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にゃるら 『僕は にゃるらになってしまった ~病みのインターネット~』 : やっぱり、人間だもの…。

書評:にゃるら『僕はにゃるらになってしまった ~病みのインターネット~』(角川書店)

そんなに前の話ではないのだが、この本を読もうとしたきっかけが、もう思い出せない。まあ、記憶力が無いのは、若い頃からなので、耄碌したというわけではないというところで、いつも安心できる。

ここ「note」でも、書くばかりでほとんど読まない私だから、どういう経緯でこの人のページに行き着いたのかもわからないが、著作があるとトップの自己紹介にあったので、Amazonの方を確認。すると「オタク・インターネット・病み」という感じのエッセイ本を出しているみたいなので、いずれも少しは知っているけれど、のめり込んだわけではない常識人として、ちょっと勉強しようかと思った。
ただ、海のものとも山のものとも知れない人の本をいきなり新刊で買うのももったいないので、ブックオフオンラインに登録しておいたら、最近入荷されたのでそれを買ったという次第である。

したがって、私が読んだのは古本だが、著者の「にゃるら」も、あとがきで、古本でも何でも読んでくれただけでありがたいと書いていたので、いい奴だなと素直に思った。
私も、書いたものを最後まで読んでもらえるだけでありがたいと思っているからで、にゃるらもきっと、稼ぐ必要がなければ、エッセイで金を取ろうと思いはしなかったであろう。

で、この本だが、簡単に言うと、「note」に発表した文章を中心に、書き下ろしも交えてまとめられた「自伝的エッセイ集」で、帯の『“にゃるら”の魂に迫るエッセイ集』という惹句が嘘偽りのない内容になっており、たいへんおもしろく読むことができた。いや、本当に良い本である。

それにしても、著者のペンネームが、平仮名書き「にゃるら」というのは、文章の中に文字列が埋もれてしまうようで、とても書きにくい。それなら、いつものように「」で括ればいいじゃないかと思う人もあるだろうが、あれはあれで、いちおう「強調」のためにやっていることだから、その意味もなく使いたくはない。
また、「note」で先に知ってしまったから、にゃるらというよりは、にゃるらさんと書くほうが自然な感じがするのだが、ここは「公人としての作家」であるにゃるらに、敬意を表する意味で敬称略の呼び捨てにしておく。

さて、この人は、沖縄出身で、当年29歳。母子家庭に育って、あまり学校にはいかなかったものの、オタクコンテンツには徹底的に触れたおかげで、大学入学のために上京しながら学校は続かなかったものの、「note」でエッセイを書くうちに、ライターになってしまった、というような人である。

しかし、ご当人も自覚しているとおり、文章は非常に達者で、テクニックもあって読ませるから、人気が出るのもよくわかる。
しかも、母子家庭で、ろくに学校へはいかず、オタクでありながら、沖縄という土地柄もあってヤンキーたちとの交友もあったし、上京してからは、社会的スキルの欠如のため働けず、シェアハウスでの貧困生活が続いて、合法ドラッグにも依存したという、かなり数奇な人生を歩んできたから、普通の人より体験的なネタが抱負である。

そうした人生が、幸福なのか不幸なのかの判断は、ご当人も書いているとおり、結局のところは本人の考え方次第だと私も思うが、これまでにも何度か書いたとおり、親が金持ちでもないのに「金に困ったことが一度もない」、総じて起伏が少なく手堅い人生を無難に歩んできた私としては、少々羨ましい感じがしないでもない。
私は、この人の親の世代だが、その私の感覚からすれば、学校へ行かないという選択肢は無かったというよりも、考えられなかった。勉強は嫌いだったものの、基本的には、真面目な優等生タイプだったから、子供は学校へ行って勉強をするものだというのを、信じて疑わなかったのだと思う。

ともあれ、にゃるらは、若いわりには、ある面では人生経験が質的に豊かで、単にオタク知識を売り物にしているだけの人ではない。
何と言ってもこの人の魅力は、それまでの人生で培われた人柄の宿った「文章」であり、要は「文章が生きている」のだ。

そして、興味深いのは、当然のごとく屈折している部分が多々あり、それを売り物にしつつも隠そうとするといった、本人にもコントロールしきれない複雑な屈折ぶりが、その地頭の良さによって、適度にコントロールされていて垂れ流しにはなっておらず、ほぼ「自己憐憫が無い」という点だ。

普通、こういう「強がりと泣き言」が交互に出てしまうような、それをまた「演技している私」として売り物にするような、そこで同情を惹かんとするような、そんな屈折した自意識のあり方を、私は好まないのだが、この人の場合は、演技による「可愛らしさ」演出の奥にある「本物の可愛らしさ」が感じられて、好感が持てた。
簡単に言えば、「太宰治」には苛立たされて仕方のない私なのだが、この人に関しては、「いろいろとしんどいだろうが、体を壊さないようにして頑張れよ」と言いたくなるのである。

この人が、明晰に自身の現状を理解しているというのは、エッセイを読めばよくわかる。
だが、明晰だからこそ、現状の危なっかしさにも自覚的であり、かと言って、自らの欲望に抗えない自身の弱さにも自覚的だから、結局のところ、自分を変えられないと自覚しているために、将来への不安から脱却できないというのは、不幸なことだと思う。

また、よく言われることだが、好きなことを仕事にするというのは、やはりシンドイことだ。
いくら彼が、筋金入りのオタクだとは言っても、いつまでもそれまでの知識を切り売りにするだけでは、すぐに消費され、枯渇してしまう。だから彼は、自覚的にオタクコンテンツを摂取していて、そのこと自体は、今でも楽しいというのだから幸いなことだが、文章を書くのはしんどいと漏らしているのは、とても正直で好感が持てるのものの、当人としては、つらいところだろう。
これだけ書けるのだから、私みたいに、収益化を考えずに趣味で書いていたなら、決して、つらくなることなどなかったはずだからである。

(PN「にゃるら」は、「ニャル子さん」と同様、ラヴクラフトの「ニャルラトホテプ」由来だそうだ)

ともあれ、彼自身感じているとおり、いくら知識を新たに補ったところで、加齢とともに、その感性も高齢化していくのは仕方のないことだ。感性が鈍るという意味ではなく、若年層の感性には合わせていられなくなるということで、これはどうしたって避けられない。

だから、理想としては、年相応の読者層に向けて書けばいいし、それに応じて趣味も変わっていけばいいのだが、そうなると、商売としては「オタクコンテンツライター」というわかりやすい「肩書き」ではなく、肩書きのない「プロの作家」ということになるから、それはそれでしんどいことだろう。

人間、楽しいことだけして生きていたいものだし、それは決して間違いではないのだけれど、彼のような才能を持ってしても、死ぬまでそのような人生が歩める保証など無いというところが、この現実の厳しさだ。

これから先のことを考えると、不安になったり開き直ったりで、精神的につらくて薬に頼りがちにもなるだろうが、どうか、平凡な生活を確保できるようになって欲しいと思う。

結局のところ、頭が良くて才能があっても、強くなければ生きることができないのだから、もっともっと強くしたたかになって欲しいと思う。

まるで、補導した少年に説教をしているような内容になってしまったが、これは心からの言葉である。

私は、おまわりさんをやっていた頃から、補導した子供たちに対しては、本音で話しかけている、という自負があった。だから、子供相手に本気で口喧嘩をして、よくやり込めてもやったが、それはまだどこかに期待があるからで、バカな大人相手なら、適当にハイハイと事務的に処理してもいたのである。

にゃるらの本は、あと一冊『承認欲求女子図鑑 SNSで出会ったヤバい女子たち』も入手済みなので、そちらは読むだろうし、いちおう「note」アカウントもフォローしておいたが、「note」の方は、ほとんど読まないんじゃないかと思う。

ともあれ、にゃるらの中の子供の部分が生き延びたその上で、強くなって欲しいと、心からそう願っている。


(2023年3月12日)

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