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庵野秀明監督 『シン・仮面ライダー』 : 在りし昭和 の「理想と葛藤」

す映画評:庵野秀明監督『シン・仮面ライダー』

昨日『シン・仮面ライダー』を観てきた。
シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』と続いてきた「シン」シリーズでは、最も好きな作品となった。

前の2作は、それなりによく出来てはいるにも関わらず、ある種の「物足りなさ」を感じて、素直に「面白かった」とは言えなかった。だが、今作『シン・仮面ライダー』の場合は、多々ある欠点にも関わらず、作品としては、心から「面白かった」し、愛着のわく作品になっていたのである。

一一この「違い」は、奈辺にあるのだろうか。

公開初日(2023年3月17日)に観に行った友人と、まだ観ていなかった私は、一昨日、LINEで次のようなやり取りをした。

友人「さっき、(テレビシリーズ「仮面ライダー」の)蜘蛛男と蝙蝠男をYouTubeで見ましたが、確かにチープですね。以前に(テレビシリーズ「仮面ライダー」は)「視ないほうがいい」と言ってたのも、なるほどと思いました。^_^」

「同時代に子供が見るから、あれで十分だったんですよね。子供は想像力で補完するから。
でも、ウルトラシリーズなんかと比べると、作りのチャチさは否めません。大人には、そこが目についてしまいます。
したがって、庵野が映画で「再現」するのは、子供の頃に「感じた」、仮面ライダーの世界なんでしょうね。」

友人「ですね。だからこだわりが強いんです。
(オリジナルの)ウルトラマンゴジラはエンタメの要素がありますが、資金もあったでしょうね。
それに比べると最初の仮面ライダーは、低予算のテレビシリーズだし、石ノ森の漫画に近い。テレビのライダーは、どうしても石ノ森のテイストが強いですね。」

「テレビシリーズをそのまま再現するだけでは、それに「感じたもの」は再現できないから、そこが、もともとよく出来ていた「(初代)ゴジラ」や「ウルトラマン(やウルトラセブン)」とは違って、今回の『シン・仮面ライダー』は難しかったでしょう。客観的には、存在しなかったものを、再現するんだから。
「暗かった」とお感じになったのも、庵野が、最初の「仮面ライダー」しか持っていない暗さに、何より惹かれていたためでしょう。
今のような、明るく愉快な仮面ライダーは、庵野の仮面ライダーではなかった。
仮面ライダーは、孤独なヒーローであり、高倉健路線ですからね。」

このやりとりを読み返してみると、友人は『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』に比べると、『シン・仮面ライダー』は、誰もを喜ばせる「エンタメ要素」に薄かったと言っているのであって、「暗かった」とは言っていないのだが、私は、彼の言わんとするところはそうなのだと理解して、返信をしていたのであろう。

実は、この友人は私より3つほど年下なだけなのだが、子供の頃に「ウルトラ」シリーズや「仮面ライダー」などの「テレビ特撮ドラマ」を視ていなかった人なのだ。
彼に子供もできたのちに、私がそれを聞いて驚き、「ウルトラマンとウルトラセブンは、ぜひ視るべきだ。仮面ライダーはいま視ると、きっとチャチに見えるから、視ない方がいい。悪印象を持ちかねないから」というような助言をした結果、まず「ウルトラセブン」や「ウルトラQ」にハマり、怪獣映画として子供の頃から馴染みのあったゴジラの『シン・ゴジラ』はもとより『シン・ウルトラマン』まで視に行って、「面白かった」と言っていたのである。

つまり、大人になってから「ウルトラ」シリーズ知ったような人なので、原体験なしに、いきなり『シン・仮面ライダー』を観に行けば、「エンタメ」性に欠けて、「暗い」という印象受けるのも当然だろう。
だが、「仮面ライダー」の良さは、原作マンガから引き継いだ、ごく初期の、あの「暗さ」にもあって、庵野としては、そこは捨てがたかったはずだと、私はそう推測していたのである。

(『仮面ライダー』第1話「怪奇蜘蛛男」より)

そんなわけで、そうしたやりとりの翌日である昨日(2023年3月20日)、劇場に足を運んだところ、『シン・仮面ライダー』は、期待どおりに「本郷猛の葛藤」を描いて、とても良い作品になっていた。

また、それに止まらず、映画オリジナルといって良いであろう設定の、浜辺美波演ずる「緑川ルリ子」も、「私は、用意周到なの」という強がった口癖で自身を鎧ながらも、じつは人恋しかった可愛い女性として描かれており、「敵を殺してしまう暴力性」を持ってしまったことに、ナイーブに悩み苦しむ「コミュ障(真面目で不器用で無口)」な本郷猛との「ウブなペア」として、「今時では描きにくい、プラトニックな男女関係」を描いて、見事に「古き良き時代」を再現してもいた。

つまり、「昭和の(子供向け)ヒーロー(とヒロイン)」は、もどかしいまでに「奥手」であり、だからこそ「ロマンティックな関係」でもあり得たのだが、そのあたり機微を、庵野秀明監督は、失われた「夢」へのノスタルジーを込めて描いていたと、私は、そう肯定的に評価するのである。

だから、私が本作で評価するのは、そういう「仮面ライダーの魂(SPIRIT)」を再現していた点であって、「オタク・マニア的な要素」の部分ではなかった。
それだけで満足できるのなら、『シン・ウルトラマン』にも満足できただろうが、私の期待したのは、「マインド」であり「スピリット」の再現だったのである。

またそんなわけで、私が、この『シン・仮面ライダー』の中でも特に好きなエピソードは、幼い頃からショッカーで同じように育った「旧友」であるハチオーグを、ルリ子が倒しに赴くシークエンスだ。

ハチオーグの基地に乗り込む前、ハチオーグがルリ子の旧友だと知った本郷は、ルリ子に「まず、投降を促すのか?」と尋ねると、ルリ子は無表情に「それは無理だから、彼女は私が倒す」と言い切る。
基地に着くと、待っていたハチオーグは、ルリ子に「待っていたわ、ルリルリ。戻ってきてくれるんでしょう、ショッカーに?」と尋ねるが、ルリ子はそれを拒絶する。
しかし、本郷・仮面ライダーとの戦いになって、ハチオーグがしとめられそうになった時に、ルリ子は目に涙をにじませて、ハチオーグに投降を促すのである。だが、当然ハチオーグはそれに応じず、仮面ライダーに倒され、ハチオーグはルリ子に見守られながら死んでいくのだ。

このエピソードは、たぶんテレビシリーズ第3話の「怪人サソリ男」のエピソードを下敷きにしている。そちらでは、サソリ男は、本郷の旧友であり、本郷は心ならずの、旧友を「殺さないでは済まされなかった」。

したがって、私にとって『シン・仮面ライダー』の最大の魅力とは、この「暴力使用についての、人間的な葛藤」ということになる。

この問題は、「ヒーローもの」の作品には必ずついてまわるものなのだが、しかしこの難問が、完全に解決されたことなど、かつて一度もない。

本作『シン・仮面ライダー』でも、本郷猛はその「非暴力平和主義」と「平和を守るための暴力」との間で葛藤し、最後は苦渋の選択として、後者を引き受けることを決意する。

つまり、「ヒーローもの」を成立させるためには、これはどうしても避けられない選択なのだから、多くの「ヒーローもの」では、この「理想と現実との葛藤」を描いても、たいがいの場合、そう深くは掘り下げない。
掘り下げたところで、結論は同じであり、しかし、そのためにドラマは「暗くなって(痛快さを失って)」、エンタメ性を下げてしまうからである。

しかし、本作ではその問題を、本郷猛を演じた、池松壮亮のキャラクターとその演技で、見事に描き切っていた。
ここまでナイーブに「理想と現実の狭間で葛藤」し、涙さえ流すヒーローなど、長らく描かれては来なかったはずだ。

本作の本郷の場合、最後は「平和を守るための暴力」を引き受ける決意をする、とは言っても、それで「暴力使用」の「免罪符を得た」ということではない。
彼は、敵を「殺す」たびに、その事実に苦しむヒーローであり続けた。
決して「理屈で割り切って、それでおしまい。さっぱりさせた」というような「ニセモノの葛藤」しか経ないような、クールなヒーローではなかった。

作中でも語られるとおり、それが弱さでもあれば強さでもある「優しすぎるヒーロー」であり、本作の「意外な結末」もまた、そこから逆算された、必然的なものだったのであろう。

ともあれ、こうした本郷の葛藤とは、まぎれもなく「あの頃の日本」が、本質的に抱えていた葛藤であった。

「日本国憲法」前文に「絶対平和主義」と「戦力の不保持」を掲げながらも、それに矛盾する「自衛隊という暴力装置」を、平然と併せて持っていた、日本である。

たまたま、いま読んでいるのが、「安倍晋三元首相暗殺事件を予告した小説」として、いったんは刊行されながら、すぐに回収されてしまった、樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』なのだが、この現代を舞台にした小説は、「右翼テロリスト青年の一人称」で書かれており、その語り手によって、次のような「パヨク(左翼)批判」も語られている。

『 本当の本音を言うと、みんな戦争がやりたいのだ。
 戦争大好き。戦争をやってみたい。
 スピルバーグ宮崎駿も戦争がやりたくてしょうがない。
 スピルバーグは『1941』『太陽の帝国』『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』で第二次世界大戦を描いてきた。特に『ライアン』はそれ以降の戦争映画の描写を一変させた。吹っ飛ぶ肉片と血飛沫に戦場の真実を切り取った。
「戦争は人が死ななければ最高の野外劇だ」はヘミングウェイだが、それではダメなのだ。それぞれに物語を背負っていた人たちが人格も人権も無為にむざむざ大量に斃れてこそ戦争なのだ。ヘミングウェイ、甘い。
 宮崎駿も『ナウシカ』や『もののけ姫』で戦場を描いた。『紅の豚』と『風立ちぬ』は宮﨑駿が世代的にどれだけヒコーキ乗りになりたかったのか、よく現れている。
 スピルバーグと宮崎駿は、「でも絶対に戦争はやってはいけない」と思っている。だから彼らは自分たちの作品でやった。
 スピルバーグと宮崎駿はいいだろう。自分の作品で戦争を作り出すことができる。ならば戦争をやってみたい凡人はどうすればいいのか?
 有史以前より、戦争には抗えない魅力がある。
 戦争は大きな物語を作る装置である。つかこうへい曰く、「戦争はそこらの兄ちゃん姉ちゃんを世紀の悲劇のカップルにすることができる」。
 オーソン・ウェルズの『第三の男』観ろ。「ボルジア家に圧政された三十年間、イタリアはミケランジェロやダヴィンチに、ルネッサンスを生んだ。スイスの五百年の平和と民主主義は何をもたらした? 鳩時計だけだ」
 文学と映画で傑作と呼ばれているものはほとんどが戦争と差別を描いたものだ。戦争と差別は文化の必要悪だ。みんな勇気を出して真理の声をあげるべき。
 一方でこういう意見があるだろう。「戦争ほど理不尽で非合理で不条理でバカバカしいものはない」。しかし、「理不尽で非合理で不条理でバカバカしい」ものほどハチャメチャで面白いのと同じだ。
 戦争は究極の不条理。不条理でしか強い物語は生まれない。
 それに戦争をやりたいのは政治家、軍人、愛国者だけではない。先日NHK教育の市川房枝をテーマにした番組で脳科学者の中野信子が言っていた。
「オプションにサラダを付ける人ほどカロリーが高い食事を摂る。貧乏人ほど喫煙者。平和主義者ほど平和のためなら戦争も辞さない」。鋭い。
 何かと言えば国会前に集まってデモをする連中も、いざというときにはどんな方便を用いてでも原爆を投下するだろう。』(P30〜32)

つまり、「平和主義者・暴力否定論者は、偽善者だ」と、作中の「右翼テロリスト青年」に言わせているのである(もちろん作者は、語り手を批判する立場から書いている)。

たしかに、こうした側面のあることは否定できないし、そればかりではなく、その「矛盾」に気付きさえせず、「高度経済成長」や「バブル経済」に踊っていたのが「昭和世代」だ、という側面さえあるだろう。

だからこそ、経済的に行き詰まって、「理想」ばかりを語っていられなくなると、途端に多くの人は「現実主義」に傾いてゆき『同情するなら、金をくれ』というのが、偽らざる現実であり「本音」であることを認めざるを得ないわけにはいかなくなった。

だからこそ、安倍晋三元首相のような反動主義的ネオリベラリストが、大衆的な支持を得た、という事実は否定できない。
その結果が、「自衛隊の憲法明記という憲法改正への流れ」であり、「日米軍事同盟の自覚(日本の平和は、アメリカの核の傘に守られてきたことの自覚)」であり、さらに「防衛力の増強の必要性」であり、「非核三原則」や「兵器開発や製造輸出の禁止」の実質的廃止といった、「戦争のできる国」への一連の流れである。

要は、「現実を見よ。自衛のためには、戦力(暴力)は必要であり、戦争も必要なのだ」という「本音」主義に、日本は染め上げられていくことになったのである。

しかし、それで本当にいいのだろうか?

「殺すか殺されるかの二者択一」「本音と建前の二者択一」「善か悪かの二者択一」「白か黒かの二者択一」、そして「絶対平和主義か対抗暴力是認かの二者択一」。一一それで、本当にいいのか。

仮面ライダー本郷猛は、その「二者択一」の狭間に立ち尽くして葛藤し、やむなく「対抗暴力の是認」を選ばなければならなかった。

本作『シン・仮面ライダー』では、本郷の父親は、「交番のおまわりさん」だったという設定になっている。

その本郷の父は、通り魔犯が女性の首に刃物を突きつけて人質にした現場に駆けつけ、犯人の説得による人質の救出を目指した結果、女性を救出したものの、自らは犯人の凶刃に倒れて殉職してしまう。

彼は拳銃を携帯していたものの、驚くべきことに、最後までそれを抜く気などなかったような人だった。人質を助けるためには、犯人の射殺も「やむを得ない」と考えられるような人、ではなかった。
人質の命と同時に、犯人の命も同等に大切であり、二人とも助けようとして、自らが死ぬことになったような人だった。
そして、犯人に刺された彼は、死ぬまで、残される自分の家族のことではなく、人質女性と犯人の安否を気遣っていたような「心優しい理想主義者であり、お人好し」だったのだ。

本郷猛は、そんな父親のあり方について「僕は、父のように優しい人間になりたいし、父とは違って力を使えるようになりたい」だから、力が欲しかったのだと語っている。

つまり、彼は、それを「矛盾」したことだと理解し、かつそれを抱え続けたまま、その「矛盾葛藤」を捨てることなく「対抗暴力を是認」した、「葛藤に生きること、その矛盾に引き裂かれ続けること」を選んだ人なのであり、決して、単純かつ論理的に、つまり「二者択一」的に、「対抗暴力の是認」を選んだ人ではなかったのだ。

殺した相手の血に怯え、自身の罪に苦しみ、理屈ではぬぐいきれない後悔に、涙を流して苦しむ、「父(昭和の理想主義者)」の血をひく「子供」だったのである。
一一だから、私はその「割り切れないリアリズム」に共感し、感動した。

実際、私自身「絶対平和主義の非暴力主義者」であり、だからネット右翼などからは「パヨク」と呼ばれてきたのだが、しかし、「暴力性」に惹かれない人間などでは、決してあり得なかった。

私を知っている人ならご承知のとおり、私は昔から、誰よりも「喧嘩っ早い」人間であり、「敵を叩きのめすことに快感を覚える」人間であり、「必要とあれば、(合法的に)敵を殺すことも躊躇しないだろうと自認する」人間である。
ただし、平時の「暴力」は否定するから、その妥協点として「筆(言論)で殺す」ことなら許されると考え、自らにそれを許したのである。

だが、こんな私でも、それを「望ましいこと」だとは、少しも思ってはいない。
出来ることならば、本作『シン・仮面ライダー』の本郷猛のように、心の底から「非暴力でありたい」と願い、「誰にも優しい人間」でありたいと、そう願う部分が、たしかにある。

その「願い」が嘘ではないというのは、私が、湯浅政明監督の『DEVILMAN crybaby』で描かれた、デーモン族の勇士アモンに取り憑かれる前の、心優しい「泣き虫少年」だった頃の不動明に、どうしようもなく惹かれる、という事実がある。

(死んだ仔犬を入れた段ボール箱の前で泣き止まない幼い不動明と、傘を差し掛ける飛鳥了)

私にとっては、仮面ライダー本郷猛も、デビルマン不動明も、「理想と現実」「平和主義と暴力」の「二極」に引き裂かれながらも、その双方を身に帯び、その「矛盾」を引き受けて戦った、「昭和のヒーロー」だったのである。

だから、私は、「オタク・マニア」的な側面でもなければ、単なるノスタルジーからでもなく、今もそのまま続いている「矛盾」を再確認するものとして、「矛盾した人間存在」をリアルに描いた作品である本作『シン・仮面ライダー』に共感し、感動したのだ。

私はずいぶん以前に、マンガ家村枝賢一の作品『仮面ライダーSPIRITS』を論じて、それを「仮面ライダーSPIRITS! ——わが胸に受け継がれたし魂」と題したのだが、本作『シン・仮面ライダー』のラストで描かれるのもまた、そうした「仮面ライダーSPIRIT」の継承だったと言えるだろう。

本作『シン・仮面ライダー』のエンドロールで流れる、テレビシリーズ『仮面ライダー』のエンディングテーマ「ロンリー仮面ライダー」の歌詞にあるとおり、昭和の時代に生まれた「仮面ライダーSPIRIT」とは、「心ならずも、平和のための暴力を引き受けて戦う」という「悲しみ」を抱え、それを決して「忘れない」精神であり、そんなナイーブなまでの「優しさ」なのではないだろうか。
そしてそれは、決して「自虐」などではないと、私はそう信じているのである。

『 「ロンリー仮面ライダー」
(作詞:田中守、作曲:菊池俊輔、歌:子門真人

荒野をわたる風 ひょうひょうと
ひとり行く ひとり行く
仮面ライダー
悲しみを 噛みしめて
ひとり ひとり 斗う
されどわが友 わがふるさと
ひとりでも ひとりでも
護る 護る 俺は 仮面ライダー 』


(2023年3月21日)

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