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人恋うる 〈小さきもの〉への愛 : 安野モヨコと 庵野秀明

書評:安野モヨコ『監督不行届』(祥伝社)、『オチビサン』(朝日新聞出版)

言わずと知れた庵野秀明との出会いは、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズであった。
当時すでに私は、テレビアニメとも距離を取っていたから、本放映でちゃんと視たわけではない。テレビを点けた時にたまたまやっていた回を、2、3回視ただけだったと思う。
私は、当時すでに読みきれないほど所蔵していた未読の活字本を読むために、シリーズ物のテレビ番組は、ドラマ無論、大好きだったアニメさえ、自主規制して視なかったのだ(だから、劇場用アニメだけは視ていた)。

私がテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』を通してみたのは、友人から揃いで貸し与えられた「録画ビデオ」によってである。その当時すでに『エヴァ』はブームになっており、再放送くらいはされていたのかもしれない。

当時の私は、「新本格ミステリ」ブーム下、同人誌に評論を書いていた。関東に手塚隆幸という同人誌作りに熱心な男がいて、評論の書けそうな全国のミステリマニアに声をかけて、月に1冊くらいかも知れないほどのハイペースで、『綾辻行人研究』や『竹本健治研究』『清涼院流水研究』『天城一研究』といった「ミステリ作家研究本」、あるいは『御手洗潔研究』『牧場智久研究』『鬼貫警部研究』といった「名探偵研究本」を次から次へと企画し、そのたびに「書いてくれ」「書けないか」と手紙が届いたのである。

しかし、手塚はそれに飽き足らず、アニメや特撮番組なども好きだったせいで、ミステリとは関係のない、そういったジャンルの「研究本」同人誌も企画刊行した。私が協力したものとしては『仮面の忍者赤影研究』などがあったが、そうした企画の一つとして『新世紀エヴァンゲリオン研究』への原稿執筆依頼が来たのである。

だが、その当時の私は、『エヴァ』を通しで視てはいなかったし、まだ「レンタルビデオ」も出ていなかったくらい時期だったので、その旨を記して「書けない」と返事を送ったところ、手塚から「録画ビデオを送るから、それを視て原稿を書いてくれ」という返事が来たので、私もそこまでしてくれるのなら、気になっている作品ではあったし、この機会に視てもいいかと思い、原稿執筆依頼に応諾したのである。

○ ○ ○

その当時すでに、庵野秀明は、一部マニアの間では、『王立地球軍 オネアミスの翼』(作画監督)や『ふしぎの海のナディア』(総監督)などの作品で注目された存在であった。

一方、私の方はもともとプラモ趣味もあったから、庵野がアニメ監督としてデビューするずっと前に、大阪・桃谷にあった、ガレージキットやオリジナル工具などを製造販売していた「ゼネラルプロダクツ」(「ガイナックス」の前身)で行われた、自主制作作品「ダイコンフィルム」『八岐之大蛇の逆襲』『愛國戰隊大日本』『快傑のーてんき』、そして、若き庵野秀明が主演した『帰ってきたウルトラマン』などの上映会に足を運んでおり、それが庵野を庵野と意識せずに見た、庵野との「すれ違い」だった。ちなみに、庵野秀明は、私の二つ年上である。

(庵野秀明主演『帰ってきたウルトラマン』)

つまり、私はかなり早い時期に庵野秀明の関わった作品に接してはいたのだが、作品名こそ知ってはいても、まだ庵野秀明個人については全く意識しておらず、アニメ雑誌などで『王立地球軍 オネアミスの翼』が大きく取り上げられた頃にも、そのキャラクターデザイン(『エヴァ』の貞本義行)が「いまいち垢抜けしない」という理由で興味を示さなかった。

そもそも『王立地球軍 オネアミスの翼』にしろ『ふしぎの海のナディア』にしろ、その「ウケ方」が、いかにも「オタク」的だったので、私はそこに嫌悪感を感じていた。
そうした作品の評判とは、曰く「この作品は、あれやこれを押さえた作品だ」「あれこれのパロディーだ」といったもので、そんな「マニアックかつ瑣末主義的な知ったかぶり」が大嫌いだったのだ。だから、よけいに作品の方も、食べず嫌いならぬ「見ず嫌い」だったのである。

『王立地球軍 オネアミスの翼』

アニメファンとしての当時の私の自己認識は「ハードな人間ドラマ派」とでも呼べるものだった。
私が一番好きだったアニメ演出家は出崎統であり、アニメーターは杉野昭夫だった。つまり、「虫プロ」出身で「東京ムービー新社」を経て「あんなぷる」を設立した、かの黄金コンビ「出崎統・杉野昭夫ペア」の熱心なファンであり、『あしたのジョー』『あしたのジョー2』『エースをねらえ!』『宝島』『家なき子』といった二人の作品と、杉野がキャラクターデザインと作画監督をつとめた『マルコ・ポーロの冒険』や『ユニコ』『坊ちゃん』といった作品に惚れ込んでいたのだ(ちなみに、私は当時、杉野昭夫のファンクラブ「杉の子会」にも入会していた)。
そして、そんな私だから、「マニアックな瑣末主義的知ったかぶり」が大嫌いだった。私は今も昔も、「力石徹」のストイックさに惚れ込むタイプの人間なのである。

(原画・杉野昭夫)

私は今でも、アニメやマンガやプラモが好きだから、世間的には「オタク」ということになるのだろうが、厳密に言えば、私は「オタク」(や「マニア」)ではなく「熱心なファン」であって、瑣末な情報蒐めなどには興味がなかった。情報とは、あくまでも作品をより深く理解するためのものであって、それ自体が目的ではない。無駄に情報を山ほど集めても、そんなものはゴミでしかなく、そんな知識をひけらかすような奴ら(オタク)はバカだと思っていた。また、今も、こうした思いに大差はない(だから「現代思想」オタクなどにも嫌悪感を感じる)。

当時の私の思いを代弁するようなマンガがあった。かの「スタジオぬえ」出身の、若き細野不二彦が描いた『あどりぶシネ倶楽部』(1986年)という1巻本の作品で、映画作りを志す、大学の映画研究会メンバーの活躍を描いた青春マンガである。

学祭用にクラブでSF映画を撮ることは決まり、主人公が監督に選ばれる。ところが、個性派の揃った部員たちを、うまく束ねることができない。中でも、抜群に絵の上手い男性部員(※ 外注スタッフだったかもしれない)がいて、彼は宇宙空間や惑星など、宇宙船の模型による特撮シーンの背景画を担当したのだが、もともと実写映画のファンではなくアニメオタクだったから、リアルな宇宙空間を描こうとせず、趣味に走ってアニメ的な背景画を描いてしまう。そうしたことに、監督である主人公は頭を悩まされるのだが、そんなある日、その美術担当の部員が自作の背景画の片隅に「バルキリー」描いて、その「遊び心」を自慢をしている。無論、映画本編とは全く関係のない「お遊び」である。主人公側の先輩が、こうした制作に取り組む真摯さに欠けた態度に切れて、このあまり協力的ではなく、自分勝手な男性部員とぶつかってしまう。一一といったような展開だったと記憶している。

細かいところは記憶違いもあるかも知れないが、この自分勝手な男性部員が「関西弁」だったのは、いかにもなことなのでハッキリと記憶しているが、いずれにしろ、私は主人公の方に、完全に感情移入していた。
と言うのも、私が高校2年で漫画部の副部長をしていた頃、部で「文化祭」用に「スライドストーリー」を作ろうと決まったのだが、絵の上手い後輩にかぎって、自分の好きなところだけに好きにこだわって時間をかけ、全然、全体のスケジュールも何にも配慮しない、自分勝手な手合いだったのである。そのため、監督ならずとも実質的なまとめ役兼進行係をだった私は、絵も人一倍枚数をこなせば、ドラマ音声の録音や編集、効果音やBGMとのミキシングなども一手に引き受けなければならず、大変な苦労を強いられる経験をしていたのだ(このへんで『映像研には手を出すな!』には懐かしさを感じる)。

そんなわけで、私は『あどりぶシネ倶楽部』の主人公に感情移入したし、この作品も、主人公の肩を持つ内容となっており、自分勝手な「オタク」は、最後は皆と協力するようになるものの、いったんはギャフンと言わされる、明らかな憎まれ役だった。

そして、私の「一般的なオタク」のイメージも、おおむねこうしたものだった。要は「知識や技量は豊富に持っているが、基本的に視野が狭く、独りよがり」というものだったのである。
そして、そうした「オタク」観を持っていたから、『王立地球軍 オネアミスの翼』や『ふしぎの海のナディア』の盛り上がりについては、実に冷ややかに距離をおいていたその結果、庵野秀明との本格的な出会いは、『新世紀エヴァンゲリオン』にまで持ち越されることになったのである。

もっとも、こんな私であったからこそ、のちに『新世紀エヴァンゲリオン研究』に書いた原稿は、「問題の最終2話」を肯定するものだった。

それまでの「マニアックなドラマ展開」で、『エヴァ』の評判はうなぎ上りに高まっていた。ところが、庵野監督は、そのドラマをぶち投げるような「メタ的オチ」を付けて、ファンの期待を大きく裏切り、その結果、熱心な「オタク的ファン」たちから、可愛さ余って憎さ百倍の、激しいバッシングを受けていたのだ。

(テレビシリーズ最終回)

一方、「オタク嫌い」で「メタ好き」「批評性好き」の私は、「あのぶち投げ方は痛快だ」と感じていたので、オタクどもがが腹を立ててキレれば切れるほど「ざまあみろ」という感じしかなかったし、庵野がインタビューなどで漏らした「オタクの閉鎖性への嫌悪」には、まったく同感した。

その当時、そもそも自身が「オタク」であったはずの庵野秀明が、どうして「オタク」を嫌悪するようになったのか、などといったことまでは詮索する気もなかったが、私はテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終2話によって、庵野秀明と本格的に出会ったのである。

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したがって、その後の劇場版には「気長に」付き合った。
そして、劇場版が公開されるたびに観ては「たしかに映像的には凄いけれども、作品としては、何かが足りない」という印象が付きまとい、とうてい満点を与える気にはならなかった。最初の劇場版シリーズである『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作については、気に入ったのは、一番最後の、アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」だけであった。

だから、劇場版の第2シリーズ全4作には、さほど期待もせず付き合い続け、これも最後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』で、この意外にも「ぽかぽかして、収まるところに手堅く収まったような終わり方」だけを評価した。
偉大な作品の最後にしては、ややまとまりすぎの印象もあったが、だが、少なくとも「同じことの繰り返し」を脱して、一つの結末に達したという感じはあったので、「これはこれでよかったのだろう」と納得したのである。

そして、今回だけは、私と世間の評価もおおむね一致したようであった。
たぶん、もう「オタク」的な評価の仕方は、良くも悪くも主流ではなくなっていたのだと思う。庵野秀明が変わったように、すでに、時代の方も変わっていたのであろう。

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そんなわけで、刊行後16年にして、やっと、安野モヨコ『監督不行届』を読む気にもなった。
これまで読まなかったのは、こういう「楽屋裏もの」は、あまり好きではないからである。

安野モヨコ『監督不行届』

しかし、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』で、庵野が変わったことを確認し、そこに興味を惹かれて、NHKで放送されたドキュメンタリー「さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」を視るに及んで、この機会に『監督不行届』も読もうと思ったのだ。

で、『監督不行届』はどうであったか。
感想としては「さもありなん」「なるほど、そんな感じだろうね」という感じで、マンガ本編からは、特に強い印象を受けなかったのだが、印象に残ったのは、本書の「解説」に当たるのだろう、巻末に収録されたインタビュー「庵野監督 カントクくんを語る」での、妻・安野モヨコへの率直な評価と愛情の吐露であった。

『 嫁さんはただのオノロケマンガにならないよう、読者サービスを主体にいつも真摯に考えていましたね。読者が面白いと感じてくれそうな逸話だけ厳選してマンガにしてます。自分もそれにできるだけ協力していた感じです。
嫁さんは自分を美化できないんですよ。自分達をすごくストイックに描いている。これがいいとこでもあるんですが、弱点でもあるんです。登場人物があまり自己陶酔の世界に行かないと、読者のナルシスな部分を触発しないので、そこのところで本来の面白さが伝わらず、誤解されてしまう感がありますから。』

(『監督不行届』P141)

『 嫁さんのマンガのすごいところはマンガを現実から避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さんが本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』(※ 2005年時点。テレビシリーズと劇場版の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作)で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。
 流行りものをすぐに取り入れる安直なマンガが多い中で、自分のスタイルやオリジナルにこだわって、一人頑張って描き続けている。そんな奥さんはすごいと思います。自分よりも才能があると思うし、物書きとしても尊敬できるからこうして一緒にいられるんだと思います。
『エヴァ』以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差してた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれましたね。自暴自棄的でした。
 結婚してもそんな自分はもう変わらないだろうと思っていました。けど、最近は少し変化していると感じます。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです。オタクであってオタクではない。今までの自分にはなかった新たな感覚ですね。いや、面白い世界です。
 これはもう、全て嫁さんのおかげですね。
 ありがたいです。
嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事も出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとめなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先ずっとです。』

(前同P142〜143)

あの庵野秀明にここまで言わせるというのは、相当なものなのだが、それでも『監督不行届』だけ読んだ印象では、安野モヨコがそこまで凄い作家という印象もない。内容が内容だけに表現が抑制されているとしても、庵野がここまで言うほどのものとは思わなかったのだが、しかし、私は安野モヨコの作品をろくに読んでいないから、そのあたりで安野モヨコの凄さがわかっていないだけかもしれない、とここまで考えたときに、そう言えば、昔、好きで安野モヨコの『オチビサン』を読んでいたというのを思い出した。
たしか、当時の既刊は全部読んで、年1冊の新刊待ちしている間に遠ざかってしまった作品だ。今でも、かなり気に入っていた「可愛いマンガ」という印象だけはあり、まただからこそ、それ以外の「女性向けマンガ」作品には見向きもしなかったのだが、私は『オチビサン』のどこに、あれほど惹かれていたのだろうと思い、この機会に再読しようと、ひとまず第3巻までを入手したのである。

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『オチビサン』は『『朝日新聞』に2007年4月から2014年3月まで連載され、2014年4月から2019年12月まで『AERA』(朝日新聞出版)に移籍して連載された。単行本は全10巻。』(Wikipedia「オチビサン」)の、カラー1ページもののマンガである。

登場人物は、主人公の「オチビサン」は、「鎌倉のどこかにある豆粒町」で一人暮らししている(たぶん)少年。いつも、赤白の横縞のシャツに黒パンツ、白いぼんぼんのついた赤白横縞のニット帽をかぶっている。
主な登場人物(?)は、同じ町内に住む、黒犬の「ナゼニ」。彼は、物事に興味を持って、それを本で律儀に調べるのが趣味の、本好きの真面目な犬。
もう一人(?)は、茶色のモフモフ犬「パンくい」。名前のとおり、パンが大好物で、いつも食べ物のことばかり考えている、マイペースの犬である。

この3人を中心に、四季折々の生活を面白おかしく描いたのが『オチビサン』という作品だと、いちおうはそう説明できるだろう。
しかし、この作品は決して「楽しい」だけの作品ではない。この作品に通奏低音として流れるのは「人恋しさ」だということを、私は今回の再読で確認することができた。そして、ここに、庵野秀明の言う、

『 嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事も出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとめなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。』

が、ハッキリと表れていた。

言うなれば、主人公「オチビサン」は、安野モヨコの内面の投影されたキャラクターであり、真面目な「ナゼニ」も、安野モヨコの性格を反映したキャラクターだろう。
一方、マイペースな「パンくい」は、この作品が、庵野秀明との結婚(2002年)後の2007年に始まった作品であることを知るなら、「好きなことしか考えていない」、ある意味傍若無人な「オタク」である庵野秀明を反映したキャラクターだと見ることも、十分に可能だろう。
そして、「オチビサン」と「ナゼニ」だけでは、その「孤独癖」から、ややもすると「しんみり」とした感じになるストーリーに、「パンくい」の、春のお日様のような温かさと陽気さが加わって、救いをもたらすことになるのである。

だから、『オチビサン』を読み返してみて思ったのは「庵野秀明と安野モヨコは、お互いに最高のパートナーを見つけたんだな」ということである。

『オチビサン』を読んでいてわかるのは、「オチビサン」や「ナゼニ」は、お互いに仲の良い友達がいるのに、いつもどこかで「人恋しさ」を抱えて生きている。しかし、それは単なる「寂しさ」ではない。単に、友達を大勢つくって、にぎやかな生活ができれば、それで満足できるようなものではない。

むしろ、「オチビサン」にしろ「ナゼニ」にしろ、「人恋しさ」を感じながらも、「一人でいることの静けさ」の中に、何か「大切なもの」を感じ、それが「大切なもの」だと理解して、そうした「寂しさ」を大事にしているし、「好き」だとまで言っている。

それは、まるで、人は「一人で生まれてきて、一人で死んでいくもの」だということをいつも実感しながら、しかしまた、それは単に「悲しむべきこと」ではなく、人間の生とは、死んでいくことも含めて素晴らしいものだと感じるからこそ、今この瞬間を大切にして、その時その時を精一杯に味わわなければならないのだと考える、そんな「人生観」や「生命観」の反映であり、その実感的基礎のようでもあった。
だから、オチビサンは、一人でいると「人恋しさ」を感じつつも「でも、これも生きているからこその、大切な実感なんだ」とでも思っているようであり、そんなあまりにも真面目で繊細な「生の肯定性」を、彼は生きていたのである。

そして、そんな繊細で真面目な人柄を、安野モヨコという女性に見ているからこそ、庵野秀明は「俺が守ってやりたい」と思ったのであろう。それほど、安野モヨコの中の「オチビサン」は、健気で愛おしい存在だったのである。

一般には、庵野の『自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先ずっとです。』というキッパリとした宣言は、少々嘘っぽく感じられるかもしれない。しかし、私には、この感情が、とてもよくわかる。
と言うのも、嫌悪すべき対象に向かっては、すべてを振り捨ててでもその嫌悪を示してしまうような、それを隠せないような「過剰な人間」というのは、その「攻撃性」の裏返しとして、自分こそが「守るべき存在」、自分にしか守れないと思える「弱いけれど、純粋で美しい存在」を求めているところがあって、少なくともそのあたりは、私は庵野秀明と似ていると思うからだ(庵野秀明の「師匠」の一人である宮崎駿にも、そうしたところがある)。

だから、私は、そんな庵野秀明は、安野モヨコと結ばれて、本当に幸せになったのだと思うし、その意味で、非常に羨ましい。
一方、「私は一人でも生きていける」と考えるようなタイプの安野モヨコが、庵野秀明という「パンくい」みたいな、ずうずうしい伴侶を得たことは、とても幸福なことだったはずである。安野モヨコのような繊細で遠慮がちな人間には、どんどん愛情を押し付けてくるくらいの存在が必要だったのだろう。だが、そんな人との出会いは、そうそうあるものではないからだ。

安野モヨコと庵野秀明は、良い意味で「巨大な、割れ鍋に綴じ蓋」だった。私は心から、そう羨ましく思うのである。

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(2021年12月7日)

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