(党派的見方)」に合わせた「歴史記述」を意図的に行なっており、客観的たらんとする意志など最初から持ってなどいないのだが、その「ファン読者」は「これこそ、真の日本の歴史だ!」などと思い込んでしまって、裏付けのために、反対党派の書物や専門学者の本を読もうなどとは、考えもしないのである。
それでも、百田の『日本国紀』の場合は、「歴史書」を標榜したがために、歴史学者からの厳しい検討と批判にさらされたのだが、本書の場合、最初から「著者たちの経験に基づく、主観的判断で書かれている」ということを隠してもいない「お手軽な新書本」なので、研究書のような「客観性」を求められることもなく、「そういう考え方や立場もある」ということで、大筋で容認されてしまうのであろう。
だからこそ、問題なのは、読者の方が本書を、「教科書」や「学術書」のような、可能なかぎり「事実に即して客観的に語ろうとした書物」ではない、という事実に気づきにくい点にあるし、二人の著書の狙いもまた、そこにあったのである。
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わかりやすい部分で説明しよう。
例えば、佐藤優は、本書の前半において、日本共産党の「暴力性」と「二枚舌(の非倫理性)」を、批判しているかのように読める。要約すれば、こんな感じだ。
「日本共産党は、暴力革命論を捨てて平和革命論を採ったかのようなことを言っているけれども、それは世間の目を欺くための、大嘘だ。だからこそ、暴力革命論を肯定するような過去の指導的著作を、絶版にして一般の(外部の)目に触れないようにはしても、それそのものを批判否定してはいないし、事実、敵の出方しだいで対抗方法を変える、敵の出方論を展開してもいる。つまり、日本共産党の本音とは、暴力を使っても資本主義体制が転覆できない現状にあっては、次善の策として、議会活動を通じ民主主義的な手続きに乗っ取っての勢力の拡大を図っていくけれども、いざ革命の好機が到来すれば、暴力的手段の使用も辞さない。なぜなら、彼ら共産党にも、敵の暴力装置である自衛隊や警察に対しては物理的に対抗する必要があるからで、原理的に、武力抵抗する権利や手段まで放棄したりはしないのだ。つまり、暴力革命論の放棄は、まったく嘘であり、詭弁であり、背信だ」という理屈である。
そして、現在の多くの日本国民は「暴力=テロリズム=悪」だと考えているから、「やっぱり共産党は怖い」と、そう単純に刷り込まれてしまう。
しかし、実のところ、佐藤優は、こうした「政治的リアリズム」に発する「暴力性」や「二枚舌」を、決して否定してはいない。
事実、本書後半で、最後はソ連(現ロシア)の力を借りてでも「革命」を実現する必要があると考えていた(であろうと佐藤が考える)、日本社会党系の「社会主義協会」の理論的指導者であった向坂逸郎を、次のように絶賛している。
これは「当たり前」の話である。
今のこの世の中を構成する「根源悪」としての「政治体制」を根底から変えるために「革命」が必要だと考えれば、自らの「一切の暴力を否定する」ことなど、もとより不可能なのだ。
なぜなら、前述のとおり、現体制だって、いざとなれば、その政治体制を守るために保有している「暴力装置」としての自衛隊や警察を使わないわけがない、からである。
もちろん、ごくごく稀に「(ほとんど)無血革命」というのも存在しているが、そうした「ごく稀な幸運」に期待していては、政治体制の転換などという大仕事ができないというのは、言うまでもないことなのだ。
では、向坂逸郎を「頭が良くて、本気の人」だとして高く評価する佐藤優自身は、「革命」について、どう考えているのであろうか?
当然これは「革命を本気で目指していた人たちの純粋な志には敬意を表するが、自分としては革命を目指そうなどとは思わない」という立場であろう。
そうでなければ「暴力を否定する一方で、革命を支持する」という「矛盾」を孕むことになってしまい、日本共産党と同じ「不徹底な二枚舌」になってしまって、日本共産党を責める資格など無くなってしまうからである。
つまり、佐藤は、少なくとも表向きは「暴力を否定するので、革命も否定する」から、したがって基本的には「現政治体制を容認支持する」ということになる。
佐藤優が、なぜ「右派」や「保守派」の人間とも「意気投合しているかのように、付き合ってみせる」のか。なぜ、自民党と連立与党を組む「公明党」を支持し、その支持母体である「創価学会」を支持し、その精神的支柱である「池田大作名誉会長」を絶賛するのか。なぜ「電気事業連合会からお金をもらって、原発推進に協力する」のかと言えば、それは佐藤優が「現体制支持者」だからに他ならない。
たしかに佐藤は、本書で自ら語っているように、日本社会党の下部組織である「社青同(日本社会主義青年同盟)」の出身者である。
しかし、「かつては社会主義革命を志していた」というのは、ほぼ間違いのない事実だけれども、要は多くの「革命青年」たちが、道半ばで挫折して、その志を捨てていったように、佐藤もそんな「いちご白書をもう一度」青年の一人であった、ということなのだ。
つまり佐藤は、今もマルクスを愛読すると言うとおりで、その若き日には「革命青年」の一人であったけれども、その道で挫折したので、かわりに「キリスト教」の道へとのめり込んでいき「神学」を身につけることになる。
そして、その「左翼思想」と「キリスト教神学」という「二つの武器」を持って、「国家に仕える外交官(スパイ)」となって、ロシアを担当することになったのである。
(ちなみに、一部では、池上彰も「社青同」出身だ、との指摘もなされているが、本書では、池上本人も佐藤も、その点に触れていない)
このように見ていけば明らかなとおり、佐藤優は、本気で「革命家」を否定したりはしていない。
たしかに現在では、「革命思想」は現実的ではないと否定しているが、「革命を本気で志した人たち」に対する「敬意」と「羨望」と「後ろめたさ」の方は、決して無くしていないのである。だからこそ、「暴力革命を自明視していた、リアリストの革命家である、向坂逸郎」を、褒めないではいられなかったのだ。
だから、佐藤優が日本共産党を批判するのも、それは「暴力性」の点からではなく、その「不徹底さ」においてなのである。
つまり、日本の現状を知らずに指示を出してくる「コミュンテルン」に盲従したり、状況を読めずに無理な革命行動を起こして潰されたり、といったその「甘さ」が、向坂逸郎のような社会主義研究会系の「徹底したリアリズム」に憧れを持つ佐藤には、我慢ならない「不徹底なもの」に映るのだ。
だが、言うまでもなくこれは、「革命家」に徹ししれなかった自分自身の「醜い似姿」として、「日本共産党」が「癇に障る」ということでしかなく、そもそも「革命」を諦めて、現体制に服従する道を選んだ佐藤が、偉そうに言えることではない。
まただからこそ、佐藤は、いかにも否定的に評価していたかのような宮本顕治についても(創価学会と抱き合わせ評価ではあれ)、「敵の出方」論という「リアリズム」戦略を採用した点では、たいへん高く評価してみせるのである。
一見「皮肉」のようにも聞こえるが、政治的「リアリズム」を高く評価している佐藤が、宮本顕治に対する否定的な評価を翻すかのように、ここでは宮本を高く評価する点に「嘘」はないだろう。だが、そこに、ちょっとした「違和感」をおぼえた人は、まったく正しい(感じなかった人は、本の読めない人だ)。
なぜ、佐藤優は、「二枚舌」の典型である「敵の出方」論を編み出した宮本顕治のような「不誠実な人間」を、これほど高く評価しているのだろうか? これは、佐藤自身の「矛盾した態度=一貫性のない主張」ということになるのではないか?
そうではない。
佐藤は「革命」に憧れたけれど、それに挫折して「社会革命の夢」を捨ててしまった「現状追認者=負け犬」である。
けれどもまた彼は、今も「徹底性」や「リアリズム」に憧れているおり、だからこそ、「目的」実現のためであれば、「二枚舌」もまた「リアリズム的手段」の一つとして、決して否定してはいないのだ。だから、宮本顕治を「二枚舌のリアリスト」という点で、高く評価できるのである。
考えても見て欲しい。「日本政府のスパイ(諜報活動従事員)」となった佐藤優に、「二枚舌」を否定することなど、できる道理はない。「嘘をつかないスパイ」などという存在を信じる人がいたとしたら、それはよほど「おめでたい人」としか評価し得ないだろう。
つまり、佐藤優という人は、じつは「外交官」になった段階で、自らもまた「目的は手段を正当化する」という思想を受け入れていた人なのである。
これは、一見したところ『目的が手段を浄化する』という思想(考え方)を「否定」しているかのように見える。しかし、それは違う。
佐藤がここで言っているのは「思い込んで」しまい突き詰めてしまうと、殺人も正当化されてしまって悲惨なことになる、という「事実を指摘している」だけに過ぎない。
言い換えれば、先にも論じたように「革命=社会体制の根本的変革」を本気で考えれば「暴力」は否定できないし「殺人も許されるという思想(目的が手段を浄化する)」も否定できないのだが、そこへ一直線に突っ込んでいっては、本末転倒の悲惨な自滅にもなってしまうので、頭を使って、その「極論化」をコントロールしなくてはいけない、といったあたりが、「革命」に挫折した佐藤優に許された「自己正当化のためのロジック」なのである。
つまり、佐藤は「殺し合い」までは避けたいのだけれど『目的が手段を浄化する』という思想自体は否定していないし、否定できるものではない。なぜなら、彼は現に「国家スパイ」であり「国家を守るためには、嘘や背信は許される=目的が手段を浄化する」と考えていた人なのだから、自身を支える思想を、本気で根底から否定批判することなどできるわけがないのである。
では、佐藤優の「目的」とは何か?
それは「革命」でもなければ、たぶん「国家体制の維持」でもない。「国家体制の維持」のためには働きはするが、それは「目的」ではなく、「手段」なのだ。
ならば、その究極の「目的」とは何か?
一一それは「自分が幸せに生き延びること」なのだと言えよう。
だからこそ彼は、あちらにもこちらにも「いい顔」をして、できるかぎり「敵」を作らないようにする。
社会体制や状況がどちらに転ぼうとも、どっちにも「味方」を作っておけば、生き残れる可能性は大だ。
一つの思想の肩入れするからこそ、それが失敗した時には、それと心中しなくてはならなくなる。だから、佐藤優は、あっちにもこっちにもいい顔をして「保険をかけておく」のである。
無論、これは、思想的には「無節操」極まりない態度であるけれども、こちらから嫌わないかぎり、佐藤は、積極的に他人の立場を否定しないばかりか、むしろ追認し褒めてくれるのだから、どうしたって批判はしにくくなる。そして、それこそが佐藤の「狙い」に他ならないのだ。
つまり、「自分が幸せに生き延びること」というごく当たり前の「目的」のためなら、「無節操」であって何が悪い、「八方美人」や「コウモリ男」であって何が悪い、「生き延びるための嘘」のどこがいけない、人殺しを(直接この手で)するわけでもないのに。一一というのが、佐藤優の「リアリズム」だったのである。
これで、佐藤の「矛盾した言動」の説明がつくのではないだろうか。
現在の佐藤は、「左翼」でもなければ「隠れ右翼」でもない。佐藤は本書で、立憲民主党代表の枝野幸男を『ノンポリ』だと馬鹿にしているが、当然、佐藤優自身は「右でも左でもない」し「ノンポリ」でもない。
佐藤は、確信犯的な「自己主義者」なのである。「自分の幸せ」を目的として「自分」のために生きている「徹底的自己中心主義の実務家」なのだ。
佐藤優が、自身をこのように考える(定義する)ならば、彼は「リアリスト」であるということになるし、「二枚舌」も正当な手段だと考えることもできる。つまり、今の自身と生き方を、論理的(観念的)に「(ほぼ)完璧に正当化できる」のである。
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しかし、このような「観念的な正義」でその身を鎧っている佐藤優に対し、「お前は単なる、時流迎合の二枚舌男だよ」と、身も蓋もないことを言ってしまう男が現れた。
「王様は裸だ!」と叫んだのは、佐藤とも対談集を出しており、すでに「懐柔」したはずの「左翼」の一人である、佐高信であった。
佐高信は、およそ佐藤優とは、真逆の「情」に生きる人間である。
だからこその「反骨」「反権力」であり、「弱者の味方」であるという、じつにわかりやすい「左翼」であった。
そして、そんな佐高信からすれば、佐藤優は、所詮は「口だけ男」で、あっちにもこっちにも「媚」を売って「保身」を図ることしか考えてない「卑怯者」でしかない、ということになる。
だからこそ佐高信は、その著書『佐藤優というタブー』(旬報社)で、佐藤を告発した。
「こいつは、とんでもないペテン師だ」と。
なぜ、佐高は「佐藤優というタブー」と言い表したのか。
それは無論、佐藤が、あっちにもこっちにもいい顔をして恩を売り、そのことで、心理的な「結界」を張り巡らせて、右にも左にも、権力者にも弱者にも、「口封じ」をしていたからである。
「佐藤さんは博識だし、私たちのことを理解してくれているようだから、まあ、よくわからないところはあるけれど、きっといい人なんだろうし、深い考えがあるのだろう。だから、批判は手控えておこう」というふうに思うように、「コントロール」していたのである。これが「タブー」の正体だ。
しかし、「タブー(禁忌)」というのは、いったん破られてしまうと、その効力を大きく減じてしまわざるを得ない。
例えば、「女人禁制の禁域」に、最初に入ろうとした女性の前には、途轍もない「壁(抵抗)」が立ちはだかったことだろうが、いったん前例ができてしまえば、二人目からは、はっきりと「敷居が低くなる」のである。
だからこそ、佐藤優は、言論人としての恥を忍んででも、佐高を「刑事告発(名誉毀損罪)」と「民事裁判(賠償)」で告発しなければならなかった。要は、すでに「結界(予防線)は破られた」のだから、「言論」では勝てないのである。
しかし、だからと言って、このまま「佐藤はペテン師だ」という言説が広まってしまっては、身の破滅にもなりかねないと本気で恐るから、小心な佐藤は『目的が手段を浄化する』という思想の持ち主らしく、「リアリズム」的な対抗策を選んだ。
それが「スラップ裁判」である。
つまり「たとえ事実の指摘であっても、佐藤のことを率直に批判すると、裁判に訴えられるぞ」と、言論界に対して知らしめるため、佐藤優は、生き残りを賭け、恥を忍んででも、佐高信を告訴したのである。
だが、この程度の人間が、いつまでも「言論人」として幅を利かせていられるわけがない。
それなりに賢明な読者であれば、佐藤優の「一貫性のなさ」から、すでに、その「うさんくささ」に気づいているはずである。
私は、佐高の『佐藤優というタブー』のレビューのタイトルを「〈薄く広くかつ創造性なし〉が、雑学クイズ王・佐藤優の本質」として批判したが、なぜ佐藤優の「知識」が〈薄く広くかつ創造性なし〉なのかと言えば、それは彼の言論が、所詮は「自分を飾るためのもの」でしかなく、社会を変え他者を救う「力」を、まったく持ってはいないからだ。
だから、佐藤優を盲信しているような読者というのは、佐藤の出版業界におけるキャッチフレーズである『知の巨人』などという恥ずかしい形容を鵜呑みにできるほど、「本物の知の巨人による、知的な本を読んでいない」読者なのだと言えるだろう。
また、佐藤優が、かつて「外務省のラスプーチン」だと呼ばれたのは、ダテではない。
怪僧ラスプーチンが、多くの人たちを「たぶらかして」権力に取り入ったように、佐藤優もまた「人たらし」を自慢するような、まさしく「他者に不誠実な人間」だったのである。
「読書家」を自認する人ならば、もうそろそろ「佐藤優のペテン」から、目を覚ますべきなのではないだろうか。
初出:2021年7月16日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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