安田浩一『団地と移民 課題最先端「空間」の闘い』 : 夕暮れに曙光を見る
書評:安田浩一『団地と移民 課題最先端「空間」の闘い』(KADOKAWA)
『団地ともお』というテレビアニメを何度か視たことがある。小田扉の同名マンガをアニメ化した作品だ。
Wikipediaによると、
とある。
私が数回アニメをみた印象では、『団地ともお』は、『ちびまる子ちゃん』のように、ことさら「過去の時代」を舞台にした作品ではないようだ。たとえ、原作者の子供時代をモデルにしていたしても、である。
だが一方で、団地に子供たちが駆け回り、みんながにぎやかに暮らしているという「無条件の明るさ」において、やはりその根底に「ノスタルジー」が秘められているというのは、否定できないようだ。
本書『団地と移民』でも、次のような描写があった。
この風景は、『団地ともお』の世界よりもずっと昔の、団地の黎明期のものだろう。
だが、この「男子と女子が手をつないで歩く」団地ごっこというイメージから私が連想したのは、昔はわりと陳腐なものであった「若い両親に挟まれて左右の手をつなぎ、それにぶら下がって戯れる子供」というイメージだった。これは「ニューファミリー」を象徴するものだったのだろうが、最近はめっきり目にする機会がなくなった。
また、ついでに書いておくとテレビアニメ『ルパン三世』の1st.シリーズでは、ルパン、次元、五右衛門が「肩を組む」姿が描かれた。アニメ『ゲッターロボ』のオープニングも、主人公の三人が「肩を組む」カットから始まった。
そう、あの頃は「肩を組む」というのが流行ったが、今はもう誰もそんなことをしない。
このように、あの時代は「人と人との距離」が、たしかに近かった。人に触れることを怖れなかった。
しかし、今の時代は、ネットというメディアを介した距離なら極端に近かまったものの、人間の身体的な距離は、確実に離れてしまった。肌を接する「ふれあい」というものが無くなってしまった。
このように「分断された人間社会」というものを象徴するのが、今の「団地」かもしれない。
そこには、ともおもルパンも龍馬もいない。彼らの笑い声も熱い情熱も、すでにない。「団地」は夕暮れの時代を迎えてひさしく、良くてノスタルジーの対象にしかならない。
それでも、そこで今も生きている人たちがいる以上、私たちは「昔を懐かしむ」だけでは済まされない。夕暮れの向こうに曙光を見、それを信じなければならない。
「現代の日本社会」に問題意識を持つ人なら、本書から得られる「新しい知識」は、さほど多くはないかもしれない。
しかし、大切なのは「新しい知識」ではないだろう。本書から、私たちが知るべきことは「今もそこで生きている人たちがいる」ということであり、彼らの「声」である。
「呼びかけ」に応じること。それが今を生きている私たちに、必要なことなのではないだろうか。
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