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高橋哲哉 『沖縄の米軍基地 ─「県外移設」を考える』 : 「中立的判定者」という自己誤認

書評:高橋哲哉『沖縄の米軍基地 ─「県外移設」を考える』(集英社新書)

高橋哲哉らしい、倫理的かつ論理的な、およそ「泣き落とし」の欠片もない、好著である。

「日本の国土の0.6パーセントの土地(沖縄の面積)に、在日米軍専用施設の約74%が集中している」この不公平な現実に、沖縄県民の全員ではなくとも、多くの者が不安と不満と怒りを感じている。そして、そんな不公平な負担を沖縄に押しつけたうえで、ほとんど無負担で日米安全保障条約の恩恵を被っているのが、われわれ「本土」人である。

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本書に関するレビューのいくつかに見られた、誤った本書理解は、著者の高橋哲哉の立場が「沖縄の声」に対して、受動的に応じるものだという理解だ。だが、それは違う。
高橋はあくまでも、沖縄に不合理で非倫理的な負担を強いている「本土人」の一人として、「主体的」に「米軍基地の移設を受け入れ、その負担を本土で引き受けるべきだ」としているのである。

したがって、「基地があっても良いとする沖縄人の声」を含む「多様な(沖縄の)声」を、高橋が無視したり単純化したりしているわけではない。高橋の主張とは、あくまでも「沖縄の人が沖縄に集中する弊害の多い米軍基地を拒絶するのは当然であり、安保を支持し享受するわれわれ本土人が、沖縄にそんな基地を押しつけておくのは、不合理で非倫理的だ」という主体的な主張であり、「自身の在り方(矜持)」を問うものなのである。
したがって、高橋は、沖縄人でも本土人でもない、この問題に責任を負わない「中立的な評論家」として語っているのではない。

しかし、本書のレビュアーの中には、自分が「中立的な評論家」だと思い込んで、その立場で本書を評している者がある。しかし、それは端的に、本書を理解できていない人としか呼べない。

沖縄人の読者は別にして、本書が差し向けられた「本土」の読者は、現に今も、沖縄に理不尽な負担を押しつけている(主体)者として、「米軍基地は、とうぜん本土で(われわれが)引き受ける」と声をあげられるか(それとも、黙って現状を沖縄に押しつけておくのか)と、個々に問われている。その事実だけは、決して読み落としてはならない。

沖縄の現状を学ぶのも良い。多様な声に耳を傾けるのも良い。しかし、それで「頭でっかちなコメント屋」になり、自己満足の惰眠を貪ることは、責任を引き受ける主体としての矜持ある日本人には、許されていない。われわれ「本土人」は単なる「中立的判定者(批評家)」ではないのだ、ということを決して忘れてはいけない。
本書が求めているのは、「レビュアーごっこ」ではなく、「本土人としての倫理(矜持)と行動」である。

私個人として言うなら「ひとまず、大阪に米軍基地を移設せよ」の一語である。

初出:2015年9月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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